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空をゆく、仄か緋を  作者:
戦火
32/37


どさりと御和の腕の中に飛び込んできた緋禾は、御和の代わりに、稲光の衝撃を受けたのであろう。どくどくと嫌な音が心臓から沸き起こる。急いで抱き起こして、頬に手を当てずぶ濡れになっている前髪を掻きやって額を顕にさせた。腕に抱く身体に温かみはなく、固く閉じられた瞼はぴくりとも動かない。しかし、綺麗にその姿を保ち、見た目には全く外傷がない。

無様な程に指先が震えた。


「おい…っ緋禾…?緋禾!!」


耳元で大声を出そうとも、身体を揺すろうとも、力の限り抱きしめようとも、緋禾からは何の反応も返らない。雨はいつの間にか、力をなくすように止んでいた。けれど、緋禾を凝視している御和はそんなことすら意識の外にある。風も感じない、耳も音を拾わない、けれど、指先は緋禾の冷たさを如実に伝えてくる。

指先の震えは全身にまで広がってきた。現実が目の前に晒されても信じたくないのだというように、震える両腕で、力をなくした妻の身体を抱きしめた。

その瞬間、烈火の如く、胸の奥底から感情が迸る。


「――御神よ!天の御神よ!…何故!何故我が妻が…!」


なぜ。どうして。何のために緋禾が。

緋禾が自分から飛び込んできたことは、状況を見れば簡単に予想できた。けれど、誰かを、何かを詰らずにはいられなかった。高御倉神が黙してしまったのを感じて、固く目を閉じた緋禾に額を擦り合わせる。


「だから帰れと言ったんだ!お前は必ず無茶をするに違いないから…っ」


少しも自分の言うことを聞かない。少しもじっとしていられない。いつかその身が危ないことになるかもしれないと、ずっとずっと心配していた。それがついに結実してしまう。

それを悟った時、雨の水滴でもない、汗でもない何かが御和の目から溢れ出した。パタパタと、緋禾の冷たくなっても柔らかい頬へとそれが落ちていく。熱い御和の涙を受けても、その冷たさは温まることがない。妻の目は開かない。

きゅう、と悲しげな鳴き声と共に白狐が傍に舞い戻っても、頬を舐め上げられても、力を取り戻してはくれなかった。


『…その娘は…我が妻の血の末裔だな』


しばらくの沈黙の後。緋禾と御和の傍に白狐が現れ、じっと緋禾を見つめていると、また天から声が響いた。

今までのそれとは微妙に違うように聞こえる。哀しみをいくらか帯びている声が大地に降ってくる。


『なんということだ…黄泉路を下ってしまった…』


黄泉路。身体を失った霊魂が地下世界の女神の元へと向かう路。それは、彼女が既にこの世の者でなくなってしまったということを意味している。それを理解して、明確な怒りという感情が御和を支配した。


「私が罰を受けるはずだったのです!何故この娘が死なねばならぬのです…」


緋禾が罰を受けるなど、無情にも程がある。その必要などどこにもないのに、どうして、この女は己の目の前に身体を投げ出したのか。やりきれない想いばかりが止めどなく溢れ出す。

死の光を受けてもなお、岩城貞文のように黒く燻ぶらずに緋禾がきちんとその姿を保っていられるのは、甚大な神気をその身に宿しているからか。けれども今にも黄泉の国に連れて行かれそうに、淡く光りだしている。

御和はそれを止めるようにぎゅっと抱く手に力を込めた。逝くなという思いを込めて、小さな頭に頬を摺り寄せた。

すると、高御倉神は意外な一言を放った。


『この娘は…我が妻に、この世の神々に愛されし娘。そして…その身に今、御子を宿している』

「え…?」

『新たに神気を宿す命を、身籠っているのだ』


正に後ろから突き飛ばされた心地だった。御和は目を見開いて、冷たくなった緋禾を見つめた。この細い身体の中に御和の子を身籠っているという。

高御倉神の言葉を聞いて、佐和ははっと身体を強張らせた。


(そう言えば…姫君は、先程水の女神に遠い森の中へ飛ばされた時、『自分の中』からと、『御和がいる方』からと、音が聞こえると言っていた)

「音…」

(その音が呼び合うと。もしかしたら、高御倉神の血を継ぐもの同士が、引き合ったのかもしれぬ。もちろん、御和と姫君の絆もあったのだろうが…)


思わずその下腹部に手を置いた。薄い、下腹部だった。そこに自分の子がいるなんて、とても信じられない。


「けれど…妻はすでに…」


黄泉路を下ってしまったのではないか。恐らく、腹の子も一緒に。再び熱く、苦いものが喉の奥からこみ上げてくる。こんな哀しいことがあってもいいのだろうか。一度にして二人の命を失うような結末を、天の御神は望んでいたのだろうか。隣にいる白狐も、悲しみに暮れるように尾を力なく垂らしている。


