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空をゆく、仄か緋を  作者:
番外編
35/37

水を纏う

少し番外編を投稿していきます。


その日は朝からぐずついた天気で、朝日はかろうじてその身に浴びることができたものの、西の空からどんどん雲が流れてきて、昼を過ぎた頃から本格的に雨が降り始めた。時を同じくして、その春に完成した春日野に建つ王宮では、雨音に紛れてにわかに騒々しくなった。中つ国の后・緋禾が鈍い腹部の痛みを訴え始めたのだ。

産み月を迎えて「いつ産まれてもおかしくない」と女医やら宮廷医師やら果ては呪術師にまでそう言われてから、早10日。華奢な身体はその前に迫り出す腹の大きさに耐えることが出来るのか、と夫である御和が心配し始めた翌日に、緋禾は破水した。


昼餉を共に取ってからなんとなく緋禾の様子がおかしく、やけに眉間を寄せて腹を擦っているなと御和が声をかけようかと思った次の瞬間には、緋禾は「あ」と一声上げて蹲ってしまった。咄嗟に腕を差し出して御和が触れた身体は汗ばんでおり、裳は色が変わる程に濡れていることが一瞬で分かった。


「姫様!」


何が起こったのかと目を白黒させていると卑女の稲日が脱兎のごとく駆け寄ってきて、御和の腕の中から緋禾を奪い取っていく。緋禾は眉根を寄せて苦しげに呻き、御和の衣の裾を固く握りしめた。


「どうした、痛むのか」

「もう破水されていますわ、大王様。すぐに産屋へ…あと、女医も呼ばねば」

「岬!」


使いっぱしりは男の方が早い。考えるよりも早く、御和は廊で控えている側近の名を呼んで、すぐに医師を呼ぶように命じた。優秀な側近はすぐに駆け出し、稲日が采女達を呼ぶ声も重なって、あっという間に后の室は騒々しくなった。

どうやら鈍い痛みがあるのを、緋禾は長い間我慢していたらしい。痛み自体はすぐに引いたり押し寄せたりと波があり、感覚が短くなると産み時だということは分かっていたのだが、どこまで待てばいいのか、初産の緋禾には分からない。しかし、すぐに駆けつけた女医の見立てでは、まだ産み時には遠いということだった。


「お后様。今はどうですか?痛みは強いでしょうか」


寝台に一旦寝かされた緋禾は額に汗を浮かべながらも、小さく首を横に振った。


「いいえ…今は、引いてしまって。それに、ちょっと気持ち悪いくらいで、そこまで痛くは」


その言葉を聞いて、女医は少しだけ目を細めた。


「どうした、申せ」


緋禾の側に張り付いていた大王は、その微かな表情の変化も見逃さない。何か懸念があるのかと問えば逡巡してから口を開いた。


「お后様はまだお若く、それに初産でいらっしゃいます。通常でも初産は時間がかかる場合が多いのですが…今回の破水は、陣痛が本格的に始まる前に起こっていますので、これからお生まれになるまでには、長い時間がかかる可能性もあります」


御和は前大王の末子であるため、お産の場を見聞きしたことがない。そもそも、男は出産に立ち会うことは決してない。ましてやこの時代、出産は基本的に屋外で行われる。出産や月経は死と同等の「穢れ」であり、無事に出産できたとしても、母体ともに死してしまうことが多いことから、出産と死はいつでも隣り合わせだ。子が生まれれば宝のように大切にされるのに、それまでの過程が忌避すべきことと見なされる。「死」という陰の気と穢れを極端に嫌うこの時代の人々は、家の中でそれを持ち込むお産をすることがない。たいてい山や川や森という人目につきにくい場所が選ばれることも、衛生的に死の危険が多い理由である。


感覚的にはそういった「穢れ」の観念を理解できる御和でも、しかし、自分の妻に屋外で出産させられるのか、と聞かれれば即答で「否」と答えた。夏でも冬でも、繊細な母体を屋外に連れ出して不衛生な場で出産しろという習慣が、身近に迫って初めて嫌悪を覚えたのだ。

しかし、「穢れ」に敏感な呪術師や巫覡を説き伏せて、この新しい宮で出産を行わせることがいかに困難かも理解している。それをしてしまえば、この宮に勤める大勢の人々は、「穢れ」を嫌って一斉に職を辞してしまうだろう。簡単に予想できた。


