二
豊彦は緋禾にこの大陸の中心である中つ国の大王に嫁ぐことだけを告げて、腰を上げた。本当にそれだけを告げに帰ってきたのか、他にはなんの言葉もない。父と、それに付いて母が去った室の中で緋禾はじっと空を睨みすえていた。固く組んだ指が凝り固まるまで、ぴくりと動くこともしなかった。
時が止まったかのような、一瞬の静寂の後、緋禾はそっと衣擦れの音をさせて立ち上がる。御簾を跳ね上げて廊に出ると、一目散に自室を目指す。雨に混じって微かに花の匂いがする自室に戻ると、煩わしげにきつく自分の胴を締め上げていた帯を解き、簪も手珠も頸珠も床に放り出した。これらの品々がどれほどの高級品でも、今の緋禾にはさして興味もわかない。意味がないのだ。緋禾が愛しているのはこんな上っ面だけの「綺麗な」ものではなかった。
髷を解いて、腰まで届く長い髪の毛が緩やかに弛むと、無造作に簡素な麻紐で一つに結わえた。そして、いつも身に着けている袴を手に取り慣れた手つきでそれを穿く。一気に普段の自分に戻って、緋禾は安堵の溜息をついた。
けれど、自分の今の姿を見下ろして、唇を痛いほどかみ締めた。およそ、姫君らしくない格好。もう何年もずっと緋禾はこの格好をし続けているが、それにももう期限が来てしまった。
緋禾は、後少しも経たない内に、この土地から去らねばならない。その時は、また裳を履いて、きつく髷を結われ、様々な宝飾品を身につけて中つ国へと向かうのだ。
(もう、あと何回この格好が出来るんだろう…)
一旦、逆らえるはずもない大国からの要求が突きつけられれば、豊彦がそれに否を言う事は考えられなかった。この穂の国が小さく力も弱いことはまだしも、父は中つ国の大王に忠誠を誓っている。緋禾は、抵抗してもその願いが聞き入れられないことを十分に承知していた。それは、自分の拒否したい思いがこの穂の国を潰してしまうことにもなり得るから。
中つ国は周囲の五国にとって脅威的な存在だ。あらゆる権力と武力を勝ち得てきた大国。それに逆らうことは、国の危機を意味している。
緋禾は、この国を自分の生まれ育った国を愛していた。だから、好き好んで自分の愛しているものを危険にさらすつもりもない。結局は緋禾が従うしかないのだ。あちらの要求がどれ程嫌でも、この国にずっといたいのだと思っても。
(一体、大王は私に何を望んでいるのだろう)
穂の国は、五国の中でも力がもっとも弱い。天上の王の妃たる女神を祖先に持っているとしても、実質上の力にはなりえない。豊穣な土地ではあるが、武力となればほかの国にはどうしても敵わないだろう。大概が、野心なく大らかな人柄が多い民ばかりである。戦いにも、他と争うことにも向いていない。
緋禾だってそうだ。こんなに負けん気が強く、生意気で、およそ姫らしくないとしても、争いや物々しい国々の牽制は大嫌いだった。
(どこにも行かなくていい。この国で、皆に囲まれて巫女として一生を終えられたら、それで良かった…)
けれど、その願いは、空しくも打ち砕かれてしまった。
喉元に苦しい嗚咽が込み上げると、緋禾ははっとして、首を左右に振った。弱気な自分は一番嫌いだ。物思いからさめて、暗い室の中に獣脂の灯を着けるのも忘れた空間を見渡した。
不意に、雨戸ががたがたと鳴った。目をそちらに向ければ、亡羊としていた耳に嵐の喧騒が舞い戻ってくる。木々のしなり、波が泡立ち砕ける音、風が空を切り裂く音。
その音を聞いて、緋禾の足は勝手に動いていた。水を吸って少々重たくなった雨戸を、両手で引き開ける。人一人がようやく通れる隙間が出来た瞬間には、緋禾は嵐の中に飛び出していた。
庭の向こう側には、灰色に染まった海がある。荒れて、高波が砂浜を浚う様子も見て取れた。緋禾は何かに憑かれたようにその方向へと足を動かした。