『我はこの大地のすべての生命を司る神だ。そして、新しく生まれくる子は全ての神々が大切にせねばならぬ…我が愛しき血の末子よ。我ならばその娘の魂を呼び戻すことができる』


御和は思わず目を見開いて空を見上げた。緋禾を黄泉返らせ、腹の中に息づくその命をこの世に送り出すこと、それが可能だと御神はいう。緋禾を抱きしめたまま、僅かに舞い戻った気力の限り声を上げた。


「それは…それは、真ですか!」

『八百万の神々は決して嘘は申さぬ。すべてが真だ』


一筋の光が御和の中に差し込んだ。本来なら好きなように命を蘇らせることは、禁忌の一つだ。けれど、それを捻じ曲げてでも、新しい命は何よりも代えがたい宝であることは、人の世でも神の世でも変わりはない。ましてや、緋禾は罰を与えられる者として見られてはいなかった。この世に生を受けてから自然と触れ合い、全ての自然に息づく神の気配を愛し、それらに守られてきた緋禾だからこそ、高御倉神による黄泉がえりが叶えられる。

御和はぎゅっと眉間に力を込めて、縋る目を空に向けた。それが叶うならすぐにでもそうして欲しい。けれどすぐに、悲しげな声音に空は彩られた。


『しかし…それには、代償が必要だ』


それは既に予想していた言葉だった。御和は意を決して即答する。


「何でも出しましょう。この娘が助かるのなら、私は何もいりません」


応える声は力が舞い戻っている。一筋の希望を見出した今、御和に惜しいと思うものはひとつもない。緋禾が息を吹き返す、愛おしい命をこの世に送り出す奇跡が巡りくる、その生命は日嗣の御子として自分の後を継いでくれるのだ。後悔など微塵もない。

一人の命をこの世に戻す代償というくらいだから、小さなものでは駄目なのだろう。しかし、差し出すものが、例え己の命でも、御和は差し出せた。一度諦めていた命だ、緋禾に使ってもらえるなら構わない。


「一度は覚悟した身。私の命が代償となるのなら、天の御神よ。どうか我が妻と子をお助けください」


こんなに懇願したのは、初めてかもしれなかった。ただ、そう言う間にも緋禾の身体は冷たく、淡くなっていくから、早く早くと気が急いてしまう。何としてでも、妻をこの世に繋ぎ止めたかった。生きていてほしかった。


『代償は…そなたの魂でよいと?』

「構いませぬ。私のこの命が、妻と子の中で生きていくのなら」


国は、大切だ。それと同時に民も大切だ。本音を言うなら、こんな中途半端なまま放っておけない。残される者に後片付けを頼まねばならないことは、出来ることなら避けたかった。けれど緋禾と子ども、そして翠と穂の小王がいるなら。

そういう希望を持てるなら。

この国は、この大陸は、新しい世代に引き継がれてきっと生きていける。


御和は決心して目を閉じ、そのまま冷たい緋禾の額に口づけを落とした。

その時。


「――我が愛しき背の君」


自分が抱く身体から、ふと声が上がった。吃驚して目を見開くと、今まで固く閉じていたはずの緋禾の瞳が覗いていた。しかし、虚ろで色を失った瞳は御和を見ていない。ぼんやりと雲間から覗く光へと向けられている。緋禾の生き生きとした瞳では、ない。


「この者の魂を代償とすること、しばしお待ちくださいませ」


そして、その声も緋禾の生意気な声とは到底違っている。もっと大人びていて、どこか夢現なそれ。その人物の正体は、天の高御倉神が教えてくれた。


『…我が愛しき妹の君。何故そなたがその娘の中に?』


その声が響くと、御和は目を見張った。今までにないくらい、天の御神が愛おしげに優しく語りかけている。

そして、緋禾に感じる違和感が一つの答えを教えてくれた。すぐ側にいる白狐もぶるりと身を震わせた。


「もしや…沙依里比売…?水の女神…」


緋禾の中にいる緋禾ではない女神は、御和の言葉に耳を傾けず、一心に天の高御倉神に向かっている。まるで御和のことなど目に入っていないかのように。そこは既に神々の対峙している世界なのだ。緋禾の身体に入ったであろう、水の女神はしかし、立ち上がることは出来ずに目線と声だけで御神に向き合っている。人の声とは到底思えない柔らかで、実体の掴めない霞のような声を空に向けて掛けた。


