風を結う
中つ国の王宮が建つ春日野は、かつて神々が最初にこの大地に降り立った聖域だった。様々な経緯を経てこの土地に新しい宮を建てることを認められ、広大な森を後ろに超特急で仕上げられた宮は、それでも壮麗な雰囲気を損なわず、かつ頑健な造りをしていた。
神々の祝福があってこの宮は建っているのだが、緋禾はその祝福や神々の息吹をもうその身に感じ取ることが出来なくなって久しい。かつて甚大な神気を身に纏ってこの国に来た時には、霊魂やモノノケなどといった普通の人には見えないモノを見ることが出来ていた。しかし、身ごもって黄泉路に下り、二人分の命をこの現世に戻した時に、様々な神から与えられていた神気は空っぽになっていたのだ。
普段の生活には何の支障もない。ほとんどの人々は神気を持たずとも生活が出来るのだ、緋禾も出来て当たり前である。ただ、緋禾には自然の中にある神々の気配や目には見えないモノの存在を感じることが出来なくなっただけ。その力を失ったのだと自覚した時、確かに自分の中にある何かが虚ろになってしまった。
しかし、緋禾がこれからも自然を愛することや、そこに息づく神々を敬愛する心は変わらない。それでいいのだ、と自分に言い聞かせた時、腹の中からぽこんと蹴られる、初めての胎動を感じたのだ。
まるで、「自分がいるではないか」と怒るように母の内側を力強く蹴った存在に、緋禾は堪らなく安堵した。
本音では、力を失うことは怖かった。今まで生きてきた十七年間、緋禾はその中にある神気を以て、神々と意思疎通を図ってきたのだ。それを失くして、今までと同じように出来るのかという不安もあった。自分の存在意義さえ深く考え込むようになってしまったこともあった。
今、腹の中から元気に母を蹴っ飛ばした「彼」は、自分がその役割を担うのだと言わんばかりに緋禾を励ました。生まれる前から孝行な子だと、緋禾は思わず笑ってしまった。
口元を綻ばせながら腹を擦る緋禾を見て、夫の御和は何を勘違いしたのか「痛むのか」と気遣わしげに声をかける。近頃緋禾が思い悩んでいる様子を分かっていながら、何と声をかけていいものかと機会を伺っていたことを、もちろん緋禾は知っている。いつもは堂々している夫が、用心深くなっていることが、どこか可笑しく、愛おしかった。
「蹴ったわ」
「なんだって?」
「今、動いたのよ。急に蹴っ飛ばすから、びっくりしちゃって」
言いながら下腹を擦ると、また、ぽこんと微かな振動を内側から感じた。急いで御和がそこに触れたが、それからは眠りに落ちたのか、はたまた父親にはまだ見向きもしないのか、胎動は感じることができなかった。御和は随分粘っていたのだが、それからもことあるごとにお腹の子は御和がいない時、触れていない時を狙って母を励まし続けた。
「…やはり、男だな。こいつは」
「今から母っ子になるのかしら」
嬉しげに緋禾が言えば、御和は不機嫌そうに眉を顰めている。最初の頃から考えると、随分と夫も素の自分を見せてくれるようになったものだと、感慨深い。そう思って初めて、大きすぎる力は自分には不釣り合いで、今この瞬間、生きている命のすべてに感謝ができることで十分なのだと思うようになった。
自分の、神気を以て哀しいモノノケの魂を解放するという役目は、とうの昔に終えているのだ。これからは、国を支えていく命を生み、育てることが緋禾の役目になる。そうやって、次世代に命を繋いでいくのだと、神気を持つよりかも数倍重い役目を担うのだ。
覚悟を決めるのは、十月十日の間によく出来たと思う。
心身を整えた緋禾は、その後、産み月を迎えて無事にこの国の日嗣の御子となる男児をこの世に送り出したのであった。
