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空をゆく、仄か緋を  作者:
中つ国
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穂の国の都・水穂から、中つ国の都・泰和へは北へ十日ほどの距離である。しかし、それは馬を駆れば、の話である。徒歩で行けば、その三倍はゆうにかかる。豊葦原の大陸の中心にある中つ国は、三方を山に囲まれた自然の要塞の中にある。馬ですらその山越えには難を要するというのに、それが輿を担いだ人足や世話をする女、騎馬隊を連れていればおよそゆったりとした旅路となるのは言うまでもない。


緋禾が様々な人に祝福されて水穂を発ってまだ五日しか経っていない。もう既に輿に揺られるだけの生活に飽きた緋禾は、窮屈な「檻」の中で大きな息の塊を吐き出した。まだ国境を出ていないことが、肌に触れる空気で分かる。そっと小さな窓にかかった簾を上げて緋禾は外を覗き見た。


「如何なされました、姫様」


少しでも輿の中から動きがあれば、瞬時に反応してくるのは稲日だ。稲日は大王が遣わした采女が悠々と輿に乗って付き従ってくるのとは反対に、徒歩ですぐ緋禾のすぐ傍について、片時も離れようとはしなかった。疲れてしまうし、万が一のことがあってはならないのだからと、緋禾が馬に乗ることを勧めてみても、彼女は頑として首を立てには振らなかった。主人に似て頑固な性格である。

しかしながら、故郷を離れ、知らない人々に囲まれる毎日の中で、稲日がそうしてくれることは緋禾にとってとても有難いことだった。


中つ国からも世話をする采女は多く遣わされたが、主に緋禾の世話を焼くのは稲日一人の仕事だった。その采女達は、己がこれから仕える主のことよりも自分の事で精一杯らしい。

やれ穂の国は暑すぎるだの、そのせいで体調を崩しただの、化粧が崩れるだの、全く以ってまともな働きをしない。きびきびと動くときは、同行して中つ国に参内する豊彦の目がある時だけだった。よくもまあそんなにも態度を瞬時に変えられるものだと、緋禾は逆に関心してしまうほどだ。


けれど、放っておいてくれるならこれほど有難いことも、またなかったのである。大王が遣わした女達は、一様に緋禾を小国の姫に過ぎないと見下しているようだし、そもそも表情をピクリとも動かさない彼女たちとは馬が合わないのだ。


そういうわけで、緋禾は愛すべき穂の国を断腸の思いで去り五日経っても、まだ平常心を保っていられた。

偶然にも緋禾にとっての厚遇が功を奏したのか、それともまだ穂の国を出ていないことにあるのか。あまりにも暇な時間が多すぎるので、緋禾はついとりとめもなく考え事を膨らませてしまう。そうでもしていないと、今にも輿を飛び出して来た道を引き返してしまいそうで、怖かった。


「…何もないわ。大丈夫よ」


ただの戯れだと言うが、稲日は気遣わしそうな表情を崩さなかった。緋禾は無理にでも笑顔を見せ、そろそろと簾を下ろして中に引っ込んだ。この話が来てから以降、稲日はいっそう過保護になってしまったようだ。緋禾は付いてきてくれる稲日にとても感謝しているが、無用の心配りまでは望んでいなかった。


何だか矛盾している上に稲日に申し訳なくなって、緋禾は頬杖をついて嘆息した。こんな鬱々とした性格ではなかったというのに、最近は沈んでばかりいるから、稲日にも心配をかけてしまうのだ。これから待ち受けることに不安ばかり抱えていてもしょうがないと、緋禾は無理やりにでも気力を奮い起こして、両手で自分の頬を叩いた。


(…切り替えよう。それが私の得意分野だったはず)


自分の土地から一歩出て、外の世界を見てみるのもまたいいのかもしれない。それが、自分の凝り固まった殻を壊してくれるのなら尚のこと。この大陸の最大の国には、また違う神の気配があるのかもしれない。それに触れることは、緋禾の巫女としての能力を高めることにもなり得るのだ。

緋禾は前向きにそう考えた。まるでその考えが不安を打ち消してくれるかのように。

そうしなければ、穂の国の土や海や母、大好きな村人達、乙矢とミツキ夫婦を思い出して心が苦しくなるばかりだ。最後まで自分の行く末を案じ、精一杯祝福してくれた皆のことを抱えて、自分は新しい土地に行く。


そこに果たして何が待ち受けているのか、今の緋禾にはまるで分からない。けれど、異様な予感だけは緋禾の中でふつふつと湧き上がってくる。

自分の唯一無二のとなる夫と、王宮と、そこに暮らす人々と、自分は一体どう馴染んでいくのか――

そして、緋禾はふと思った。


(…私は、一体大王の何人目の妃なのかしら…?)



