九
「最近は平和でございますね」
涼しげな風を浴びてそう言ったのは稲日だ。夕餉を終えて湯浴みをし、もうその後は眠りにつくだけの時間。数日前はやれモノノケの怪異だの、国はどうなってしまうのかだのと悲観にくれていたのだが、それが落ち着いた様相を見せると穂の民らしくのほほんと日々を送っている。寝具を整えながらのんびりと言う稲日に緋禾はあきれたため息をついた。
「何故そう思うの?」
「宮を騒がすモノノケとやらももう姿を現さないだろうと言われていますし、大王様も頓にこちらへ来て下さるようになりましたし」
これで無事に御子でも授かれば、と言い出す稲日に緋禾は頬を朱に染めた。
「ま、まだ早いわよ。そんな」
それに、あの人は私ではなく“お兄様”に会いに来るのが名目だし――と、それは心の内側に留めておく。宮を騒がせていた白狐は実は御和の死した兄の魂であり、誰かに使役され、それを緋禾が解いたと聞けば稲日は卒倒してしまうだろう。まさかそんな事が言えるはずもない。緋禾はぷいと顔を逸らして櫛を手に取った。照れていると思われたか、稲日はくすくすと笑っている。
「お貸し下さいませ」
稲日は丁寧に丁寧に緋禾の髪の毛を梳った。今宵も大王が来たときには、己の主人が美しく見えるように、少しでも愛してもらえるように、と。漆黒の、膝裏まである髪の毛が梳かれる度に艶を増していく。
最近、緋禾は見違えるほど美しくなったと稲日は思う。こちらに来る前までは、まるで少年のような身なりをして、外を駆け回っていた。生傷、日焼けは当たり前だ。生まれた時から木築の社に巫女として上がることが決められていたからか、少女から大人に向かう年齢を迎えても色気の欠片もない緋禾に、稲日は不安を抱えたものだ。
それが、突然の嫁入りでこの少女は変わったのだ。この国に来て大王に嫁ぎ、最初は本当に大切にしてくれるのかと稲日はやきもきした。しかし、最近は二人の雰囲気も柔らかくなり、大王から(恐らく)愛され、女としての磨きがかかった。そうかと思えば、日々きらきらとしとやかに、緋禾はきれいになっていった。
喜ばしいことだ、と稲日が少々髪の解れを直した時、声はかかった。
「――大王様のおなりでございます」
不服そうな声を隠そうともしない、王家の人物にしか仕えない采女の声。采女の意地悪で陰湿な態度にも、緋禾はもう慣れたようだった。元々があっけらかんとした性格で、深く悩まない性質の姫である。そういう意味では、緋禾はこの国に嫁ぐことが合っていたのかもしれないと、最近稲日は思うのだ。
もう自分が側で見守らなくても平気だろうと安堵の息をついて、稲日は櫛を片付けると、さっと頭を下げて辞していった。
その直後、一陣の風と共に御簾が跳ね上がる。現れたのは、ここ最近では見慣れた姿だ。そう、白狐の呪詛を解いてからというもの、御和はほぼ毎日のように緋禾の元を訪れている。
「まだ佐和様はいらしてないわよ?」
振り返りながら苦笑を漏らして緋禾は寝台から腰を上げた。いつものように、御和は、緋禾の傍について守神となった白狐――佐和に会いに来たのだろうと、そう思った。白狐は夜も深くにならないと、姿を見せない。現せないと言ったほうが正しい。
呪詛から解き放たれて霊魂となった佐和は、そもそも夜でないと姿が見えないのだ。今はまだいつもより早い時間だからか、緋禾の所へは来ていない。
しかし、御和はまっすぐに緋禾の所へ歩み寄り、その華奢な身体を抱き上げた。
「――…のか?」
「え?」
「お前に会いに来てはいけないのか?」
降ろされた先は寝台だった。緋禾が何かを言うよりも早く、柔らかな敷布に押し倒される。そして唖然としている内に唇を塞がれる。いつもの余裕な動きとは違い、少し彼は急いているようだった。胸元を探る手も、帯を解く手も。それでも緋禾の頬を辿る指先は柔らかくて、決して傷つけようとはしていないことがよく伝わってくる。だから緋禾は彼のことを怒れない。
御和は緋禾の夜着をはだけさせると、首の根元に鼻を埋めてゆっくりと呼吸した。
「…お前は、俺の妻だろう?」
「そうね」
「俺は、お前の夫だ」
「…そうね」
それだけ言うと、また唇が下りてくる。珍しく額に降る唇はどこか冷たい。
今宵も抱くのかと思っていた。緋禾はこの人の妻になったのだから、それを拒むことはもうできない。世継ぎを作るために抱かれるのが当たり前だと思っていた。
けれど、今宵、御和はそれよりも先には進まなかった。帯を解いて夜着を肌蹴させたまま、その腕の中に緋禾を包み込んだ。素肌が触れ合う感触にどきりと胸が波打つと同時に、御和は大きく冷たい手で緋禾の腰を引き寄せる。肩に御和の頭が埋もれた時、ようやく緋禾は彼が少し震えていることに気付いた。