***
「佐穂」と名付けられた子は、緋禾も御和も驚くほどによく乳を飲み、よく寝て、健やかに大きくなった。乳母の乳では足りぬと、緋禾の乳もよく飲み、肉付きの良い手足を元気にバタつかせて布の玩具を振り回した。そもそも高御倉神から加護を与えられた存在であり、いつかはこの大陸を背負って立つ宿命を与えられている佐穂は、両親の心配をよそに元気に、少々やんちゃに成長していく。
つかまり立ちを始める頃には目も離せなくなって、室の中の調度品を片っ端から涎で汚すので、自然、佐穂を外へ連れ出すことも多くなる。春日野の庭の木陰に筵を敷いてそこに転がしておくと、玩具には目も向けずにずり這いをして、野原の方に出ていこうとする。それを止めようと思っても、元気でやんちゃな御子はぶうぶうと不満を漏らして、結局草や花や土を触りにいってしまうので、途中から緋禾は止めることを諦めてしまった。
「さすが、姫様のお子ですわね。小さな頃の姫様にそっくりで」
そんなことを稲日が言うものだから、側で聞いていた乳母やら衛士やらは皆可笑しそうに笑うのだった。手や顔まで泥で汚している当の本人は、ご機嫌なのだから手に負えない。
「私、こんなに泥んこになっていたのかしら」
佐穂を抱き上げて、唇を尖らせながらその頬についている土を拭ってやると、きゃっきゃと笑って緋禾の胸元に頬を擦り付けてくる。その仕草が可愛く愛おしく、緋禾は自分が汚れるのも厭わずにその小さな存在をぎゅっと抱きしめた。ずしりと重く、温かい命がこの腕の中にある。泥だらけでも元気に遊ぶ佐穂は目に入れても痛くない存在だった。それは、御和も同じだ。
「――昼餉の時間を過ぎているぞ」
木陰にその声が響き渡ると、周囲の人々は一斉に膝をついて頭を伏せた。岬だけを引き連れたこの国の大王は軽装で、とても今まで中央の政を行っていたと思えない。それでも、その他を圧する雰囲気は十分で、護衛やら乳母やらは御和が「よい」と言うまで顔を上げなかった。しかし、その雰囲気は妻や元気に動き回っている息子を見ると霧散してしまう。
ふっと目元を和らげると、緋禾から佐穂を抱き取って、頬にまだ土を着けている息子に苦笑を漏らした。
「今までどこに冒険に行っていたのだ?」
佐穂は、いきなり母から離されたことが不満なのか、むずがるように手足をバタつかせたのだが、それも父の手で青空に向かってゆすり上げられるまでだった。佐穂は、急に視界が広がり、父よりも母よりも背が高くなるこの遊びが大好きで、途端に機嫌を直して嬉しげに笑い出した。
その笑顔はそこにいる人々の口元を自然に綻ばせてしまうのだ。不思議な力を持った御子だった。それを見ると、御和は愛おしさと切なさが入り混じった目をよくするようになった。
理由は、分かっている。御神から加護を与えられた佐穂は、それと同時に試練も与えられるのだ。苦難の先には幸福があるのだと分かってはいても、可愛い我が子には出来るだけ苦痛を与えたくないと思うのが親心である。
いずれ、佐穂にはこの国や大陸を背負って立つ宿命が待っている。その頃には大陸のあり方や国々の力関係がどう変わっているのかも分からない。今、御和や緋禾に出来ることは、その時までに出来るだけ形を整えてこの子らに国を譲る準備をするだけだ。
御和は既に、その準備を始めているような気が、緋禾には感じられていた。
そして、その準備は、佐穂の中でも起こりつつあった。
***
それは、佐穂が二歳の年を迎えた春先のことだった。この頃、緋禾は佐穂の弟か妹になる命をそのお腹の中に授かっており、軽い運動を兼ねて、よく佐穂を連れて森の中へと散歩をしていた。
佐穂は母の状態をよく理解しているのか、いつものやんちゃぶりは身を潜めて、まるで自分が母を守るのだと言わんばかりに緋禾の手を引いて森を歩く。幼いながらにも父がいない時はこうして緋禾を守ってくれている。
