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空をゆく、仄か緋を  作者:
戦火
31/37


抱きしめてくる力はこれほど強いのに、呆気なく、この手は緋禾を離してしまうのだ。何の悔いもなくそうする御和が、緋禾は恨めしい。この国の王としてこの騒乱を起こした罰を受けるということは、御和を身近に知らない人が聞けば致し方ないことだと言うかもしれない。けれど、緋禾は違う。

意地悪な御和のぬくもりを知った。大王としての苦悩を知った。兄に向ける優しい眼差しを知った。あんな哀しい背中をしてまで、守りたいものがあるのだと言った「彼」自身を知ってしまった。


上に立つ者としては到底不出来な感情だろう。

この人を行かせたくない。死なせたくない。共にいてほしい。

これは欲なのだろうか、それともわがままなのだろうか。どっちでもいい、彼は今、死ぬべきではない。


「…来て…一緒にっ…帰ってよ」

「すまない」

「お湯の用意をって、貴方が言ったんじゃないっ」

「――すまない」

「なんで、いつまで経っても自分を大事にしないの。あなた一人の命で贖われても、誰も幸せじゃないわ…!」

「緋禾」


いくら叫ぼうとも、縋ろうとも、御和の意志は変わらず固いままだった。その意志が変わらないこと位、分かっている。それが容易に想像出来てしまうほど、御和は頑固者だ。緋禾が何を言おうとも聞かずに、緋禾を妻にした御和だ、その心の内は恐らく誰にも知らせない。


駄々をこねるように胸に顔をうずめる緋禾の耳朶に、御和は唇を落とした。それと共に掠れた声音も。


「―――」


ボロボロと、緋禾の涙が衣服に、手の甲に、大地に注いだ。己を慰めてくれているその一粒に頬を擦りつけ、一度ぎゅっと力を込めると、御和は緋禾から手を離した。

耳元で立ち上がる音と、ばさりと衣の裾を捌く音がした。

そして。


「兄上。緋禾を…我が妻を、頼みます」


しっかりとしたその声が緋禾の心にとどめを刺した。雨を全身に浴びて草の根を踏み分けて幕を上げ、陣の外へとその気配が消えていく。

行ってしまう。手を伸ばすことも叶わず、緋禾は嗚咽を漏らして、崩折れるように地面に額を擦り付けた。そこに残るぬくもりを少しでも探ろうとして。けれど感じるものは冷たい雨の雫ばかりだ。


緋禾が貫き通したかったものは一体何なのだろう。この国の后としての務めか。


(違う…)


この国の民の命かを守ることか。そうやって神の元に向かう御和に着いていくことか。


(ちがうのよ。もう私、そんなに崇高な女ではなくなってしまった…)


ぎゅっと草と泥濘んだ泥を掴む。爪に土塊が入ろうと、頬を泥が汚そうと、もうどうでもよかった。今この瞬間、緋禾は務めを捨てた。


(私は…あの人を守りたい)


それだけがずっとずっと緋禾の心の奥底に鎮座している。御和の思惑を知った上で白狐の呪詛を解いたのも、危険を侵して「あわい」を駆けたのも、それが根っこにあったからだ。まだ、緋禾は彼を守りきれていない。まだだ、まだ自分には何か出来るはずだ。よろめきながら陣から出ようと立ち上がろうとした緋禾を、けれど、白狐の思念が邪魔する。


(姫君。あの子の意志だ。行こう)

「お后様」


それと同時に岬の声も。じかに触れることを戸惑っているのか、ふわりと打掛を掛けられた。緋禾はぎゅっと叢を掴んだまま、ゆるく首を振った。緋禾の意志も、もう固まっていた。あの人の意志がここで御神の罰を受けることなのだというなら。


「…私はここにいます」


ここで全てを見届ける。だって、御和は先刻言い残していったのだ。


『生きて、この国の、この大陸の行く末を見届けろ』と。


後を追うことも許さなかった。ならば、これくらい大目に見てほしい。最後まで重荷を背負わせてほしい。たった一人の妻だと言うのなら。


「なりません。大王様に貴女様のことを託されました」


岬も苛立っているのか、失礼しますと言い捨てて緋禾の腕を引っ張り上げようとする。担ぎ上げてでもこの場から離そうとしている。白狐もそれに反対のつもりはないのか、じっと空を見つめて手を出そうとはしない。当然のごとく緋禾は抗った。けれど武人としても腕の立つ岬は、女性の抗う力など簡単に抑え込んでしまう。


「お願いです、岬殿!あの人をここにひとりには出来ない…っ」

「それは私も同じです」

「なら!」


涙を散らして緋禾が叫んだ。ドォン、という轟音と共に大地が大きく揺れたのはその時だった。



***



空の天気はそのまま神の怒りを表しているかのようだった。分厚い雲間から絶えず大粒の雨が降り注ぎ、時折鈍い光を伴って雷が響き渡る。こんな悪天候は、ここ数年見たことがないように思われる。


