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空をゆく、仄か緋を  作者:
戦火
29/37


炸裂した光にきつく目を瞑った緋禾は、一瞬で温かく柔らかな闇――「混沌」から抜け出ることができたのだと直感した。しかし、走り続けた身体は勢いを殺すことなく、唐突に重力を思い出し、つんのめるように地面に激突した。一瞬意識が飛びそうなほどの衝撃が緋禾を襲う。地面に投げ出された格好のまま呻く緋禾の後頭部に、つんつんと柔らかな感触が押し付けられた。


(無事か、姫君)


霊魂であるのに、佐和は他人の心配が出来るようであった。更に、同じようにこの地面に投げ出されたにも関わらず、ひょいと宙返りして難を逃れた白狐は、無様に滑り込む義妹を突いて起こしてやった。ぱらぱらと砂利を落としながら顔を上げると、しゅんとヒゲを下げた白狐が、すりむいてしまった緋禾の頬を舐めあげる。霊魂の存在になっても、年長者らしく緋禾を気遣いおろおろとしている。何とも人間臭いモノノケである。


「…大丈夫です、何とか」


本当は擦りむいた頬も痛いし、勢いで噛んでしまった唇の端も痛い。けれど今はそれどころではないことを思い出して、緋禾は這々の体で身を起こした。女神が作り出した混沌から抜け出してきた場所は、木々が沢山生い茂る森の中のように思われた。

一瞬春日野の横にある森に出ることができたのかと思った。けれど、見える景色も感じる空気も違うことに気づく。木々の種類が微妙に春日野の森と違うのだ。不安げに辺りを見回して緋禾は口を開いた。


「ここは…」

(混沌の先に弾き出されたようだが、ここも女神の神域の中なのかもしれない)

「春日野では」

(無いね。火の匂いも、人馬の匂いもしない)

「そんな…」


その言葉を聞いて絶望した。たださえ差し迫っているこの状況の中で、知らない場所に飛ばされてしまえば、もう完全に間に合わなくなってしまう。御和の元に駆けつけることも、危機を知らせることも、戦を止めることも――

情けなくも、緋禾はその場で立ち尽くしてしまった。右も左も分からない中でこの後自分がどうすればよいのか、路頭に迷った子どものように、瞳を落ち着きなく彷徨わせることしかできない。


緋禾の血の祖先神――沙依里比売は、この騒乱に娘を関わらせまいと、どこか遠い土地に緋禾を弾き飛ばしてしまったのだ。今、一番離れたくない場所から遠ざけられて、御和の傍に行くことも叶わなくなってしまった。呆然と立ち尽くす緋禾に、無情にも木々の間から大粒の雨が降り注いでくる。

遠くの方でごろごろと雷が鳴っている。木々の間から見える空は分厚い雲に覆われて、またたく間に雨が本格的に降り出してきた。音よりも先に空に走る稲光を見て背筋が凍る。


「高御倉の御神が…」


あの雷は神の怒りだ。あれに触れれば命を落としてしまう。

間に合わない。御和を、守りたかった者を守れず孤独の中一人王として立つ人を、助けられない。

何が巫女だ。何が神気だ。大切な人を助けられないのなら、こんな力欲しくはなかった。


(でも…)


きつく握りしめた拳を見て、緋禾は首を振る。


(この力が無ければ、私はここで朽ちていくしかない)


それはできない。緋禾にはここで起きた全てを見届ける義務がある。緋禾は御和の妻だ。中つ国の后だ。ここでこのままじっとしていて、この身体が朽ちてしまっても、女神はきっと温かな懐に迎え入れてくれるだろう。けれど、緋禾はそれを永遠に望まない。朽ちるなら御和の傍がいい。


雨粒か涙か分からない雫を強引に手のひらで拭う。下から伺うように見上げる白狐と目を合わせて、不器用に微笑んでみせた。大丈夫だと伝えるように。そんな緋禾を見て、白狐は尾を一つ振った。


「大丈夫です。私、諦めたりなんかしない」


自分自身に言い聞かせるように緋禾は何度も何度もそう言った。その言葉は緋禾自身を突き動かす。


「佐和様。どこか見晴らしのいい場所はないかしら。ここじゃ何も分からないから、せめてここがどの辺りにあるのかだけでも知りたいわ」

(…ちょっと待っていなさい)


そう告げるや、佐和は近くにある木に爪をかけて上の方まで上っていた。緋禾も木登りは得意であるが、ここまで高い木であると途中で足を滑らせそうだったので、ここは義兄に任せた。

しばらくすると、ぴょんとひとっ飛びで佐和は緋禾の元に舞い戻り、鼻先で方角を指し示した。


(雲で月が隠れてしまって方角は分からないが…あちらから、御和の気配が漂っている。森は深いが、案外遠くではないのかもしれぬ)


