終
これが、大陸最大の国・中つ国で起きた最初の変革であると歴史書は綴っている。その後、春日野に新しい宮を構えた中つ国にはしかし、問題は多く残された。反乱を起こした夷と流の国には、ほかの三国が介入し領土が分割され、実質豊葦原は四国によって統治されることとなる。
領土の広がりを見せると、自然厄介ごとも多くなる。中つ国の大王が忙しく政治をする傍らには、後世で「豊葦原の女神」と称されるたった一人の后の姿が常にあったという。
彼らの子に与えられた試練と幸福――そして大陸統一の達成は、また別の話だ。
これはまだ、神々が信じられていた時代の話。未来への、神話である。
***
春日野に宮を移す普請が始まる頃、元の王宮で室の片づけをしていた緋禾は、ふぅと汗を拭った。
衣服だけでもこんなに量があるとは思わなかった。あまり衣には拘らないからか、まだ一回も着ていない裳や袴が長持の中に何枚もある。これは誰かに譲ったり、何か違うものに作り変えたりしないと、全てに袖を通すことはできないだろう。
(あ、柔らかい絹なら産着を作ったらどうかしら)
そんなことを思いながら一枚一枚畳みなおして整理していると、昼餉を持った稲日が現れて、悲鳴を上げた。
「何をなさっているのです?!姫様!」
「何をって…引っ越しのための片づけを…」
「そんな重労働!お腹の御子に障ります!」
地下の黄泉の国から帰ってきた緋禾には特に何も異常は見当たらなかったが、姿を勝手に消した緋禾を血眼になって探していた稲日は、緋禾に安静を強要した。雨に打たれてずぶ濡れの状態で、衣には泥がしみこんでおり、細かい傷が柔らかい肌にいくつもあったのだ。
更にはお腹に子がいることを告げると、まさに卒倒しそうな勢いだった。風邪でもないのに寝台から出ることが許されなかった。
ようやく最近自由に寝起きができるようになったところなのに、少し動き回ればすぐこれだ。
(…過保護は一人でいいていうのに)
緋禾はうんざりして、分厚く柔らかな敷布の上に座った。すかさず稲日から膝に掛けるための薄物を渡される。腹を冷やすな、ということなのだろう。緋禾はそれを黙って受け取って膝にかけた。
「荷造りは私が致します。さ、昼餉をどうぞ」
これ以上文句を言うと何もさせてくれないだろうと考えて、緋禾は大人しくそれを受け取り口に運び始める。
品数は多く、どれも栄養のあるものばかり。今や中つ国の后の懐妊は、国中の祝い事だ。市中では昼も夜もお祭り騒ぎ、供物は増える一方、引っ越しを控える宮の者たちとっていらぬ仕事を増やしてしまった。
それもまあ、致し方ないだろう。つい先日まで戦の雰囲気が漂う暗い事件があっただけに、この吉事は喜ばれたのだ。
国の民が皆、新しい世継ぎの誕生を心待ちにしていた。だからこそ、また黄泉路を下るようなことがあってはならない。稲日が過敏になるのも十分わかる。
だが、元来動き回ることが何より好きという性質の緋禾だ。こうも安静にばかりしていると、逆に病気になりそうだった。子の状態が落ち着いたら、庭でも散歩させてもらうように頼もうかとため息をついてお膳を眺めていると、縁の向こうから力強い足音が聞こえてきた。
稲日ははっと顔を上げると、急いで室の隅に控える。もう足音だけでも分かるようになったのだろう。つまりそれは、それ程彼が頻繁にここに訪れるようになった、ということだ。
緋禾は迎える準備をしようと椀を置いて目を上げた。それと同時に、ばさりと御簾を捲る音とともに現れたのは、藍の長衣を身に纏った緋禾の夫――御和だ。
御和は妻が大人しくしているのを確認すると、ちらりと稲日を見遣った。稲日は心得たというように、「失礼いたします」とすぐに出て行ってしまった。にやにやと不気味に笑っているが、余程大王がこの室にやって来ることを嬉しく思っているらしい。素直な卑女である。
「昼餉中か?」
御和は室の中で二人きりになると、漸く言葉を発して緋禾の横に腰を据えた。
「動かないから、全然お腹が減らないのだけれど」
