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空をゆく、仄か緋を  作者:
中つ国
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こんなに雨に降られても、風に煽られても、自分の言いようのない苦しい想いが流れていくようで、いっそ緋禾は気分がよかった。こんな悪天候でも、あの家に居るよりはましだ。今は、窮屈な乙女らしい裳も簪も捨てていつも穿いている袴に、髪の毛も結わずに背にたらしたままだ。全てをありのままに曝したまま、こうして海辺を歩くことは気持ちいい。

足を踏み込む毎に、砂浜の粒子は温かく緋禾を包んでくれる。遠く、波間の向こう側には薄暗い雲が垂れ込め、時折身が攫われそうな強風が吹き付けてきた。それに耐えながらも、緋禾は歩くことを止めることができなかった。


この国の人は、一小国の姫が自由にこうして村を行き来していても何も言わない。いつもいつも、温かく「穂の末姫様」と慕ってくれる。小さな頃から、緋禾はお供も連れずに村に下りては村人に愛想を振りまき、同じ年頃の少女や少年らと怪我を作りながら駆け回っていた。

そんな姿は何年も見てきた村人であるから、いつも明るい緋禾がこんな天気に俯きながら歩いていることに天地がひっくり返るほど仰天したのである。


「ひ…緋禾様!!こんな天気に何をしておいでですか!?」


海岸沿いには、主に漁労で生計を立てる家族の家が多い。そして、緋禾はよく海に来るものだから彼らとは特に面識がある。たまたま船の様子を見に出てきたのであろう、いつもの格好で海岸を歩く緋禾を目ざとく一人の漁師が見つけ――青ざめた。まさかこんな天気に海に入るのかと、目を剥いたのである。この娘が大変な泳ぎの天才であることは、この国の民ならば誰でも知るところである。しかし、今日のこの荒れようはまずい。

皆一様に、「海の女神様がお怒りだ」と家に引きこもっている。ただでさえこの暴風雨では、誰も外に出ようなど考えないし、船など出そうものなら数瞬で海の藻屑となることは目に見えている。

しかし、この姫君はまったくの例外らしい。緋禾は焦る海の男を尻目にひらひらと手を振って見せた。


「あら。こんにちは、乙矢おとや。調子はどうかしら?」

「あ、妻と子供共々今日も健康で…ではなくてですね!」

「今日はこんな天気だし、お子さんたちを外に出さないほうがいいわよ、気をつけて」

「それはあなた様もですよ…!」

「私は大丈夫よ」


雨に濡れながら、笑顔でそんなことを言う。思わず頷いてしまいそうになって、乙矢は一瞬慌てた。この姫君の一種の神々しさには、時折言葉を失うときがある。いつもならまだまだ子供だと思うのに、今は艶のある一人の乙女だ。

それはまるで、何かの神がとり憑いたかのような――そう思った瞬間背筋が震えて、乙矢は不自然にならないように目を逸らした。


「あんた、一体どうしたの」

「…あ」

「あら、ミツキ」

「まあまあ緋禾様!何でそんなに濡れておいでなの」

「家から歩いてきたからよ」

「まあまあこの大雨の中を?」


簡素な藁の簾から顔を出したのは、乙矢の妻であるミツキだった。ひょこりと乙矢の肩越しに幼友達の顔を見て、緋禾は満面の笑みを浮かべた。と、ミツキは急に眦を吊り上げて夫を睨み付けた。その腕の中に、すよすよと眠る幼子を抱えながら夫を小突く。


「あんた!いつまで緋禾様をこの雨の中に立たせておくつもり?」

「あ…!これはすみません、姫様。どうぞこんな家でよろしければ中へ」


粗末な小屋といっても、風雨を防ぎきるほどにはしっかりとした造りとなっている。海の暮らしをする者達は、古来から嵐の中を生きてきた一族でもある。そう簡単には潰れない家の作り方も心得ている。


緋禾はその家の中に有難く入れてもらうと、重い体を炉端近くに落ちつけた。櫛を借りて縺れた髪の毛を梳かすと、ようやく一心地つけた。しばし、心ここにあらずで緋禾が荒れる海の音を聞いていると、乙矢とミツキの愛息子・穂高ほだかが緋禾の所まで這って来て膝を叩いた。つぶらな瞳で見上げてくる穂高に緋禾は微笑んで、脇を抱えて抱き上げてやった。