御和が何かを求めてここへ来たのだと分かった。
そして気づく。御和は今宵、大王とその后という殻を必要としていない。いらないものだとでも言うように、自分を「夫」と、そして緋禾を「妻」と呼んだ。
ごくごく一般的で、ありふれた夫婦でありたいのだろうか。そんな関係性はこの国の中心人物でいる限り築いていくことが難しい。それは御和も緋禾もお互いによく分かっている。
けれど、今日だけは二人に纏わりつく柵を取り払いたいのだという気がした。
「…どうしたの」
いつもと違う様子の夫に戸惑い、つい緋禾はよしよし、と幼子にするようにその頭を撫でてしまった。男のくせにやけに柔らかい髪の毛だ。ちょっと羨ましくて引っ張ってみたりもする。しかし御和はそれすらも受け入れるように、緋禾の首筋に顔を埋めたままじっとしている。
今までなら有無を言わさず組み敷いて緋禾を抱き、そのまま室を去っていくことも多かった。緋禾に甘えるなんて正に天変地異だ。緋禾の問いかけには一切答えず、御和は力を抜いて緋禾に凭れ掛かる。
「御和」
さらりとその髪の毛を梳く。そのまま頭皮に指を滑らせ、項に触れた。女の緋禾のものとは違う太い首は男らしくごつごつしている。そして緋禾の指先は、御和の首筋の皮膚に不可解な引き攣れを感じた。項から肩甲骨にかけて、斜めに走るそれ。
「…傷?火傷?」
ふと問えば、むくりと御和が首をもたげた。そして何を思ったか徐に夜着の帯を緩めて上だけを脱ぐ。
「御和?」
戸惑う緋禾の声には応えなかった。衣服を開けさせ、がっちりとした上半身が顕になり、御和はそのまま後ろを向いた。先刻緋禾が触れた引き攣れた跡が、目の前に晒される。
「ただの刀傷だ」
「…いつの?」
「忘れたが…これは確か、兄上を守った時のものだ」
兄上――佐和だ。白狐という霊魂になってしまったあの人。
「俺たちはこの身の上故、暗殺されかけることも多かった。誘拐やら毒殺未遂やら刺客の襲撃やら、生死の境を行き来したこともあるが…これはもう既に運命だな」
慣れた、とでも言うように御和は自嘲した。そんな夫を前にして緋禾は何を言うべきなのか唇を開くけれども、今御和にかける言葉はどれも意味を成さないだろうと結局はそれを閉ざしてしまう。それくらい、悲惨なものだった。
晒された背中には、大きいものから小さなものまで無数の傷があった。
刀傷、痣、火傷の痕。
顔は驚くほど美しいのに、背中は泣きたくなるほど哀しかった。そして縋りたくなるほど男らしかった。
「…慣れるものじゃないわ、こんなもの」
「王とは得てしてそういうものだ」
いつも狙われ、いつも危険にさらされる。仕方がないのだと御和は笑う。
「父上もそうだった…母上もだ」
それはつまり、緋禾も狙われる可能性は多いにあるということだ。しかも今呪詛を解いた人物として非常に危うい立場でもある。
御和はくるりと振り返りまた緋禾を抱き寄せる。お互いに上半身は裸に剥いたまま、温かい素肌同士が触れ合った。
「私も殺されるというの?御和」
「その可能性が今一番大きいのは、お前だぞ」
「大丈夫よ。私には水の女神様のご加護があるもの」
水の女神だけではない。海の神も山の木々の神も、生物も、虫も、周りにある自然全てが緋禾の味方だ。だから心配無用だと、あっけらかんと緋禾が答えれば、やがて御和は気が抜けたようにため息をついた。そして漸く安心したように震えを収めたのだった。
迷い子のような瞳をしている御和が何だかおかしくて、緋禾は笑みを浮かべるしかない。からかっているのではない。目の前のこの人を励ましたいのだ。
「死なないわよ、私」
両肩に手を置き、鎖骨の付近に唇を置く。ゆっくり吸い付けば鮮やかな痕が御和に残された。
「あなたにも加護を分けてあげる」
「それは頼もしい限りだな」
くく、と今度は笑いのために肩を震わせた。初めて見るかもしれない、意地悪ではない、屈託のない御和の笑顔。それを見て緋禾も唇を緩ませた。途方も無い安堵が心の底から溢れ出てくる。
彼と過ごすのに、こんなに穏やかな気持ちになれるなんて、あの時誰が想像できただろう。
緋禾自身、こんな時が訪れるのだとは、とてもそう思えなかったのに。けれど、年相応の笑顔を見て「ああ、この人はただの二十歳の青年なんだ」と実感する。
たった十七歳で国を負って立った御和は、時代が、生まれてくる親が違えば、村に住む農奴だったかもしれないのだ。けれど、今はそんなことは考えられない。彼は紛うこと無き大王だ。血の祖先神がこの大陸を作り上げた唯一神である事実が消えない限り、この役目から逃れることはできない。
大きく息をついた御和は、緋禾の両頬に手を添えて目を覗き込んだ。
「聞け、緋禾」
「なあに?」
小首を傾げれば、神聖な儀式のように額に唇を落とされた。