過敏になるには理由があった。緋禾のお腹には二人分の命が入っているのだと、女医は少しだけ難しげな表情をして教えてくれた。一人産むだけでも命を落としかねないこの時代、二人分もの命をこの世に送り出さねばならない。その生きるか死ぬかの大仕事をこれからしなければならない、否が応でも過敏にならざるを得なかった。
そんな気分を紛らわすように、緋禾はよく森の中を佐穂と散歩をした。出産は体力勝負だということは、佐穂の時に痛感していたので、筋力が衰えないように出来る範囲で身体を動かすようにしたのだ。
その理屈は理解できるのか、今回ばかりは御和もその運動を止めなかった。それには佐穂の存在が大きく関わっていた。
夜眠る時、佐穂は緋禾と御和の間に挟まれるようにして眠る。それが安心するのか好きなのか、緋禾に甘えたり御和の腕を抱きしめたりと、眠りまでの穏やかな時間を過ごしていると、ふと佐穂はぽつりと呟いた。
『ははうえ、あかちゃんたち、げんきねぇ』
『…そうなの?佐穂、赤ちゃんたちのこと、分かるの?』
『うん、あかちゃん、どっちもおんなのこ。ははうえがおさんぽするの、すきなんだよ』
息子を挟んで、夫婦は目を瞬いて見交わした。この時初めて、佐穂は緋禾の神気を引き継ぎ、活かしつつあるのではないかというそんな感覚が二人の中に芽生えたのだ。当の本人はそれだけ言ってしまうと、既に夢の中に入ったのか、むにゃむにゃと口を動かしながら緋禾の胸に甘えるように顔をうずめた。
『佐穂は…高御倉神の加護と、沙依里比売の加護、それにお前の神気を持ち合わせて生まれてきたのかもしれんな』
この小さな身体に大きな力が三つも共存しているのかもしれない。真に佐穂はこの中つ国を背負う足場を固めつつあり、その宿った力を大きく開花させようとしているのではないか。その佐穂が示す言葉を、何となく無碍に出来なくて、それからも緋禾は出来る範囲で足繁く森に通うことにしたのだ。
感じることは出来なくなっても、神気が溢れるこの土地は、きっとお腹の子どもたちを守ってくれるのではないかと、そんなこと祈りつつ緋禾はゆっくりと歩を進めた。
そして、そんな日々を繰り返していると、佐穂は散歩の折によくじっと森の奥の方を見つめるようになった。もちろん、散歩をするのは昼時で、何か恐ろしいモノが出る夜ではない。だから、緋禾は彼が一体何を見ているのか分からずとも、危険はないのだろうとそう思うようにしていた。
佐穂自身が何かを語り出すまで様子を見ようと思っていた。母が何かを問いかけでも、まだ言葉もままならない息子が上手く「それら」について上手く話せるとは思えない。
しかし、妹達が出来たことで精神的な成長がどっと速くなった佐穂は、両親が知らない内に、その正体を自然と解き明かしていた。注意を引くように緋禾の手を引きながら不意に口を開いたのだ。
「ははうえ、あそこ」
「ん?どうしたの?」
「あそこに、きつねしゃんがいるよ」
その瞬間、ざあっと風が吹いて周囲の木々を揺らして駆け去っていった。何かを伝えようとするかのように、春の野の青臭い匂いを運び、同時に野花の匂いをここに残していく。
佐穂が指差す方向に、しかし緋禾は野生の「狐」を見つけることはできなかった。きっと、周囲の乳母も衛士もそうなのだろう。そんな物音をしたか、と首をかしげている。
緋禾は目を細めて、ゆっくりと地面に膝をつき、小さな息子の目線に合わせてしゃがみこんだ。産み月にはまだ遠くても、もう随分大きくなった腹を抱えてそうすることは苦しいのだが、佐穂を抱き上げることが出来なくなった今、こうでもしないとなかなか視線を合わせられない。
「佐穂。キツネさん、いたの?」
「うん、いた。ぼくのこと、みてたんだよ」
「何色?木の葉の茶色だった?」