ぷっくりした手が、緋禾の頬に触れてくる。その柔らかさに触れて、緋禾は何だか泣きたくなる。子どもはすごく好きなのに、その健やかなぬくもりに触れると涙が出てきそうになる。

自分も大王の元に嫁ぐのなら、いずれは子を授かることになるのだろうか。跡目争いに巻き込まれてしまうであろう、自分と大王の子。そういう形でしか、自分は子宝に恵まれないのだとしたら辛すぎる。

本当に泣きそうになって、緋禾はぎゅっと穂高を抱きしめた。


「まあまあ緋禾様。そのようにしたら、お召し物にこの子の涎がついてしまいますわ」


あえて緋禾の表情には触れずに、ミツキは明るくそう言った。横で何だか落ち着きのない夫を再度腕で小突いて、緋禾が俯くのを眺める。けれど、すぐに緋禾は笑顔で目を上げ、きちんと穂高を抱き直して首を振った。


「ううん。どうせ雨に振られて汚れてしまっているもの…構わないわ。それよりも、穂高の方が汚れてしまったわね」


ごめんなさい、と言ってミツキに穂高を渡した。当の彼はどこか不服そうに緋禾の方に向って手を伸ばしている。まるで緋禾と引き離されたことを怒っているかのような表情だ。緋禾は笑って、その手をきゅっと握ってやった。


つい昨日まで幼子のようだった末姫が、急に大人びた顔になった。ミツキは、夫が何だかそわそわしているのはそのせいだろうと思いながら、再び息子をこの末姫に抱かせてやった。いつもは、きらきらした子どものうように海で遊び顔を輝かせている姫君が、このように何かを耐えるような面持ちでいることが心苦しくてならないのだった。そう心配してしまう程にその表情は憂いを帯びていて、彼女の母親――穂の国の后である十千代によく似ていた。

そうか、もうこの末姫も十七の歳になるのだ。


「…何か、あったのですか?」


そう聞くつもりはあまりなかったのに、緋禾の表情を見たミツキは自然とそう口にしていた。ぴくりと緋禾が反応するのを見て、眉を顰めた。この末姫はおよそ恐れを知らない、はきはきと喋る少女だ。負けん気が強く、男相手にも余程のことがない限り怯まない。それに、誰とでもすぐ打ち解けられる当たりの良い性格だ。

けれど、今その面影はなりを潜めていた。今の緋禾は、口元を引き結び泣きそうな目をしている。聞かずにはいられなかった。緋禾はいつでも笑顔でいるから、余計にそう思った。


緋禾は問には答えず、徐に穂高を高く抱えあげてあやした。まだ歩くことも喋ることもできない穂高は、きゃっきゃと嬉しそうに声を上げる。


「…緋禾様?」


心配そうに口をはさんだのは、今まで黙っていた乙矢だ。ようやく我に返ったのか、口調態度も常に戻っていた。何と間の悪い男だとミツキは言いそうになったが、そこで口を挟むことはしない。

びゅうびゅうと外では依然として風や雨が吹荒れている。それに混じって聞こえる波の音が、海の女神の怒りの声にも聞こえる。

緋禾はふと外に目をやった。目を閉じて寸刻息をつめると、ゆるりと吐き出す。そして、穂高を乙矢に託してそっと立ち上がった。


「緋禾様――」

「稲日が来たわ。もう行かなくては」


緋禾が言うのを聞いて、夫婦は揃って耳を澄ました。けれど、風と雨と波の音しか聞こえてこなかった。簡単な挨拶をして帰ろうとする緋禾を、ミツキは慌てて呼び止めようとした。


「緋禾様、待って下さい。本当に何もないのですか?」


その声に振り向いた緋禾は、眉を緩ませて微笑んで見せた。それは、全てを諦めたかのような笑顔だった。緋禾は「そうね、いずれ知れるものね」と前置きをすると、簾を上げて出て行き様に言い放った。


「もうここに来れるのも最後かもしれないわ…豊葦原の中つ国の大王のもとに、嫁すことが決まったの」


それだけ言い残すと、緋禾は未だ降りしきる雨の中へと再び出て行った。あとに残された二人には、奇妙な静寂が残された。その直後になって、呆気に取られた夫婦はようやく稲日が緋禾を探し求める声を聞きつけるに至ったのであった。


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