白狐となった兄の嗅覚は信頼に値する。緋禾は滴る雨粒を払いもせずに、佐和が示した方向に足を進めることにした。しかし、百歩も歩かない内に緋禾は早くも根を上げそうになる自分を叱咤しなければならなくなった。

背の低いシダの葉や蔓が行く手を阻み、地面からせり上がる木の根は緋禾の足を容易に引っ掛けに来る。森や自然に慣れている緋禾と言っても、遊びに行くのは比較的人の手が入った、管理されている場が多かった。両手で懸命に葉を掻き分ける度に柔らかい指先に細かい傷をいくつも作り、躓いて泥濘んだ地面に手をつけば、あっと言う間に泥だらけになる。上衣も袴も途端に雨やら泥やらで汚れきった。所詮狭い世界に守られてきた箱入り娘だ。傍で見守る佐和も、自身が霊魂で狐という動物の姿を取っている以上、緋禾に手を貸すことが叶わない。


雨が降る中、彷徨うように森を掻き分ける緋禾はとても高い塀の中で守られた大国の后には見えなかった。

それでも、緋禾が立ち止まることはなかった。手を着いても、雨に振られてずぶ濡れになっても足だけは前に進み続ける。先導する佐和の仄かに輝く体だけが頼りだった。


しかし、慣れない動きに簡単に身体は順応できない。ふと、比較的柔らかい地面の感触を捉えた瞬間、ずるりと緋禾は足を滑らせて灌木の間に落ちてしまった。


「きゃあっ」

(姫君!)


佐和の慌てた声が頭の中に響き渡る。思わず目の前にあった蔓を掴んで滑り落ちることだけは止めることができた。しかし、摩擦熱で緋禾の柔らかい手のひらの皮膚は大きくめくれ上がる。


「いた…」


微かに血の匂いが鼻について、とうとう緋禾は膝頭に顔を突っ伏したまま動けなくなってしまった。全身ずぶ濡れのままでは体力と体温を奪われ続け、まともに頭が働かなくなっている。どこにいるのかも分からないまま、惨めにぼろぼろになっている自分を叱咤したくても、身体が言うことを聞かなくなっている。足が出ない。歩けない。


(手を見せてみなさい、姫君)


側頭部を鼻先で突かれて、少しだけ目を上げると、佐和がすぐ傍まで身体を寄せてくれていた。仄かに温かい身体に無意識に頬ずりして、緋禾は両手を差し出す。慰めるように励ますように、直してやるとでも言うように、佐和はその傷をぺろりと舐める。そうされると、不思議とじくじくした痛みが引いていくように思えた。霊魂であるというのに、その感触を確かに感じられることが不思議でならない。

その不思議をポツリと漏らす。と、目の前の白狐は可笑しそうに目を細めてみせた。


(…忘れていないかい、姫君。私は貴女の味方だ。貴女がそうと信じていれば私の慰めはきっと貴女に伝わるだろう。そして、貴女がずっと心を寄せてきた自然も、虫も、動物も、岩も、土も、貴女の味方であるのだよ)

「味方…」


こんなにずぶ濡れで傷まみれなのに?守りたい者も守れない、惨めな自分なのに?

その卑屈な思いを、佐和は笑って吹き飛ばす。


(見てご覧。今、この灌木の枝葉は、柔らかく貴女を守っている。地面に腰を打ち付けないように、自らを挺して貴女の身体を支えているよ)


はっと下に目を向ける。薄暗闇の中、確かに灌木の枝や葉は緋禾の下敷きになりつつも、直接泥濘んだ泥に緋禾がはまり込まないように守っているように見える。そして、上から生い茂っている木々は、緋禾がこれ以上雨に濡れないように葉を広げて頭上に傘を作ってくれている。

緋禾が常日頃から愛している者達は皆、緋禾をずっとずっと母のように見守っている。ここに来て初めて感じられた風は、緋禾の身体を優しく包み込んだ。


そのことを思い出して、耐えられなくなって緋禾は再び膝に顔をうずめて泣いた。頼りないこんな惨めな自分を、遠くで、近くで見守ってくれている存在が確かにある。緋禾を励まそうと手を貸してくれている。

なぜそれを今まで忘れられていたのだろう。気が急くあまり、緋禾は一番忘れてはならないことを見ないまま進み続けるところだった。


「ごめんね…ありがとう…」


呟く声に答えるものはない。けれど、葉は、風は、雨は優しく緋禾を撫でていく。穂の国にいた頃、いつも緋禾が感じていた優しさだ。この万物の自然の中に神はいる。彼らが緋禾を守ってくれている。


それを思い出した時、不意に緋禾の胸の奥――否、もっと下の腹の奥でチリチリと何かが鳴る音がした。神楽鈴が触れ合う音にも、風鈴が風に揺れる音にも似ている。はっと目を上げても、目の前の佐和からは聞こえてこない。そして今、緋禾は神楽鈴を持っていない。あの混沌の闇の中に落としてきたままだ。

思わず重だるい身体を起こすと更に音は強くなった。何かが呼ぶように、引き合うように、緋禾を呼手招きしている。自身の内側から聞こえてくる音と、森の向こうから呼ぶように響く音。


(姫君…?)