だからせめて、大事な妻や子が衛生面から守られるようにと、御和は大急ぎで産屋を用意したのである。

宮から少しだけ離れた春日野の小川の近く、神々の神気が流れるところであれば、この出産の「穢れ」を上手く流してくれるのではないかと、そう思って。


今、産みの痛みが本格的に始まっていないのなら、と女医はすぐに産屋に移ることを勧めた。痛みが始まってしまえば動くことも難しくなるし、初産なので何が起こるのか分からないのだと言う。一も二もなく御和は産屋の準備をするように命じて、すぐに緋禾はそちらに運ばれることになった。ここからは、男には出番がない。すべて女性たちの手に委ねられ、その時を待つしかないのだ。

準備のために女医達が離れた一瞬、御和は寝台に横たわる妻の顔を覗き込んだ。少し眉間に皺を寄せる瞬間はあるけれど、意外にも緋禾は冷静だったように思う。というのも、覗こんできた夫の顔を見て、緋禾はおかしそうに笑い出したのである。


「なぁに、その顔」

「…どんな顔だ」

「この世の終わりみたいな顔して。やめてよ、これから命が生まれてくるっていうのに」


そう言われて初めて、御和は自分がものすごく厳しい表情をしていることに気がついた。けれど、これも仕方がないことだとそう思う。緋禾は襲いくる痛みに耐えるように目を細め、その呼吸は少しずつ荒くなっているように感じられる。懸命に腹を擦り、時折力を込めて指先を握りしめている姿を見た夫が、冷静でいられようか。

「許せ」と呟いて、御和はそっと緋禾を抱きしめた。正直に、怖いのだ。


御和は前大王の末子であり、同時に日嗣の御子であった。それが意味するところは、御和しか無事に大きく成長出来なかったということだ。すぐ上の兄・佐和は生まれた時から病弱であり、成長は出来ても寝台からはなれることが終ぞ叶わなかった。しかもそれを逆手に取られて殺害されて、モノノケに落とされた。

それよりも上に、御和と佐和の兄や姉は存在していたのだ。けれど、それらの子はすべて、長じることなく幼い内に死して行った。

死産もあった、うまくお乳が吸えなくて、大きくなれなかった子もいた。母体も儚くなったこともあった。そういうことは、この時代では珍しくない。すべて御和が生まれる前のことだけれど、母后は御和が生まれて大きな病も得ずに大きくなると、よくその話を聞かせてくれていたのだ。


『ただ、そこにいて、生きていてくれるだけでいいの』と。その話を聞いて、御和は余計に大王という大きな荷を背負うことが怖くなった。自分にとって、跡継ぎとなる子は必要だ。けれど、その子を得るまでに一体何人の子を見送らねばならないのかと、人の命の儚さに臓腑の底から恐怖した。


緋禾は、一度腹の中に子を宿したまま、黄泉路を下っている。それも御和が恐怖している理由の一つだった。大きな加護を得てこの世に蘇ってくることはできたけれど、それから、御和は心底緋禾の身体が心配で堪らなくなってしまったのだ。

冷やしてはいないか、大きく動きすぎていないか、「少しは動かないといけないのよ」と諭されても、とてもじゃないが安心など出来なかった。いつまた、黄泉路に下るようなことが起きるかわからない。

だから、屋外で出産など考えられなかった。「穢れ」だと眉を顰められようとも、この目の前の妻と子を守るためなら、何を言われても構わない。


この時代、この国に生まれてくるすべての子達に、無事に大きくなってほしい。「穢れ」という目に見えないものよりも、目の前にいる掛け替えのない命を守ることのほうが、大切なのではないだろうか。


御和は、緋禾が荒い息をつく度に、背や腰を懸命にさすった。

「御和の手、落ち着くの。もっと触って」と緋禾が言うから、余計に止めることができなかった。やがて女医が準備ができたと呼びに来るまで、御和はずっと緋禾の側にいて、身体をさすってやった。こんなに甲斐甲斐しく妻の世話をする大王の姿に、人々は目を丸くしたものの、出産する本人より夫の方が死にそうな目をしている事に気づいて、何も言わなかった。言えなかった。

心底、大王の后に向ける愛情を知って、その側から引き離すことすら躊躇うほどに、二人の姿は一つに見えたのだ。



***



陣痛が引いた瞬間を見計らって緋禾の身は産屋へと移された。もう既に夕刻をとうに過ぎており、そろそろ月が中天に差し掛かる時間だが、相変わらず雲は晴れずにその姿を見ることが叶わない。産屋から遠く離れたこの宮の中では、緋禾が今どのような状態なのか伺い知ることも出来ない。