陣から出て一人春日野の中央に出てきた軽装の御和は空を見上げた。向かい側の敵陣営では、撤退をしておらず、いまだにざわめきが満ちている。上手く情報が伝わっていないのだろう。遠目で見ても分かるほどに、馬が後ろ足で立ち上がったり、雨で松明が消えたりと混乱を極めている。

陣内では怒号も飛んでいるようだった。


この騒乱にあえて敵陣の兵を巻き込みたくないのは山々なのだが、もうこれでは今から声を掛けても間に合わないだろう。ごおっと突風が春日野を通り過ぎてゆくと、同時に今まで感じたこともない衝撃と轟音が大地を貫いた。思わず目を瞑ってよろめいてしまったが、倒れることはない。何とか踏ん張りながら閃光にくらんだ目を慣れさせると、近くの草木が赤い火を放って燃えているのが見えた。


(春日野が燃えてしまう…)


すると、ごおっと生ぬるい風が吹き抜けた後、雲間から不気味な光が地上に届いた。


『――我が遠き血の末子よ』


腹のど真ん中に来る重低音。一気に大気が反応して一層強い衝撃を御和に与えてくる。漆黒の雲間から差し込む光が、御和に問いかけてくる。びりびりと震える指先を握りしめながら、御和は大地に膝を折った。


「我が遠き血の祖神様」


この大陸の創世神が大地に降り立とうとする瞬間だった。けれどそれは実体もなく、ただ雲間から怒りとも悲しみとも哀れみとも取れる声を聞かせるだけ。それでも、耐性がない者にとって、この声や光は毒に等しいものだ。夷と流の両軍では、既にこの光を見てしまったのか、苦しみ呻く声が聞こえてくる。

天の御神の光を、実体はなくともその姿を直接見てしまった者は、目を焼かれてしまう。どんなに崇め奉る神だとしても、一国の王くらいの格を持たないと、その衝撃に耐えられないのだ。それをどうすることもできずに御和は密かに歯がみした。

こうなった以上、早く事を終わらせなければならなかった。


「古き神々の聖地でこのような騒ぎを立ててしまったこと、どうぞお許しいただきたい」

『…この地は太古の昔、初めて国が成り立った地。全ての神々がこの地に降り立つ、決して血や争いごとで穢してははならぬ場所。それを分かっていて尚、お前はそう申すのか?』

「言い訳は致しません。罰は受ける所存です。この騒乱を巻き起こした者は、皆」


それを言うとともに垂れた首筋にピリッとしたものが走る。


「しかしながら、お聞きください。この騒乱は国の長二人で起こしたものです。どうか、ここに付き従った者達への罰は、どうかお許しいただきたいのです」


答える声はなかなか降りてこなかった。降臨した高御倉神も考えあぐねているのか、沙汰を響かせるまで、冷や汗が背中を伝う程に時間があった。しばしの静寂を、しかし破ってしまったのは掠れただみ声だった。


「お待ち下され、天の高御倉神よ!」


はっと目を上げると、陣内から飛び出してきた岩城貞文が両手を捧げるように天を仰いだ。さすが小国の王となれば、直接天の光を見ても目を焼かれないようであったが、あまりにも許し無く神に語りかける姿は軽率としか言いようがない。


「我らが夷の国は真にこの大陸・豊葦原の繁栄を願う一族!此度の戦、中つ国に一極集中する権力を平等に帰すものでありまする!」


戦装束を身につけ、天に両手を掲げる岩城貞文は、まるで御神に戦いを挑んでいるように見えた。「岩城殿、何を!」と、陣の向こうで荷担した流の国の山名瑞架が叫んでいる。それでも岩城貞文は声をとめない。ここに創世神が現れたのを僥倖だとも思っているかのように、一気にまくし立てた。


「今こそ神に頼らずヒトが進化するときなのです!神によって地が統べられていたことは過去のこと。神の御位によって国の位も決まるということ、誠に平等ではございません。

天の御神が地上に下らずとも、よく大地を統べることが出来る力を我にお与え下さい!なればこの豊葦原は皆平等になりましょう!」


そんなことをすれば、この大陸は常に争いを抱える殺伐としたものになってしまう。岩城貞文は、不平等だと声高に物申しているが、大国は大国として、小国は小国として形が整えられた経緯がある。そしてそれぞれに課された義務がある。それをよく守ってきたからこそ、この大地は長く争いごとがなかった。

しかし、今、この騒乱を通じて、豊葦原を原初の混沌に戻そうとすれば、これ以上の争いが起こることは必至だ。


神々が遥か昔、子孫の平和と繁栄を願って作り上げられた大陸の形。それを、あの男は真っ向から否定した。それが、火に油を注ぐ行為だとなぜ分からないのか。


「誰に向かってものを言ってるんだ、あいつは!」


御和は舌打ちして春日野の中心まで出てきた岩城貞文に駆け寄ろうとした。

が。


『そこなる者は須佐神の血の末裔か』


須佐神――それは、高御倉神と沙依里比売の息子で、夷の国の祖神だ。少々荒ぶる気質を持つ神は、夷の国の岩倉へと悪さをしないように封じ込められてはいるが、それをもってしても、気質は子孫へと引き継がれていくらしい。