柔らかな枝葉の寝台から身を起こした義妹を、佐和は訝しげに見上げる。彼にはこの音が聞こえないようだった。惹かれるように目の前の枝葉を押しのけると、そこはぽっかりと広場のように空間が空いていた。


(森を抜けたか)

「佐和様。こっちに…音が聞こえます」

(音?)

「神楽鈴に似ている。私の中からと、あっちの方から聞こえてくるんです」


もう限界を超えているはずの足がフラフラと歩き出す。雨は未だ止まないものの、小康状態になっており、けぶるような景色の先には淡く光る大地が見える。あれが、もしや、春日野ではないだろうか。

しかしまたしても、数歩歩いたところで唐突に緋禾の足は止まってしまった。


「どうして…ここまで来て…」


二人の足元にある大地は、一寸先で途切れていた。ようやく森を抜けた先、春日野を遥か遠くに認めたというのに、そこから先は切り立った崖が緋禾の行く手を阻んでいる。見下ろせば、抉れた崖の先はまだまだ遠くまで森が続いている。黒々と広がるそれは、混沌の暗闇を思わせた。

この先を進んで行くのに、後一体どれくらいの時間を使わねばならないのだろう。地道に足で進んでいては夜が明けてしまう。そうなればもう、高御倉神の降臨を止めることは叶わない。

今もまだ、呼び合うような鈴の音は響いていると言うのに。


息を荒くして遠くの春日野をじっと見つめる緋禾に、しかし白狐から響いてきたのは意外な声音だった。


(女神の神域の森を抜けたとなれば…『あわい』の空間を抜けて春日野に向かうことが出来るかもしれんぞ、姫君!)

「『あわい』…?」

(何か呼び合う音が貴女の中に聞こえているのなら、入り口さえ作れば抜けられる。出来るか)


その「あわい」なるものが一体何なのか緋禾にはちんぷんかんぷんである。人たる身の緋禾にはまだ知ることのない世界が幾重にも重なっている。


(『あわい』は私のような霊魂が場所を移動する手段として使っている空間だ。先程の混沌は神々が作り出す空間だが、『あわい』はもっと行き来が容易だ。先程の混沌の中で神の気配に触れ、更に御和と呼び合う絆が貴女の中にあれば、目指す場所に連れて行ってくれるはずだ)

「それは…人間の私が渡っても構わない空間なのかしら…」


またしても弾かれて違う場所に落とされれば、もう取り返しがつかない。もしくはその「あわい」に閉じ込められてしまえば一巻の終わりである。


(保証はない。なんせ人間が入り込んだ例がないのだから)

「え…」

(だが、試す価値はある。私が道を間違えず、姫君と御和の絆が確かであれば、必ず強く呼び合うはずだ)


今はそれに賭けるしか道がない。佐和はそう言い切った。もう選んでいる時間がないのだ。真剣な白狐の瞳を見つめて、緋禾は己の胸元に手をやった。身体の奥の音は鳴り止まない。そして向こうから聞こえる音もまた、ずっとずっと緋禾を呼んでいる。

半身をもぎ取られてしまったかのように、片割れを呼び続けている気がする。なら自分は、その半身を迎えに行かねばならないのだ。離れていることなど出来やしなかった。


迷っている時間はほんの少しだった。意を決して緋禾が佐和に頷いて見せると同時に、白狐は大きく宙に舞い上がり、音律を踏むかのように四肢を跳ねさせ、空間を割くように一回転してみせた。

すると、今まで暗がりだけであった空間に仄かな緋色の裂け目ができる。「あわい」の入り口だ。その奥は星が顔を出し始める空の色をしている。いくつもの道があり、いくつもの出入り口があり、いくつもの時間がめぐり、迷ったら最後抜け出せないような空間だった。


(開いておける時間は短い。さあ、早く)


宙に浮いたままの佐和が早口でまくし立ててくる。既に緋禾の心は決まっていた。鈴の音に従えばきっと御和の元に行けるのだとそう信じて、彼女は崖から飛び降りるようにして、その「あわい」の入り口に身を躍らせたのであった。



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