(…そう言えば今夜は満月の一日前だな)


小雨が降る中、どうしても眠る気になれず、御和は庭に下りて空を見上げた。当然側近は近くに控えているけれど、妻が産みの苦しみに耐えている最中の夫に声をかけるものはいない。衣の内側にまで雨が染み渡り、ずっしりと重さが増してきても、御和はそこから動かなかった。


昔から、子の誕生には月の満ち欠けが関係あるのではないか、と言われていることをふと思い出す。潮の満ち引きに月が関係しているように、満月の夜には子が生まれることが多いという。実際のところは違うのだろうが、今宵の月はどうしても気になってしまう。満月の一日前ということは、まだ、当分長く子は生まれてこないのではないか。それだけの間、緋禾は苦しまなければならないのではないか。

――その時間が長ければ長いほど、母体や子も危うくなるのではないか…


緋禾は、黄泉路から戻った時には、もうその身の内に神気を宿してはいなかった。あれほど大きな神気は、黄泉路からこの現世に戻る際に、形代としてその力を失った。緋禾は、神々や霊魂という存在を感じ取ることができなくなってしまった。加護はずっと彼女の中で息づいていくけれど、もう様々な障りから彼女を守る力はどこにもないのだ。


緋禾はそれでいいのだと言った。そもそもほとんどの人が持たないモノだから、失くなっても支障がないのだと。

自分がこれからも、自然の中にいる神々を敬う気持ちがあれば、それで十分だと言った。


けれど、こういう状態になって、御和はどうしてもその神気がまだあれば、これ程不安にならずに済んだのではないかと思ってしまう。緋禾は神々から愛された娘であり、その加護のおかげで、普通の娘よりか遥かに丈夫だった。長く水に潜ったり、身重であったにも関わらず雨の森を駆けたり、多少の無茶ができたのはその神気があってこそなのだ。


(それが失くなった今…)


そんなことを考えてしまって、御和は「馬鹿か」とひとりごちる。自分が不安になればなるほど、その思いが現実になってしまう。言霊があるように、思い込みが激しいと、望まない結果を引き寄せてしまう。

頭を軽く振って、悪い方へと考えてしまう思いの残滓を追い払う。


(こんな時に兄上がいてくれれば)


そう思ってしまう自分が愚かしい。いつでも頼りになっていた兄は、佐和はもういない。御和や緋禾の代わりに罰を引き受けて黄泉路へと下った兄。その横顔を頭に思い浮かべた時、ふと思い出した。


今、この時、この世に生まれて来ようとしている命は、佐和の魂を引き継ぐ者であるということ。一時地下の女神の元で休息をした魂が、再びこの世に戻ってくる。高御倉神は、再び生まれくる命の中に佐和を息づかせてくれたのだ。悲しみの中で送り出した存在が、新たな、まっさらな命を得て再び御和と緋禾の前に舞い戻ってくるのだ。

今更そんなことを思い出して、柄にもなく、御和は天上にいる神々に祈ってしまった。


どうか、これから生まれくる命は、健やかでありますよう。兄のように苦しまずに人生が歩めますよう。

どうか、大変な大仕事をしている妻が、あの時のように冷たくなりませんよう。



出産が「穢れ」であるなど、本当に馬鹿馬鹿しいとそう思う。命がけであるからこそ、逆に神聖で美しいのではないだろうか。これから世に出る命は、それを生み出す母は、見ていない御和でも分かる程に、美しいのだ。

髪の先から雨の雫が滴り落ちても、御和は祈り続けた。随分長い間そうしていた。

祈る間に、小雨は次第に霧雨のようになり、やがて勢いを無くして降り止んだ。風が出て雲を動かすと、薄暗かった空間が俄に明るくなる。水分を纏ったようにぼんやりと霞んだ月が、ようやく顔を出した。

その位置から、もう夜明けも間近であると気づく。そんなに長い間外に出ていたのかと驚くほど、時間の経過が早かった。


そして御和は、空気が変わったことも肌で感じていた。今までのどんよりとした重さがなく、雨が止むのと同時にそれを風が吹き飛ばしてしまったかのようだった。それと同時に御和はふと思う。


(…もう、そろそろだろうか)


