一
この中つ国に穂の国からやってきて十日程が経った。日々やることと言えば、起きて朝餉を食べて、この中つ国の歴史や成り立ち、そして皇としての振る舞い方などの講義を受ける、そして華々しい布に囲まれて衣装の採寸を受けるということに終始した。この国の人たちは緋禾を皇として取り扱うつもりはあるらしい。
多少人と接するようになったと言っても、相変わらずこの舎から出ることはなく、庭にすら降りることが出来ない毎日は、少しずつ緋禾の神経をすり減らしつつあった。
王宮暮らしに退屈しきっていた緋禾であったが、しかし、稲日がようやく戻ってきたことで一応の落ち着きは見せていた。
――はずだった。
「え、大王様と対面したの?」
「しっ!姫様、声が大きゅうございます!」
近くに人がいないこと、そしてようやく稲日と二人になれたのをいいことに、緋禾は盛大に声を上げた。それを稲日はぶんぶんと手を振って宥める。
「だから!違うのです。対面したと言っても、厳重に御簾が張り巡らされておりましたし、お言葉も直接かけられずに間に近習の方が立っておられましたし…」
「私にはそんな機会一度たりとも与えられなかったけどね」
憤慨してそっぽを向けば、おもしろいくらいに稲日は慌てた。こちらは何日も彼女がいなくて、退屈で痛みも不安も分け合えなかったのに、主よりも先に大王の近くに寄れたとは納得いかない。幼子のように唇を突き出した緋禾を見て、稲日は宥め賺すように緋禾の両手を握りしめた。
彼女から聞くところによると、大王自らの呼び出しであったという。さぞこの純粋な端女は慌てたことであろう。少しだけ同情して緋禾はため息を一つつくと、稲日に向き直った。慌てふためく稲日を見れば、何となく心も落ち着いた。
今度こそ、今までの放置状態は何なのか、これからどうすればよいのか、そのたぐいの話を大王がしたと言うのだ。今は拗ねずにこれを聞く方が優先だった。
「…で。大王様は何て?」
時刻は南中を少し過ぎたところだった。稲日は緋禾の昼餉をもって現れ、少々行儀は悪いがそれを咀嚼しながら緋禾は話に耳を傾けた。稲日は居住まいを正すと、一言告げた。
「姫様には次のお言葉をくださりました。」
「なんて?」
「『近日中に訪れる』と」
「…で?」
「それだけです」
あまりにもぴしゃりと稲日がそう言うものだから、思わず緋禾は「そんなわけあるか」と膳をひっくり返しそうになった。が、いくら何でもそんな後始末の大変なことはしたくないので、顔を顰めるに留めた。大人になったものである。
「本当に、それだけ?」
押し殺した緋禾の声に、稲日も思うところはあるのだろう。心底悲しそうな表情をして「すみません」と項垂れた。緋禾は箸を膳に戻して、稲日の肩をそっと揺すってやった。緋禾とそういくつも年が離れていない稲日は、不安そうに彼女を見上げた。ここは、稲日にとっても未知なる場所なのだ。
この大陸の中心である王宮は、いわば彼女たちにとって魔の巣窟とも言える。何が待ち構えているのか分からない。
上手くいかない数々のことを、稲日に解決してもらっている場合ではない。あまりにも理不尽すぎる対応に、緋禾は危うく関係ない稲日を責めるところだった。
「…ごめんなさい、稲日。あなたも他の采女たちに辛く当たられているんでしょう?よくやってくれたわ。大王に目通りが叶ったなんて、一生の自慢じゃない?」
にやりと笑ってそう言ってやると、稲日は少々寂しそうにしながらも笑顔を見せてくれた。皮肉ともとれそうな緋禾の言葉を、稲日は心のままに素直に受け取ってくれる。
「…いいえ。姫様の方がお辛いでしょうに。私、一言だけ大王様に物申し上げることを許されたんです」
「あら…何と言ったの?」
首を傾げて緋禾が問うと、稲日はこっそりと内緒話をするように緋禾に耳打ちした。
「『姫様を、どうか大切になさって下さいませ。あのお方は天の御神に愛された姫君なのです』と。大王様は『心得ている』と、仰ってくださいましたわ」
***
(…私よりも肝が据わっているわ、稲日は)