***



隊列自体は、それほど大規模のものではなかった。夏も終盤に差し掛かる頃の穂の国を出発した一行は北上を続け、その列を目にした人々は皆地に額をつけてそれをやり過ごしたという。自分がそうやって扱われることに、緋禾は慣れていない。穂の国では、緋禾も民人のように振る舞っていたし、そういう風に民も接していた。これが王族の威厳というものなのかと、少しばかり感心した。

尤も、そうされて嬉しいとは、あまり思えなかったのだが。


簾の隙間から見える景色は、豊かに色づく気配を見せていた。平地に広がる畑や田圃は、この中つ国の豊かさを誇示しているようだった。ここには海はないものの、壮大な山の緑と水運が生活を支えている。商業も盛んなので、よく市も立つし交易はこの中つ国を中心に行われているといってもよい。

そいういう国力を持つ国こそが、中つ国。


もうあと少しで着くと言われたのが、三日前の出来事だ。そろそろ到着の声が響いてもおかしくない日になって、いよいよ緋禾は緊張が増してくる。ちらりと簾越しにこの国の豊かさを見せつけられるのも癪なので、もう輿の中でひたすら待つ生活に切り替えていた。誰も見ていないところでそっときつすぎる帯の結び目を緩めて息をつく。毎日これほどまでに胴を締め上げなければならないのだったら、それこそ地獄だ。簪やら飾りやらで頭も重いし、幾重にも纏った裳や絹は上等過ぎて緋禾には落ち着かない。


けれど、昼も夜も通して進み続けたわけではないので、疲れはそれほど感じていない。緊張感なら増していくばかりだが、あまり繊細ではない性格の持ち主である緋禾は、半ば「もうどうにでもなれ」とやけっぱちになっていたことも事実である。


凝り固まる首の後ろをもんだ後、緋禾は、そっと衣の袖を捲り上げた。右の手首にあるのは、穂の海で採れる綺麗な石を連ねた手珠だ。出立の日に、村の子ども達から送られた守珠とも言うべきもの。


『緋禾さまの前途が沙依里比売さまに守られますように』

『大王さまが、緋禾さまを大事にして下さいますように』


そう想いをこめて作ってくれたものを、緋禾はそっと触れて唇をつけた。ひんやりとした珠は、穂の海や土地を思い出させてくれる。恋しさは募るばかりだが、緋禾は傍にある確かな穂の気配に安心感を覚えた。そして、緋禾は出発のその時に母の十千代から送られた物を手に取った。


それは、神楽鈴だった。巫女の気質が強い緋禾は、よく神楽を木築の社に奉納していた。緋禾自身踊るのは好きだったし、緋禾に舞を教えたのは十千代だ。そんな、最期の娘を嫁に出す母から送られた神楽鈴。いくつかの小さな鈴が連なって、ひと振りすれば清浄な響きが緋禾を惚れ惚れさせる、見事な代物。


『あなたの神々は、いつでもあなたの傍に居て下さるわ。私も、いつもあなたを想い、神に祈りましょう』


私の大切な娘に幸あれと。その言葉だけは嘘ではないと、緋禾にも分かった。普段何を考えているのか分からない母ではあるが、緋禾のためを思って諭し、鈴を贈ってくれたことは素直に嬉しかった。


「『明星は 明星は くはや ここなりや 何しかも 今夜の月の 只だここに坐すや 只だここに 只だここに坐すや』…」


緋禾は、十千代から一番初めに教わった神楽歌をぽつりと口ずさんだ。こういう歌は、戯れに口にしてはいけないと言われていた。緋禾の声は、神を呼ぶ。簡単にそう出来てしまう素質を彼女は持っている。けれど、今は歌いたかった。これを口ずさんだとして、何が起こるわけでもないと緋禾は思っている。

だからこそ構わないとさえ思えた。緋禾のたったひとつの拠り所であるかのように、緋禾は大切に大切にその節を口にした。


「緋禾様。もうあと半刻ほどで到着します――中つ国の都。泰和でございますよ」


護衛官の堅苦しい声音が静寂を破ったのは、それから間もなくのことだった。緋禾は、とうとう新しい地へと足を踏み入れるのだ。そこに待つモノが――さまざまなしがらみが何かも、今の緋禾には分かるすべもなく。



作中の歌は、神楽歌「明星」より転載しました。


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