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空をゆく、仄か緋を  作者:
戦火
28/37


日が沈むと宮の中は怖いくらいに静まり返った。大半のものが兵として春日野に出ていってしまい、残っていたのは女と僅かばかりの衛士や奴婢のみ。あとは宮の混乱を鎮めるために残された御和の側近が数名だけだ。

穂の国の小王たる父も御和に付き従い、穂とは縁者となっている葵の小王・滝津氏も同様だった。それでも急ごしらえの軍は二千が限度。そもそもがこの中つ国に兵を持ち込むことを禁止されている小国が、自国の民を動員できるばずもなかったのである。


緋禾は御和が出ていってから、残った者達にありったけの兵糧を用意するように言いつけ、自身は白狐の佐和と共に宮の隅々まで見て回った。衛士が危険であるからと止めようとしてきたが歯牙にもかけない。

佐和を縛り付けるほどの呪詛を仕組んだ相手だ、どこかにさらなる呪詛が仕掛けられているかもしれないと、巫覡も集めて不審なものがないか十分に探させた。


幸いなことに、戦にて全ての決着をつけようとしたのか、宮の中にはもう不審なものは残されていなかった。そこまで確認できてようやく、緋禾は安堵の息をついて残った者たちに休息を取るように申し付けた。そして、大王の陣が万が一破られた時のことを考えて、それぞれに隠し戸の場所を教えておくことも忘れない。

作った兵糧を皆に分けて、この国から逃れろと、緋禾が上の者の立場として発した初めての命令だった。


今まで顔を見ることも叶わなかった主の妻に、最初は戸惑っている様子だった宮の者も非常時に鬼気迫る様相を見て素直に従った。御和やこの大陸の中心人物がいない中、従わなければならないのはこの后のみだ。しかし、全ての者が緋禾の命に是と答えたわけではない。


「いくら大王様からの命であったとしても、主を放ってこの国から逃れるなど、考えられませぬ」

「お願いよ。聞き分けて。あなた達の命が守られなければ、私が大王様から叱られるのよ」

「万が一我が主の陣が破られるとなれば、私たちの命運もそこまででしょう。お供をいたす覚悟でこの宮に上がっているのでずぞ」

「着いてくるなと大王様は仰るでしょうね…」

「何を。あの方を幼少時から見てきた私達にとっては、大王様の諫言など屁でもございませぬわ」


残された、主に老臣たちがひょひょと笑うのを見て、緋禾は張り詰めたものが一気に緩んでいく気がした。そんな場合ではないのに、困ったような笑いが唇の端に浮かび上がるのを止めることが出来なかった。それでも、緋禾にも譲れないものはある。


「じゃあ、言い方を変えるわ。万が一のことがあったら、武龍帝様をここから無事に脱出させて頂戴」


モノノケに襲われた御和の実父・武龍帝は、怪我をおしてこの混乱を収めるために、臨時で宮の中で采配を振るっていた。緋禾一人では何とも判断がし辛いもことも前大王がいれば何とかなった。御和にこの先万が一のことがあれば、他の者たちが頼れるのはこの武龍帝だけである。義父の安全を確保することも、緋禾にとって大切なことだった。


その人を連れて脱出せよと言われた老臣達は、皆苦虫を噛み潰したような渋面を作った。


「――して、そうなった時、貴女様はいかがされるおつもりか」


その問に、緋禾は笑みで答えることしかしなかった。



***



一通りの指示や準備が終わって緋禾がようやく自分の宮に戻ってきた時には、既に東の空高く上弦の月が上がっていた。用意された夕餉にも手を付けず、緋禾は縁に座り込んで庭を眺めていた。いくら稲日が「危険ですからお戻りください」と言われても頑として頷かなかった。


遠く春日野の方向からは松明だろうか、仄かに朱い灯りが空を染めている。月が中空を照らす頃、佐和は姿を現し、それからずっと緋禾の足元に佇んでいる。時折寒そうに緋禾が身震いすると、白狐は緋禾の膝の上に顎を乗せた。


(…室の戻られよ、姫君)

「大丈夫よ。あの人も…きっと、寒いでしょう」

(まだ戦は始まらぬ。そう神経を張っていては、姫君が先に倒れてしまう)


まだ春日野は血で汚されてはいない。春日野で戦をすることを、御和は何とか止めているのかもしれない。けれどこの不安はそう容易く拭えるものではなかった。

緋禾は立ち上がってうろうろしたり、座り込んで顔を伏せたりと落ち着かない。皆の前にいる時はあれほど気丈に振る舞えたというのに、人の目が無くなればどこにでもいる少女のように己の無力さを嘆いてしまう。


本当に自分にできることはないのだろうか。ここに残っている者たちを無事に守れることが出来るのだろうか。この国を危険にさらしている脅威から、ただ逃げることしかできないのだろうか…