いつも海まで下る道。風雨が滑らかな彼女の頬を打ち、髪の毛を千千にを乱した。それでも、緋禾の足取りは軽いものだった。
裸足のまま、海へと向かう。それだけが、今の緋禾に必要なものだった。他には何も要らなかった。
今は、大王に嫁ぐ話も忘れていたかったから、五月蝿い風雨は緋禾にとって都合の良いものだった。
***
暗い室内に、脱ぎ散らかされた裳や簪の類を見て稲日は卒倒しそうになった。今まで穂の末姫には常時はらはらさせられてきたが、心臓が止まりそうになったことは初めてだった。
「姫様…?」
稲日は緋禾を探しに屋敷中を駆け回ったが、どこにも己の主の姿はなかった。裳を嫌い、また袴に着替えたであろうことは室の中を見てはっきりしたが、どこにもその緋禾がいないとなると考えられることは一つだ。そして、その考えは、ぴったりと閉じたはずの雨戸が隙間を開けていたことで確信に変わった。
哀れに、稲日は叫びだしたい衝動に駆られた。この嵐の中、まだ十七の娘が一人で出歩いて無事でいられる保障などどこにもない。領内を歩き回って慣れている姫君だとしても、危険はそこら中にある。稲日は、せり上がって来そうな心臓を何とか宥め、踵を返して主夫婦のいる室へと小走りで向かった。
この非常事態を一人で対処するのは難しい。衛士にも手を借りて、未だ「幼い」姫の行方を探さねばならなかった。そして、使用人らしく主人に指示を仰ごうとしたのだが、返ってきた返事は意外に冷淡なものだった。
「放っておきなさい」
「何故です!姫様は少々お転婆がすぎていることは豊彦様もよくご承知でしょうに、ご心配ではないのですか」
「あの子を止められると思う?無理よ。緋禾はこの地を愛しているけれど、良くも悪くもこの小さな型には収まっていられない」
口を挟んだのは母の十千代だ。そして十千代はふと何かを考え込むように俯いた。少しだけほつれた髪の一房が頬にかかる。憂いたその顔は、四十になった三人の娘と一人の息子の母には見えない。横に居た豊彦は、妻の懸念を慰めるように顔を覗き込んだ。
「…稲日。あの子が木築のお社に上がる事が決まった時期は覚えている?」
「ええ。それはもう。緋禾様がお生まれになって直ぐに」
「緋禾はね、私たちの祖――沙依里比売の恩恵を色濃く受け継いで生まれてきた子よ。だからあれ程この土地に執着もするし、巫女となり得る神気も姉妹三人の内一番強かったわ…けれど」
指先を玩びながら語っていた十千代の動きが不意に止まった。隙間風が吹いて獣脂の灯が揺らぐたびに、稲日は緋禾がどうしているかが気になって、冷汗を垂らしていた。こうしてこの場に居る間に、一体何度我が末姫は命の危険に曝されているのだろう。稲日は次第にそわそわしだしたが、十千代はいっそ呑気とも取れる静かな声で続けた。
「だからこそ、この土地に居てはいけないのよ。神の神気を受け継ぐことは、あまりにも周囲の国から注目されてしまう。土地も国力もそれほど強くないこの国は、敵を作ってはいけないのよ」
十千代が言っている内容の半分も、稲日には理解できなかった。十千代の言い分は、緋禾がこの国にいては他国の侵略の「理由」にもなるから、いっそ大国に送った方が安心である、とも取れる。
豊彦にはそういう考えもあって、緋禾の嫁入りを受け入れたのであろう。そして当の中つ国も、緋禾を欲しがる「理由」があるのかもしれなかった。
それくらいしか、稲日には分からなかった。
けれど、それだけで充分だ。今の稲日には、仕える主の身のことだけが一番の心配事だ。
「緋禾様の中つ国行きには私も同行したいと考えております。あの方が困難に直面すれば、いつでも傍に居られるよう…それは、今もです」
そう言うと、稲日は夫婦に礼をし、裳裾を振り払って立ち上がった。
「緋禾様を探して参ります。失礼いたします」
言うや否や、温かな室を飛び出して稲日は雨の中へと飛び出していった。