遠まわしに文句を垂れると、御和はそれをきれいに無視して緋禾の身体を抱き上げた。そして、胡坐をかいた自分の膝の上にその身を置く。
「床に直接座るな。身体を冷やす」
稲日が丁寧に敷布を敷いているのにも関わらず、それでもまだ駄目らしい。そのうち座椅子でも持ってくるのではないかと、緋禾は一瞬遠い目になった。そんなことはお構いなしに、御和は僅かに膨らみを見せ始めた腹部に手を置き、後ろから優しく抱きしめた。
「もう!食べにくいったら!」
大変困ったことに、稲日よりも過保護なのが、この夫であった。身体を冷やすな、動き回るなは当たり前。ひどい時には外にすら出してくれない。少しでも緋禾が何か用事を自分でしようとすると、目を釣り上げて怒ってくるのだから手に負えない。そして、見張りも兼ねて仕事がない時には頻繁に緋禾の室を訪れ、あれやこれやと世話を焼く。
あの大胆不敵で傍若無人だった性格はどこへいってしまったのか。それはもう、緋禾が戸惑うほどに甘くなってしまった。
この身体を包む熱も、耳朶に触れる吐息も。緋禾を心配する声も。
「食べさせてやろうか?」
箸を使う手を上から握られる。節ばった男の手だ。漆塗りの高級な箸が御和の手に渡り、膳の上にある椀を取る。
そして、甘く煮た里芋を口にまで運ばれた。ここまでされれば食べないわけにもいかない。大人しく口を開くと、柔らかな塊が押し込まれた。
「美味しい…」
稲日が作るご飯はどれも美味しい。妊娠中の女性の身体を慮って、滋養の良い食べ物を自ら選んでくれるのだ。御子が無事に育ちますようにと、この数日は三食全て稲日が作ってくれている。それを有り難く咀嚼している内に、適度な量と味付けの料理はすぐに片付いた。汁物以外のすべてを緋禾は御和の手から食べた。
こんな姿、十人が見たら十人とも驚くだろう。
こんな行儀の悪い大王とその后。今までなかった、ひどく甘くて穏やかな時間。けれどそんな日常は、自分でも驚くくらいに、緋禾の身に馴染むのだから不思議だった。
ふっと息をついて緋禾は御和にもたれ掛った。すると、すぐさま力強い腕が抱き寄せてくれる。気だるい雰囲気を払うように、そっと首筋に唇を落とされる。
「…春日野に、行きたいな」
「あそこは今危険だ。柱が立ち始めただろ」
「でも最近、佐和様の陵にすら参れていないのよ。あと、森の様子がどうなっているか見てあげないと」
首だけ動かして、少し上にある御和の顔を見上げた。漆黒のまっすぐな髪がさらりと肩口を流れる。甘えるようにこつりと首元に頭を預けると、前髪が御和の吐息に揺れた。
深いため息。これは、御和があきらめた時の合図。そのまま肩を引き寄せられて唇を塞がれた。要求が受け入れられ、勝ったことが分かったから、緋禾は大人しくその唇を受け入れる。
冷たい唇は貪るように口内を乱していった。けれども、きゅっと袂を握りしめて「苦しい」と訴えると、名残惜しげではあるけれど、きちんと離れてくれる。結局御和は緋禾に甘いのだ。
「…半刻だけだからな」
負けを認める声。緋禾は笑みを漏らして夫の首に腕を回して抱きついた。
「ありがとう!御和大好きよ」
身重の妻の身体を受け止めると、御和はまたため息をついた。
「お前…夜は覚えてろよ」
***
さて、それから数カ月後の翌年の春、春日野に新たな王宮が建った。そしてその年の初夏、中つ国には神々に祝福されし日嗣の御子が誕生する。
健康な男児で、「佐穂」と名付けられ、この子は多くの人々を導く存在となる運命が定められていた。誰に似たのか大変明るく育った彼は、人の目には普通見えないモノを見る力を宿し、やがて大陸をひとつにしていく大王となるが、その未来はまだ誰の目にも明らかにはなっていない。
その未来の祖となる中つ国の大王とその后は、その後五人の子どもに恵まれ、恙なく次世代に国を委ねたという。
つたない和製ファンタジーでしたが、お読みいただきありがとうございました。
あとがき的なものは活動報告にて。
息子達の番外編を後日投稿予定です。




