五
稲日から言葉がかけられてから輿を降りるまでに要した時間は、緋禾の神経がきりきりと引き絞られるほどに長かった。緋禾はその間ずっと緊張感に苛まれ、今か今かと冷や汗を拭い続けた。図太い神経をしていると言っても、所詮田舎の小国の姫に過ぎない。本来であれば、こんな大国の王に嫁ぐ確率が最も低い存在である。
そんなことをつらつらと考えてしまうくらい、城門から路を通って王宮に着くまでが果てしないほどの道のりだった。
道はきれいに整備され、攻めにくいように壁を幾重にも巡らせ、いくつも門をくぐる必要があった。それが、中つ国の国力とも言うべきものだった。広大な平野に都を構え、後ろには神山を背景にして壮大な王宮が人々を街を見下ろしている。
声がかけられてから半刻経ってようやく人々の足が止まり、輿が地に着く感触が緋禾にも伝わった。がやがやと人々の喧騒が耳に入り、緋禾は身を乗り出さないように必死で自分を戒めた。ここで好奇心に負けると、いい笑い者だ。
「姫様。お降りになって下さい」
ようやく、稲日からそう声をかけられた。新しい環境と、これから待ち受けているであろう出会いに、不安と緊張と、少しの期待をにじませながら緋禾は簾が引き上げられるのを待った。しゅるしゅるという音と共に外の空気が輿の中まで入り込む。緋禾は正座の足を崩して、ゆっくりと外に足を出した。しかし、数日振りに日の光を浴びて地面に降り立つと無様にもふらついてしまう。稲日の衣裾にしがみついて、緋禾はきちんと地面に足の裏をつけた。
目を上げると、一瞬にして人々の喧騒は遠のいてしまった。
圧巻。それ以外にこ景観を表現する言葉を、緋禾は持っていなかった。今緋禾が立っている場所は、庁舎が並ぶ朝堂院を抜けた位置にある太極殿の前庭となる場所。それだけで、緋禾の生まれ育った家が三つは入ってしまいそうな広さである。敷き詰められた砂利も、日の光を受けてきらきら輝くように美しい。
いや、この場所にあるもの全てが輝いているように見えた。
緋禾の正面にあるのが、朱に塗られて高床に作られた大極殿正殿である。ここで国家的儀式や戴冠も行われるとは聞いていたが、これほどまでに麗しく、壮大なものだとは誰が想像できようか。緋禾は開いた口が塞がらず、後ろから豊彦に諌められるまできょろきょろと周囲を見渡すことを止められなかった。これだけで、王宮の一部だというのだから、あとどれだけこんな豪華な建物があるのだろう。あまりにも大極殿は広大すぎて、わかるのは瓦の屋根が城壁の向こうに見えるくらいだ。呆気にとられて、あれ程感じていた緊張感すら、彼方に飛んでいってしまった。
そこでまた豊彦の叱責が飛んで、緋禾は肩を竦めて大人しく前を向いた。旅の荷解きにかかっていた人々が波を打ったように静まり返ったのは、それから少し経ってからだった。まるで本当の波のように、人々が順々に膝を折って拝礼の形をとる。その様子に感心して見入っていた緋禾は完全に遅れをとってしまったが、傍の稲日が裳裾を引くのと同時に視界の端にある存在を見とめて、緋禾もようやくそれに倣った。
人々の非難の目が緋禾に向けられたが、緋禾は気にしなかった。
ここまで来て自由気ままに振舞おうとする娘に、慌てたのは豊彦ただ一人である。
そのまま、完璧な静寂が辺りを包んだ。緋禾は、その身に大きな威厳と威圧を感じていた。これほどまで無言の内に相手を支配することができる人物など、他にいるのだろうかとさえ思う。やがて、そこに現れた人物は御簾の奥の椅子に腰掛ける。それを確認して、階の上にいる伝令役が静かな声で命じた。
「面を上げよ」
大王の声は、一介の使用人達が聴くことは叶わない。側に使える役人が、伝令し意を伝えるのがこの大国の定石であった。顔を上げ、改めて御簾越しに大王の顔を拝しようとするが、勿論表情まで窺い知ることはできなかった。けれど、自然の中で育った緋禾は常人より目が良い。御簾越しでも、大王の容貌は確認することが出来た。そして、自然と眉根は中央の寄る形になる。
(…確か…大王は今年で御歳二十二になられたと聞いていたけど…)
目の前に威厳をもって立つ男は、どう見ても四十代程度に見える。抗いがたい雰囲気を持っているからか、けれどそれを差し引いてもとても戴冠して三年目の若き王とするには、些か無理がある。老成した雰囲気に、蓄えられた顎髭、そして目元には隈が浮かんでいる。若い日に苦労して老けこんだとか、と妙な憶測を巡らせていると目の前の大王(と思しき男)が、衣を払って動いた。
「そなたが穂の国王、青海豊彦の娘御であるな?」
伝令役の威圧的な声は、大王の威厳をそのまま民に伝える役でもある。緋禾はなかなか好きになれない声だと思った。そこは引っかかるところだが、緋禾は豊彦がはらはらと見守る中、儀礼的に礼をとった。
「はい。私が穂の国王・青海豊彦の娘にして穂の国三の姫・緋禾と申します」