「――ううん。まっしろ。ひかってた」
まっしろのきつねしゃん、いつもぼくと、ははうえのこと、みてるよ。
その言葉を聞いて、乳母や衛士は飛び上がらんばかりに驚いた。それは、仕方のないことだろう。数年前、そんな形をしたモノノケが、この宮の中を騒がしていたことは、記憶に新しい。いつの間にやらその驚異は去っていたものの、この時になって再び現れたのではないのかと、彼らは驚きに震えたのだ。
モノノケが、自分たちの主を狙っているのではないかと。
しかし、彼らの主人は、その言葉を聞いた瞬間、はっと息をつまらせたかと思うと、みるみる内にその瞳に涙を溜めて小さな息子を胸の中に抱きしめた。
佐穂や乳母たちは驚いても、その涙をなかなか止められずに、ぎゅっと温かな身体を抱きしめる。
「ははうえ、どしたの?ぽんぽん、いたいの?」
小さな椛の手が、優しく、母の腕やら腹やらを撫でようとしている。乳母たちが慌てて人を呼びにやろうとするのを、寸でで止めて緋禾は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「ははうえ、いたい?」
「ううん。痛くないの。大丈夫よ」
「どしたの?」
「うん――嬉しくて」
それだけでは、とてもこの子は分からないだろう。案の定、小首を傾げて眉をハの字にさせている。いつも優しい母が急に泣き出したのを見て、咄嗟に自分が何か悪いことを言ってしまったのかと思ったのに、母は「嬉しいから泣いたのだ」などと言う。随分難しいことを言ってしまったと苦笑を漏らして、緋禾はもう一度、佐穂を抱きしめた。
「佐穂、そのキツネさんはね、佐穂の守り神様なのよ」
「まもりがみさま?」
「そう。母様には、そのキツネさんを見たくても見ることができないわ。それは、佐穂だけの、特別な神様だから」
かつては緋禾も見ることが出来ていた白狐。けれど、霊魂となったその白狐はもうこの世にいない――新しい魂を得て、今はこの佐穂の中に息づいている。結び付けられるように、結われるように、この身体の中に存在しているのだ。それが引き合うのかもしれない。この森には佐和の陵もある。残された思念が白狐の形を取って、佐穂の前に現れたのかもしれなかった。
「大切にして、佐穂。その守り神様をきっと、佐穂を助けてくださる存在なのよ」
きっと、この子が大きくなって、いつの日か大王となって立つ日をずっとずっと見守っていてくれているのかもしれない。今は分からなくてもいい。いつの日か分かる日が来るだろう。自分の中に紡がれる物語を知る日が来るだろう。
特別な力を宿した佐穂には苦難も待ち構えているかもしれない。けれど、ずっとずっと昔の祖神からこの子は守られている。祖神からだけではなく、周囲のたくさんの人達からも見守られて、大きくなっていくだろう。
その希望が見えて、緋禾は嬉しかった。だから涙が出たのだ。
この子は一人じゃない、御和のように一人で苦しんで、身体に傷を負うような哀しいことは起こらないだろう。
「ぼくだけじゃなくて、ははうえもたすけてほしいな」
「母様は、大丈夫よ。父様がいるもの」
「ぼくも!ぼくもいるよ!」
元気に手を挙げる息子が愛おしい。母を、妹達を守るのだと、幼いながらに力を込めるこの子の未来が明るいものであますように。そっと頬を撫でる優しい風を感じて、緋禾は祈るように目を閉じる。
瞼裏に、優しく頬ずりしてくれた白狐の姿が浮かび上がる。いつまでも、緋禾が見えなくなっても、佐穂の心の奥底で生き続ける願いはきっとこの国を守ってくれる。
佐穂から身を離して、緋禾は微笑んだ。「期待してるわ」と言った緋禾の言葉にいつの間にやら兄の顔になった息子が頷く。この国の未来は明るいと自信を持ってそう思えた瞬間だった。