高御倉神が岩城貞文のことを聞いているのは御和だった。岩城貞文は直接言葉を交わすまでもないと、そういう風に見られていた。高御倉神は実体もなく、光の中から一筋のまっすぐ通った声なき声を送っている。御和がどくどく波打つ胸を押さえて一つ息をした。


「真です。春日野に陣を敷いたのは、私とそこなる岩城貞文にございます」

『ならば、須佐神の末裔にもお前と同様に罰を与えることとしよう。「平等」に』

「なりません、天の御神よ!我が一族は――」


一瞬の出来事だった。神は、その性質ゆえに傍若無人な振る舞いをすることがある。それが正に今目の前で証明された。

雲間から覗く不気味な光が、目にも止まらぬ早さで春日野に降り注いだ。真っ直ぐに声を上げていた者に向かって。大気を震わせるものすごい音が地面を揺らした。息をするのも忘れて御和はその光景に見入る。

そこで、目を見張る御和の視界を一匹の白狐が駆け抜けていった。

淡く光る狐。御和が何度も何度も見てきた姿。


「…っ兄上…!」


白狐――呪詛に縛られ霊魂となっても地上に留まっている佐和が、天上からの光を受けて黒く燻る人型に飛びかかり、そのまま腕を鋭い歯で食いちぎった。そこは右腕だった。佐和が呪詛の形代として取られていたもの。それを奪い返すように今、右腕をその身体から引き離した。

呪いは裁きという形で、呪詛した本人に跳ね返る。

呆然と、それ以上の言葉もなく、崩れ落ちたその人――人だったものは次第に淡い光に包まれだした。闇の中に溶け込むように、やがてその輪郭も分からなくなる。蛍のような光の群れは、そのまま大地に溶け出し、吸い込まれていった。呆気ないほどの人の終わりをこの目で見て、真に身体の奥底が戦慄した。


『人の世は――儚きモノだ。否しかし、人には来世がある。分かるな、我が愛しき血の末子よ』


神の世にはないものが来世だ。人は肉体が死に絶えると、そこから抜け出した魂が地下世界の女神の元で一時の休息を得て、再び人の世に舞い戻る。前世で果たせなかった想いを果たすために再び生まれくる。

けれど神は、ずっと形を変えずに天上世界で地上を見守る義務がある。この者が輪廻の中で再び人の世に生まれても、長じても、それはずっと続けられる。


『この者の魂は必ず、何がしかの形で来世で想いを果たすであろう。私が奪った命だ。私が加護を与えよう』


それは、お前にも、だよ。

高御倉神がそう御和に語りかける。それを聞いて、御和は自嘲気味に微笑んだ。御神の目的は変わらない。双方ともに罰を与えるということは、もうきっと変えられない。分かっていたはずなのに少しだけ生への未練を感じてしまって、己も所詮人間なのだと思い知った。もう一度自身の意志を確かめるように、御和はぎゅっと拳を握りしめる。


「もう私は既に御神からの血の加護と我が妻から水の加護をいただいております。もう十分にございます」


瞼裏に思い浮かぶのは、強気な自分の妻の顔。

最近は、好意らしきものを向けてくれるようになったけれど、それは奇跡のようなものではないかと、御和は思っている。

そもそもは、自分から嫌われにいっていたようなものだった。その女に惚れたのは一体いつの頃からだっただろう。

「死なない」と豪語した時か。兄を呪いの底から救い出してくれた時か。祝言を上げた時か。無理やりのように身体を奪ってしまった時か。恐らく、全部違う。御和は、この春日野で舞っている姿を見たときには、もう惚れていた。側女などいらないと思えるほどに、緋禾しか目に入らなかったと思う。


それでも、向けてしまうのは意地の悪い言葉ばかりだった。それに突っかかってくる緋禾が可愛くて、からかうように接してしまっては、余計に怒らせていた。緋禾は素直だ。おのれの信用できるものをとことん信じる。それは、御和が遠い過去に置いてきてしまった感情だった。

素直に感情を表現して笑ったり怒ったり悲しんだりする緋禾が、愛おしくてならなくなっていたのだ。


そんな妻とはもう共にはいられないけれど、望むことができるなら、来世で添い遂げようとそう思う。それが御和の願いだった。


『我が愛しき血の末子よ。そなたの来世が神々の加護に恵まれるよう』


そう優しい声をかけていても尚、高御倉神の決定は覆らない。再び雲間から言いようもない不気味な光が現れ始める。


「これが『平等』というなら、受け入れよう」


御和はそっと目を閉じた。そして来たるべき衝撃に細く息を吐き出して身を備える。

思えば長くも短くもない人生だった。大王になることは、御和にとって大変な重荷だったけれど、それでも自分で選び、してきたことに後悔はない。何一つない。


頭上で凄まじい光がはじけ飛ぶ気配。自分へとそれが向かう。

衝撃。

大地の揺らぎ。

そして。


(――姫君!!)


白狐の声が大気を切り裂く。どさりと御和の腕の中に何かが倒れこんできた。

衝撃に見開いた御和の目に飛び込んできたもの。


「ひ、か…?」


つい先刻まで、自分が思い浮かべていた、妻だった。



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