涼やかによく通る声でそう言い、緋禾は静かに頭を下げた。目の前の男は、一つ頷くと再度顔を上げるように言い、緋禾の体を上から下まで舐めるように眺めまわした。悪態をつきたくなるのを堪えながら、緋禾は目をそらさずに男を見続けた。もし、この人が自分の夫となるのなら、自分は果して耐えられるのだろうか。生涯この人に尽くすことや――初夜のことも。
けれど、男は緋禾のそんな思いを知ってか知らずか、右手を前に伸べて伝えさせた。
「…長旅の疲れもあろう。ゆるりと休み、婚儀に備えよ」
そして、周りでまだ跪いている人々に「ご苦労であった」と一言だけそう言うと、自分は早々と衣を翻して建物の中に消えて行ってしまった。唖然と見送っているのは、緋禾と稲日くらいである。周囲の衛士や、付添いの卑女や釆女やらは馬の荷解きと王宮に上がる準備を素早く始めた。緋禾付きの一人の釆女が、緋禾を住まいへ促そうとするが、その前にどうしても聞きたいことがあった。
「…父様」
「どうした」
「…あの方…あの方が、大王様?私の夫となられる?」
自分の馬の手綱を傍に居る近待に渡していた豊彦は、娘の呼びかけに少しだけ煩わしそうに振り向いた。
さもこれから忙しくなるのにと言いたげな顔は、この際無視した。こちらの混乱を収めるほうが先である。緋禾の問いに対して、豊彦の答えはあまりにも簡潔だった。
「まさか。あのお方は先代大王――今の大王の父君であられる。武龍帝だ」
現在は隠居しておられがな、と何でもないことのように言う。緋禾は正直、拍子ぬけしてしまった。あんなにも大王に会うことを恐れ、緊張で張り詰めていたというのに。あれが現在の帝・知徳帝の父親であるなら、あの容貌も納得できる。しかし、何だか騙されたような気分だ。尤も、あのような年老いた男に嫁ぐわけではなかったのだということには安堵したが。
(…じゃあ、本当の大王はどこにいるのかしら)
少なくとも、緋禾はあちらに請われて嫁に来た身である。もちろん、大王自身が迎えるだろうと、そう思っていた。弱小でも緋禾は一国の姫であることに間違いはない。けれど、これは見くびられたと思っていいのだろうか?先代の大王が迎えに出たことは、そのどちらにも取れなくて緋禾は頭を抱えたくなった。とりあえずは、自分の夫になる男にはあまり多くを望まない方がいいという事は何となく分かった。
緋禾は何とも言えない気分で、「みっともない真似はするな」と厳しく言い置いて足早に立ち去った父を見送り、「さあさあ早く」と促す釆女に従い前庭を離れた。
緋禾が通されたのは、渡殿を延々と歩き続けた先にある、王宮でも最も奥まった位置にある館だった。もう二度と先ほどの前庭には帰ることはできまいと密かに思いながら、緋禾はその室の中に入った。
中には、緋禾が今まで一度も目にしたことが無いような調度品がずらりと並んでいる。見事な色彩の衝立、柔らかそうな敷布がある寝台、色とりどりの衣服。調度の良し悪しなど緋禾には分からないが、これらがとてつもなく豪華で高いことは分かった。そんなところばかりが目について、貧乏根性が表に出てしまわないように、気を引き締める。
釆女はこれが緋禾の居室だと言うと、そのまま引き下がろうとするのを、慌てて緋禾は呼びとめた。
「ちょ…待って。これから私はどうすればいいのかしら?父様も先代の大王様も、何も言い残して行かれなかったから」
緋禾が言うと、釆女は少し困ったような顔をすると首を傾げた。
「わたくしも、詳しいことは聞き及んでおりません。とりあえずは旅の汚れを落として、お休みになられては?」
緋禾は思わず口をあんぐりと開けてしまいそうになるのを、必死に押し留めた。何も聞いていないし、指示されてもいない?そんなことがあるわけない、と言いたくなるのも何とかこらえた。
「じゃあ、婚儀は…?今日?それとも明日?」
緋禾はそのために大好きな故郷を離れて遥々ここまで来たのだ。まさしく断腸の思いであるのに、釆女は澄まして首を傾げ続けた。暗に分からないと伝えたいのだろう。良い根性だ、と緋禾はいつものように淀みなく言いたいことを口にしようとしたが、そこは気配を察した稲日にあっけなく抑え込まれた。
「…そ、それでは、湯だけでも用意して下さりませんか。姫様も湯浴みをなさりたいでしょうから」
ね、と必死な瞳で同意を迫られると、緋禾も頷くしかない。諦めたように頷いたのだが、返ったきた返事はあくまで冷たかった。
「申し訳ございません。室に湯を運ぶのには今丁度人手が足りておりませんの。湯殿まで足をお運びいただかなくてはなりません」
もしそれでもよろしければ、ご案内いたしますわと、今まで見たこともないように、綺麗に笑って見せた。ここで是としておかなければ、湯にゆっくり浸かることもできないのは容易に想像できた。稲日は横で驚きに目をぱちくりさせているが、緋禾は募る怒りを押さえながらその案内に従うほかないと、案内を頼んだのであった――釆女の性格の悪そうな笑顔からは目を背けて。