何となく、佐和が近くに来た気がしたのだ。佐和の、あの穏やかな気配を身近に感じる。そのまま御和の冷えた身体を包んでくれているかのようだった。その温かさは、御和に一粒の涙を流させた。ぽろりと意図せずにそれが頬を伝った時、にわかに宮の中が騒がしくなった。

ばたばたと普段なら鳴り響くはずもない騒々しい足音がこちらへと向かってくる。


「お、大王様…!」


寝ずの番をしていたのであろう、髪の毛を見出したままの采女が廊の端に現れ、慌てて膝を折り、深く頭を垂れた。


「お生まれになりました…!健やかな、男の御子様にございます!」


それを聞くやいなや、周りで控えていた側近たちもついつい歓声を上げた。祝言を挙げて一年と少し、早々に中つ国には跡継ぎとなる日嗣の御子が誕生したのだ、その先行きの明るさを祝うような声だった。

しかし、父親となった当の本人は、口元を強張らせたまま、静かに問うた。


「后は…緋禾は、無事か」


無様にも震えてしまった。御子が無事に生まれても、母が無事でなければ、御和の祈りは届かなかったことになる。采女は、これほどまでに無表情でありながら感情を押し殺している主人を始めて見た。その瞳に宿る激情を察して、再び、深々と頭を下げて奏上した。


「長い陣痛と出産にお疲れの様子ではございますが、意識もはっきりしておられ、御子様をお抱きになられました」


そこまで聞いてようやく、御和は固く握りしめていた拳を解くことが出来た。肺腑の底から息を吐き出し、伝えに来た采女に「よくやった、皆、疲れが出ぬように湯と食事の用意をしてやれ」と何とか指示を出す。側にいる人間がばたばたと動き出すと、御和は仄明るくなってきた空にもう一度、目を向ける。

もうそろそろ、東の空、薄っすらと顔を出し始めた太陽が見える頃合いだろう。その東の空に向かって、御和は膝を折って、地面に額を押し付けた。三度、深く頭を下げて感謝の祝詞を口に乗せる。


祈りが通じたことに、母子ともに健やかであることに、三人で新しい一日を始められることに。

命があることの素晴らしさに。

その感謝をきっと、天上の血の祖神は受け取ってくれるだろう。それを信じて、御和は昇る太陽に向かって手を合わせた。



***



健やかに生まれてきた日嗣の御子に、二人は「佐穂」という名を授けた。敬愛する兄から一字もらい、そして、稲穂のように真っ直ぐ育ってくれるように、実りある人生になるようにと、二人の祈りを込めてつけられた。


御子の顔を初めて見た瞬間、御和は思わず苦笑を漏らした。


「似ておらぬな。俺にも、お前にも」

「本当にねえ。少し、色素が薄いのかしら。髪の毛も黒じゃなくて、少しこげ茶みたい…」

「兄上に、そっくりだよ」

「え?」

「兄上も、こんな髪の毛の色をしていた」


今は眠っているが、鼻の形も兄に似ている。もしかしたらそう思いたいだけかもしれないけれど、無事にこの世に生まれた命の中には、どこか兄がいる気がしてならなかった。

緋禾も、そう思うのだろう。どこか懐かしいような、切ないような顔をして、そっと生まれたばかりの息子の顔を覗き込んだ。


「でもな」

「ん?」

「この子は、この子だ。この子にしか歩めない人生がある。佐穂には、加護と試練と、幸福が与えられる。それを、この子自身が乗り越えていけるように、見守っていこう」

「ええ…ええ、そうね」


魂は、女神の元で休息を終えた佐和のものが入っているのかもしれない。けれど、この子は佐和ではない。佐穂という、新たな日嗣の御子は、今この瞬間からまっさらな人生を歩み始めたばかりなのだ。

真白い産着を纏って、あむあむと口を動かす我が子を愛しげに見つめ、御和は目を細める。


「大きくなれ、佐穂。そしていつか、皆を幸せにする者になれよ」


子は、希望であり、願いだ。

無事に成長することがまだまだ難しい時代。それでも、この命が健やかであるよう、とそう祈って、御和は眠る息子の額を、そっと指先で撫でたのであった。



古代の出産は本当に「穢れ」の概念があったようで、時代背景はそこの辺りを参考にさせていただきました。月の満ち欠けと出産の関係に関しては、ほぼ迷信だろうと思われますが、そういう説もあることはあるので、お話の中に組み込んだ次第です。フィクションですので、ご理解ください。

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