「今後俺に何が起きようとも、俺の妻はお前だけだ」
それはどこか誓いの言葉じみていた。神に捧げる祝詞のような口調だった。そして、どこか緋禾に懇願しているような声にも聞こえた。
緋禾はふと御和を見上げた。彼が泣いているのではないかと思ったのだ。けれど御和の顔は憑き物が落ちたようにすっきりとしている。それでいて、何らかの覚悟を固めたような。
緋禾は思わず尋ねた。
「周りの小王が黙っていないんじゃない?一夫一妻の大王などまあ、聞いたこともないわ」
「お前が俺の勝利の女神となれば誰も文句は言うまい」
「……」
その声を聞いて、「勝利の女神」が指すものが何かはっきりと理解して、緋禾は言葉を失った。
御和を見上げたまま固まってしまう。
「兄上に掛けられた呪詛が解ければ、いずれこうなる可能性はあった。まだはっきりとは分からぬが…『裏切り者』たる奴は、もう既に兵を組織しているようだ。白狐の呪詛が破られたとならば、何の罰もなしに俺が野放しにするはずもないと分かっている…奴らは戦をしかけてくるだろう」
「止める手立ては…」
「無いな。元々から中つ国に騒動の種を蒔いて自滅を画策していたくらいだ。それが叶わなくなった今、あちら側も引くに引けない状態になっている」
面目も立たないだろう?失敗してしまえばそれなりの応報がある。それは自分の国の民にも多大な影響を与えるだろう。
確かにそうだ。呪詛が破られれば、仕掛けた相手も容易に知れる。そのことは仕掛けた相手が一番よくわかっている。仕掛けた相手が誰だか分かってしまえば、向こうが取る道は戦しかなくなったのだろう。このまま大人しくしていても何も手に入らない。一番直接的で、勝敗がきちんと別れる戦ならば、それなりの示しがつくのだ。
そこまで追い詰められて、もう誤魔化すことも逃げることもできないのだろう。
「こちらからはまだ、動けない。あちらの宣戦布告を以て、俺はそれを迎え撃つつもりだ」
「策は…策はあるの」
「あちらは俺がもう全て分かっていると知っているからな…真っ向からぶつかる他ないだろう。あまりのんびりともしていられん」
するともう、戦の気配はすぐ近くまで来ているということだ。宣戦布告を受けるということは明らかにこちらに分が悪い。先々からこの中つ国の転覆を狙って準備を進めていた者と、対して中つ国の組織はどうしたって急ごしらえになる。
緋禾はぎゅうと自分を包む御和の腕を握りしめた。
「それで…貴方は、無事に帰ってくるつもりはあるの」
先刻御和は言った。「俺に何があっても」と、生きていても死んでもいいような、そんな言葉を吐いた。そんなことを言ってしまう彼が、緋禾は心底怖かった。思わず懇願するような目を御和にむけてしまう。
御和は苦笑して緋禾の前髪に触れた。
「俺がもし、この先戦で命を落とすようなことがあったら、お前は逃げろ。奴は俺の妻であるお前を生かしはしないだろう。逃げて、穂の国に帰れ。小王は他の小国には手出しが出来ない」
二つに一つ。
生きて、彼とこの国を治めるか。
生きて、自分の生まれ故郷に帰るか。
「選べ」と御和は言う。
けれど、緋禾はぶんぶんと首を振った。
「…勝ちなさい」
「――おい」
「私が、貴方の勝利の女神なのでしょう?なら、勝ちなさい」
負けるなんて許さない。死ぬなんて許さない。御和がもし負ければ、この地の民はどうするのだ。
またこの大陸を混沌の時代へと帰す気か。そんなこと、許さない。
「それに、私はもうこの国の人間になったの。あなたが死んだら、私が代わりにここを治めていかなければならない。一人国に逃げ帰った后と、私に汚名を着せる気なの?」
それくらいの覚悟を、緋禾にも持たせてほしかった。二人の関係性は何だ。夫婦ではないのか。この国を、この大陸を平和にしたいと、二人で平和にしたいと思うくらいに、緋禾はそれを負う覚悟を決めている。そうでなければ、白狐の呪詛を解くことなどできなかった。緋禾にも御和が背負う重荷を別けてほしかった。
緋禾が穂の国にいた頃、中央の政治はよく分からなかったけれど、何ら不満はなかった。それは周りの人々を見ても同じだったように思う。
民に不満や不安があるなら、既に彼らは行動に起こしていただろう。この中つ国に来る道々、民は恐れながらも皇に敬意を表して接していた。
なら、今、中つ国が滅ぶことは必要ない。他の五国が代わって大陸を治める必要も今はないのだ。
緋禾は必死にそう思って、御和の夜着の袂を引き寄せ、強引に口づけた。与え、奪うように、泣きながら口づけた。御和は何も言わずその口づけに応えた。そして、時折緋禾の零す涙に唇を当てたのだった。
その日は、二人寄り添って眠った。
事態が動き出したのは、それから三日後のことだった。