不安に波立つ心を鎮めようと白狐は優しい光をまとって緋禾のすぐ隣にいる。お互いに言葉は交わさず、祈るような時を過ごすしかできなかった。



深更になれば宮の中は更に静まり返った。

虫の音も風のゆらめきも感じない不思議な夜の空気が満たす中、ずっと顔を膝に伏せていた緋禾は不意に立ち上がると室の中に消えていった。そしてしばらくして白狐である佐和の耳に届いたのは、涼やかな鈴の音色。

その瞬間、ばさりと御簾が捲られる。


(姫君…)

「――舞うわ」


外に出てきた緋禾が手にしていたものは、神楽鈴。この国に来る時に緋禾が母の十千代から譲り受けたものだ。穂の国の歴史と神気を纏ったそれは、シャランと静かな庭に清浄な音を響き渡らせる。

澄んだ空気の中、天にまで登っていきそうな音色だった。


「…あの人にとって、私は勝利の女神なんですって」

(あの無愛想がそう言ったのか?)


ふっと白狐の目がやさしく細められる。


「そうよ。私の神気目当てだったくせにね。いいように使われて、私も損な役回りだわ」


そんなことを言う割には、緋禾はとても穏やかな表情をしている。


(――あの子を、愛してくれているのか?)


もう霊魂になっているというのに、佐和から出てきたのは縋るような声音だった。緋禾はそれに答えることなく裸足のまま庭の中央へと進み出る。細い月が雲間から表れて、舞台の中央を照らしている。

もう冬も近い。真夜中に吐き出す息は淡く白かった。すっと目を閉じて緋禾は気を統一させた。


(…私はただ…私欲のために舞う。あの人に死んでほしくないから。生きて帰ってきてほしいから。その願いのためだけに、祈り、舞うのだ)


目を開けば、そこはもう緋禾だけの舞台だ。この非常時において舞うことしかできない緋禾のためのもの。軽く息を吸い、右手に持つ神楽鈴をシャランと鳴らすその響きが消えない内に左手を指示し、足先で音律を生み出した。


「榊葉を 折り取り 手に持ち差し上ぐる 四方の神も 花とこそすれ 」


御和が春日野に行ってから、まだそれほど時間は経っていない。けれど、一心に待つというのは緋禾にとってとても苦痛だった。すでに幾月も待っている感覚に陥ってしまう。それを落ち着けようと緋禾はただ只管に舞った。

それは私欲のために。御和の無事だけを祈って。


嫁いで来てからもう幾月か過ぎた。そう、あれは、初夏の候だった。これ程あの人の無事を祈るようになるなんて、正直緋禾も自分自身が信じられない。急に妻にされて、そのことを許すことなど出来ないと随分長い間そう思っていた。けれど、いつの間にか御和の痛みに触れて、佐和の哀しい結末に触れて、緋禾の中で何かが変わっていった。


(私は…私は、哀しいあの人の傍にいたいと、そう思ってしまった…)


だから、祈りのために舞うことは止められない。この国には確かな未来がある。遠い神々から残されたその幸いを潰したくない。自分もその一翼を担いたいと、自然にそう思っていた。


冷たい足先には、既に熱い血が廻っている。けれど、頭の中は逆に舞えば舞うほど冷静になっていった。緋禾の身体がまるで別のものになったかのような――


ふと、その時奇妙な感覚を覚えた。頬に感じていた風が止む。袖を振るう音すら聞こえなくなって、代わりに響いてきたのは低くも高くもない、まろやかな声音だった。


(…我が愛しき血の末娘よ)


その声が頭の中に響いたとき、緋禾は舞うことを止めた。はっと瞑っていた目を開けて周囲を見渡せば、そこは後宮の庭ではなかった。じっとりと温かく、音もない、何もない暗闇の中だった。その中で、唯一の光源であるかのように、緋禾自身が淡く輝いている。


「…ここは…佐和様?」


あわてて振り返るが、頼りになる白狐の姿はなかった。代わりに応える声は、白狐のように淡く穏やかで――恐らく、女性のものだった。


(ここは「混沌」です。我が愛しき娘よ)


声の主の姿は見えない。声は直接、佐和がそうするように頭の中に響いてくる。その証拠に、緋禾が心の中で問いかけても、きちんと返事をしてくれた。


(「混沌」…地上でも、天上でもないのですか?)