「愛しき那背の君。お聞き下さいませ。私の遠き血の末娘を、どうぞこの地上にお戻し下さいませ」


女神は言った。これは自分の我が儘だと。かつて自らが仕えるはずだった神を裏切り、高御倉神へとこの身を預けた私の、我が儘だと。水の女神は、そう告げた。


『それは叶うと先刻申した。しかしそれには、同等の代償が必要なのだ――』

「果たしてそれは、そうでしょうか。愛し、愛される者同士は本来このような形で引き裂かれるのはおかしいでしょう?もしそれを真とするなら、初めてあなた様と私が出会った時、混沌を支配していた神によって、私達もこの者達と同じように引き裂かれねばならなかった。けれど、あなたは私を得るために神を葬りました。私達がこの大陸の礎として立つことが叶ったというのに、互いが互いを守ろうとするこの愛おしい子ども達に、大きな悲しみを背負わせてまで、その代償というものは必要なのでしょうか」

『しかし、一旦黄泉路を下った魂を何もなく呼び戻すなど、地下の女神は許しはせん』

「かの女神との対話は大切でしょう。けれど、この娘はこの者に自ら気を与えました。この子が水に触れる内に得た私の加護を、娘はこの者に託したのです。自らが一番大事だと思う者に』


御和ははっとなった。緋禾の瞳から、神気が涙となって溢れ出したことを思い出したのだ。緋禾は穂の国随一の巫女となるはずだった女。そして、モノノケを近づけてしまうほどに、その身の内に多大な神気を宿している。いつか、御和はその涙を口に含んだことが何回かあった。知らない内に、御和は緋禾に与えられた神気を取り込んでいたのだ。


「あなたの血の愛し子たるこの者の身の内にも、貴方様から受け継いだ血の神気と、我が娘が与えた神気が宿されています。この者達がこの地上で結ばれる運命は、貴方様と私。まるでそのものでございましょう?」


この大陸の創世神は高御倉神である。だから、中つ国は中心にある大国として大陸を治めてきた。しかしそれは、決して一人だけではできない。傍らに立つ妻でる沙依里比売の存在がないとなし得なかった。その理は千年以上過ぎた今でも変わらない。今の世では人々が忘れ去ろうとしている理を思い出して、御和は目を瞬かせた。


中つ国の大王は、代々小国の皇族の中から姫を妃として娶っている。それは小国に偏りが出ないように、平等に各小国から姫を一人ずつ。その中から国母として相応しい姫を「后」として据え、この代まで命を繋いできたのだ。御和の母后も、元は翠の国の姫だった。色々な神の血を引き継いで御和は今、大王という立場にいるのだが、御和は今後も他の小国から姫を娶ることは考えていない。


それを、どうしてなのだろう、と今純粋に不思議に思ったのだ。どうして緋禾だけにしようと思ったのだろう。小国の裏切り行為が目の前にあったから、という単純な理由は、勿論ある。

緋禾を后に、と求めたのはその甚大な神気を以て、兄の呪詛を解きたいという切欠がある。緋禾が神気を持って生まれたのも、神々から愛されていることも、最初は御和の預かり知らぬことだというのに、どうしてか、御和はこの娘がいいと思ったのを思い出した。


もしかしたらそれは、長いこと忘れられていた高御倉神の血が、沙依里比売の血を求めていたのかもしれない。それが御和の代になって、緋禾を迎えて、その神気を身の内に取り込んで、花が開いた。原初の昔、血の祖神達が惹かれ合ったように、自分たちは惹かれ合った。

だから、聖地を穢そうとした罰といえど、緋禾と御和が引き離されることは摂理に背く。

この二人が引き離されれば、この国が、大地がまた混沌に戻ってしまう。水の女神はそう伝えた。


『しかし、愛しき妹の君。その娘は確かに黄泉路を下ったのだ。暗の女神は必ず代償を求めよう』


黄泉路を下ること、それはすなわち地下世界に降りていくこと。太陽には太陽の、月には月の、大地には大地の、水には水の、地下には地下の神がそれぞれにいる。その場を司る者によってこの世界は動いている。それを覆すこともまた、摂理に背くのだ。地上のみならず、神の世界までも同じように動いていた。この世が天と地に分かたれても、最初からそうやって営まれてきた。人の世がそれを忘れてしまったのだ。


御和はずっと考えていた。どうするべきなのだろうと。自分の命も、緋禾の未来も、目の前の神々にゆだねられている。神を前にして人は非力だった。だから祈ることしか、人にはできない。祈ることすら忘れようとしている人という存在を、神は救ってくれるのだろうか…


(お待ち下さい。天におわす血の祖神様)


その沈黙を破ったのは、今までことの成り行きを見守っていたモノノケ――今は二人の守神となった白狐だった。佐和は、ちらりと御和と緋禾に目を向けると、徐に思念を空へ飛ばした。


(我が魂を代償にして下さい。血の祖神様)


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