薄物の掛布の中で寝返りを打ちながら、緋禾は冴えた目を瞬かせた。体を動かすことを久しくしていないせいか、夜になっても眠りへと誘われる気配は微塵もない。穂の国にいた頃は、一日海や山で遊べば夕餉を食べた後すぐに眠ることができていた。頭ばかり使って、精神的な疲れは緋禾を眠りの世界に誘うことをしてくれない。半ば、眠ることに諦めて今日あったことを思い返していた。
思い返すと言っても、稲日との会話に終始してしまうことがなんとも情けない。日々の出来事は波風もなく凪いだ状態が続いているのだ。当の稲日はというと、采女たちが夜居する室へと引き上げてしまい、今は夢の中なのであろう。彼女らはいつも暇をしている緋禾とは違い、主人のために食事の用意やら掃除やらお相手やらと忙しく過ごしている。
身分が高く、こんな豪華な室で生活しているが、緋禾にとってはこれが苦痛でしかない。最近は我慢も限界に達そうとしている。
(とにかく、この現状を打ち破らなきゃ何も始まらないわね…)
大王はいずれ緋禾のもとへ訪れるという。明日なのか、その次の日なのか全く予想も出来ないのだが、その時には大王に問いたださねばならない。
何のために緋禾をこの地へと招いたのか。祝言を挙げるという本当か嘘かも分からないような「褒美」を父へと与えてまで、緋禾に一体何をなそうとしているのか…
そこまで考えて、緋禾はむくりと身を起こした。どうにも今宵は眠れそうにない。さまざまな考えが頭を巡り、そのせいで少しだけぼぅっとしてしまう。水を飲んで朝を待とう。
そう思って、枕辺の水差しへと手を伸ばそうとした時。
ふわりと、視界の横を何かが横切った。緋禾は、息を詰めてそちらへと目をやり、さっと几帳の薄布をまぐった。まだ依然として夏の暑さが夜になっても引かないため、采女の手によって蔀は半分ほど開かれている。緋禾はその隙間にじっと目をこらした。
「…何?蛍かしら?」
視線の先、そこに漂っているのは、ぼんやりとした淡い光。意志を持たぬようにふわふわと庭を行ったり来たりと繰り返している。
(…ちがう)
緋禾は自分の見解を咄嗟に否定した。蛍の時期には、そう反していない。しかし、それは明らかに蛍とは異なっていた。小川のほとりを明滅しながらちらほら飛ぶ蛍とは思えない。
その光は蛍にしては大きすぎた。人の頭一つ分はあろうかという淡い光が、まるで緋禾の寝所に入り込もうとしているように漂っている。それを認識した途端、緋禾の背中を怖気が走った。恐怖のうちに緋禾が思い立ったのは、いつか采女がしていた妖の話。魂を食われるという不審死の話だ。
普通の貴族の子女ならば、ここで寝台に潜り込み掛布にくるまる展開だろう。しかし、緋禾を一介の乙女とするには、あまりに彼女は好奇心旺盛で、無垢だった。緋禾は寝台から腰を上げ、そろそろと縁に近づいた。その光は、緋禾を誘うように庭の中央でゆらゆらと揺れている。
普段なら、絶対にこんなことをしようなんて、思わなかったに違いない。自国の評判もかかっているのだ。好奇心旺盛で何にでも興味を持つし、考えるよりも体が動いてしまう質だが、わざわざ大陸の中核をなす人物の言いつけを破ってまで、この光を追おうとするなんていうことはしない。
考え直そうとした時には、もうすでに緋禾の足は地面についていた。いつの間にか階を降り、裸足のままで光に誘われていた。魅入られていた。
幾日ぶりかの土の感触、それに感動を覚える暇もなく緋禾は光の方へと体を向けた。こっちだよと呼ぶように、それは庭を通って築地の方へと向かっていく。緋禾は急いでその後を追った。夜着のままだとか、誰かに見つかるかもしれないとか、そういう思いは今は頭の中から閉め出したかった。
緋禾のために与えられた舎は、大変広い。庭も、もちろん広い。けれど、光は迷うことなく東を目指した。そこは、誰かが渡りくる廊とは正反対の方角だ。人目につきにくい、茂みの陰になっているところで、光は不意に消えた。まるで築地の向こう側に吸い込まれていったかのようだ。
そこまで茂みをかき分けた緋禾は思わず息を詰めた。
「なに…これ」
緋禾は呆然と立ちつくした。初夏の生ぬるい風が首筋を撫でて、無意識に両腕を擦る。茂みをかき分けて、庭の東極まで来たことは薄々理解はできた。立派で豪華であるはずの妃の舎。そこを守るようにして廻らせている強固なはずの築地の下方には、人ひとりが通れそうなほどの崩れが出来ていた。