(そうです。それに地下世界でもない。あなたは舞う内に迷い込んでしまったのね。とっても引き込まれやすい質だから…)


どうやら緋禾は自らこの空間に足を突っ込んだらしい。それを理解してふっと力を抜いた。こうなれば足掻いても解決するわけではない。道が見えないのだから、帰る道が分からない。

どうすればこの「混沌」から抜け出せるのだろう。今はのんびりとこの暗闇に囚われている暇などないのだ。

彼のために心を注いで舞っていただけだ。早く帰らないと。

緋禾はもう一度女性に語りかけた。


(ここから出ます…どうすれば出ることができるか、お教え願えますか)


女性はやさしげで、どうやらこの「混沌」を支配しているようだから、とそう思って尋ねた。しかし返ってきた答えは芳しいものではなかった。


(今地上には戻らぬ方が良いでしょう。高御倉の御神の怒りに触れてしまう…御神が神罰を下すために間もなく下られます)

(下られる…?!高御倉の御神がお下りになられると?)

(そう…神の地を血で汚そうとすることは、許されません。例え、ご自分の末裔であろうとも。御神は双方を罰するおつもりです)


だから今、地上に戻れば危険だと。すなわちそこにいれば命の保証はない。それは、御和の危険を意味している。ぞっとして緋禾は暗闇に向かって叫んだ。


「駄目です…っ我が夫は春日野を不浄のモノで穢すつもりはございません!止めるために出て行ったのです。今すぐ高御倉神の降臨をお止めください!」


寒さなど感じない所で、緋禾はどっと冷や汗を溢れさせた。女性の言葉が何を意味するのか分かっていても、それすら拒否するように全身の震えが止まらない。今まさに、あれ程無事を祈った御和の命が危険にさらされようとしている。


(御神のご決断は変えられません。唯一の恩情は二国の長以外の命は取らないことでしょう)

「…高御倉神の末子の命を取ると言うのですか?」

(それがこの世の平等というものでしょう)


応える声はあくまで長閑で一人焦る緋禾が馬鹿に見える。それでも緋禾はその言葉を認めるわけにはいかなかった。


「…なら…なら、私も罰を受けます。どうぞ私を地上へ…春日野へお戻しください」


神楽鈴を取り落して手を握り合わせた。まるで懇願だ。けれど、今の緋禾は御和のためならどんな無様な真似も出来た。それほどまでに今、心は御和の元へ行きたがっている。


(それはならないことです。貴女は私の血を遠く引く娘であるから、御神は貴女まで罰すことはしません)


そこまで聞いて、緋禾は漸く確信した。


「水の女神様…!沙依里比売様!貴女様の末子の唯一の願いなのです」


女性はずっと言っていた。緋禾のことを、「娘」だと。どうして近しいものを感じながら気付けなかったのだろう。時間をひどく無駄にしてしまったことを緋禾はひどく悔いた。


「あの人のところへ行かせて…っ」


暗闇の中でがくりと膝をついた。握りしめた拳のその上に、ぼたぼたと涙の粒が落ちていく。顎を伝って、衣にも吸い込まれていった。けれど、緋禾の遠い親である女神はそれを拭うことすらせずに哀しげな声を響かせた。


(ならぬのです。我が愛しき娘。自ら御神の意の逆らうことは許されません)

「許されなくとも構いません!あの人が死ぬのなら、私もそれについて行くまでなのです」


御和は自分が死ねば緋禾に逃げろと言った。夷の国の者は必ず緋禾を殺そうとすると。

緋禾に生きる道しか残さなかった。いくら緋禾が首を横に振っても御和はその決断を絶対に覆さない。

そんな御和に、そして騒乱の根源である岩城氏に罰が下ろうとしている。二人に神が命を下そうとしている。


自分の夫が危機にある中、今の緋禾は御和の言うことに従うことはできないと、そう思った。ぐっと涙にぬれた拳を強く握りしめる。女神がここから去ることを許さないのであれば――ここから逃げるまで。


「――佐和様!我が守り神様!私が御和をお助けします。だから私をここからお戻しくださいませ!」


そう言い終えると同時に、立ち上がって走り出した。方向などわからないけれど、がむしゃらに緋禾は暗闇の中を疾走した。この混沌の暗闇すべてが女神の雰囲気をはらんでいる。

走っていく内にどろりと周囲は変化した。優しく、安心させてくれる暗闇。こっちにおいで、母さんの膝の上でお休みと、荒れ狂う緋禾の心を宥めるように鈍らせていく。それに縋りたくなる気持ちを振り切って緋禾は駆けた。

自分の血の祖を振り切ることはそう容易いことではない。しかし息が切れて肩が激しく上下する頃、淡く光る道筋が緋禾の足元に現れた。そのずっと先に佇む姿がある。


「…佐和様!」


それは緋禾が求めている人の、霊魂となった兄。そして叫ぶと同時に暗闇が薄れ始める。けれど、自分の血の末娘を危険に晒さないようにする女神の力は、更に緋禾の全身に覆いかかった。

緋禾が白狐の元に辿り着こうとする瞬間、緋禾の足元から暗闇が溶け出し、大きな穴を作る。ひくっと息を飲んだ瞬間に眩い光が炸裂して、緋禾と佐和はこの暗闇から弾き飛ばされた。



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