七
少々残酷描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
頬を存分に膨らませながら、緋禾は洗い立ての衣にそでを通した。今は他の者の目もないため、色合いの柔らかな短めの裳と白い上衣という簡素な格好だ。頸珠も手珠も、簪もない。緋禾はそもそも、誰かの手伝いを必要としなくても着ることの出来る衣服しか持っていない。ここに来る時に初めて嫁入りのために誂えた裳や上衣は、長持ちの奥底で眠っている。
宮の中にいる采女よりも簡素な服だ。彼女らが見ていれば、一切できない格好だった。
ふと緋禾は思った。こんな素の自分の姿を、御和に見せることに微かな躊躇いを感じている。始まりが夜着姿であったから今更であるが、あの時よりも一層育った羞恥心が、衝立の影から外に出ていくことを拒んでいる。
「――緋禾」
後ろから不意に呼ばれて、緋禾は肩をびくつかせた。いつも通りの御和が、訝しげな表情をして立っている。慌てて、緋禾は身を竦めた。
「ちょ、ちょっと。まだ着替えて…」
「もう済んでいるだろう。どれほど待たせるつもりだ」
御和は緋禾の手首を取り、ずんずんと衝立の後ろから出ていく。そこでようやく緋禾も、まだやることはあるのだと頭の中を切り替えた。緋禾の室の中央には、負の雰囲気が纏わりつく桐の箱。
そして――
「…あ」
御簾のすぐ内側に、白狐がいた。まるで桐の箱の存在に誘われたように、その視線はじっとそれに注がれている。時折耳を欹てる以外には、ぴくりとも動かない。
「結界は?」
「お前がもたもたしている間に解いておいた」
来ると、思ったからな。
声には出さずに、そう口の中で呟いていた。この箱を開ける場には、この白狐の存在が必要なのだと御和は言いたいようだ。緋禾はぐっと手を握り締めると、ゆっくりと室の中央に近づいて行った。
その後に、御和も続く。桐の箱の前に膝をついて、そっと右手をその上にかざす。ピリッと指先に感じる痺れ。思わず手を引くと、後ろから「平気か」という声がかかる。
僅かに不安をはらむ声だ。振り返ると、真摯な瞳とかち合った。その瞳が見つめているから、緋禾はそれに縋りたくなってしまう。
「…御和…」
震える唇が声を紡ぐ。
出会ったころは大嫌いだった。何を考えているのかよく分からず、今でも腹の底で緋禾のことをどう思っているのかなんて分からないままだ。けれど緋禾は、色々なことに苦悩して、それでも大切なものを守りたいが故に力を尽くそうとする御和を好きだと思う。そんな御和に思わず「助けて」と言ってしまいそうな自分がいた。この桐の箱に、御和は決して触れることができないのに。
けれど、御和は分かっているかのようにすっと歩を進めた。すぐ緋禾の後ろに膝をつく。戸惑っていると、池から緋禾の身を引き上げた逞しい腕が肩に回された。ぐっと後ろから抱きしめられている形。
息が詰まる。
「こうしていてやるから、早くしろ」
胸の奥が不意にどくりと疼いた。容易に緋禾を組み敷くほど力強い、しなやかな腕だ。緋禾は「やっぱりいい、やめて」と言いそうになるのを必死に堪えた。口の中が急速に乾いていくのが分かるから、緋禾は御和の言葉通りに手を伸ばす。
早く終わらせないと。
思い切って手を伸ばし、張り巡らされている呪符に触れると、ジュッと何かが焼ける音がした。熱さを感じるが、耐えられないほどではない。横からも、逸らされることのない白狐の視線を感じた。
意を決して、緋禾は呪符を掴み一気に剥がす。音もなく呪符が剥がれていくと、周囲の符も感染したように剥がれ、一気に青色の炎が燃え上がる。
「…っ!」
叫びだしそうになるのを必死に堪えた。ギュッと後ろから抱きしめられる力が強くなる。
頼りたくない、けれど、緋禾自身驚くほどに泣き出したくなった。
泣くな、泣くな。
堪えると、じんわりと浮かんだものが一瞬だけ零れ落ちて、緋禾を抱きしめる御和の腕にすっと収まった。
「緋禾」
呼ばれる声にハッとすると、燃え上がった炎は何事もなかったかのように消え去っていた。べたべたと貼ってあった呪符は綺麗に剥がれ落ちている。持ち上げれば、箱の蓋は簡単に開くだろう。ちらりと緋禾は振り返って御和を見上げた。ごく近くに御和の顔がある。目を細めると、御和は一度だけこくりと頷いた。
自分の息をのむ音が異様に大きく響く。肩に回される腕の強さを感じながら、緋禾は再び箱に手を伸ばす。
少しも動かない箱は逆に恐ろしいのだ。躊躇いはどうしても出てしまう。きゅっと指先を握りしめると、励ますように頭を撫でられた。
「…大丈夫だ」
「う、ん」
「ここにいる」
「うん」
きゅっと一瞬目をつむって両手に桐の滑らかな感触を確かめた。
もう箱からは炎は上がらない。今度はゆっくり、ゆっくりと蓋を持ち上げる。
カタリ、と小さな音が室中に響く。
目を開くのと同時に、箱の中身が明らかになった――
「…ひっ」
ガタガタと騒々しい音が静寂を突き破る。それは、緋禾が急に体を動かし、御和に抱き着いた、音。
御和は華奢なその体を抱きしめた。目は箱の中身に注目し、唇は強くかみしめられている。けれど、腕の中で震える存在を思い出し、抱きしめ、じっと己を律していた。
「み、お…」
「ああ」
「みお、『あれ』は……」
恐る恐る緋禾は目を前へ戻す。それでもやはり見ていられなくて、ぎゅっと御和の肩口に顔を伏せた。今自分が見たものがとても信じられない。しかし御和の方が、きっともっと動揺しているはずだろうと思い直し、抱きつく力は緩めずに顔だけを振り向かせた。
箱の中身は、古びた銅鏡。
白く細長い懐紙で束ねられた一房の髪の毛。
そして――
「…兄上…」
低く呟く御和の声が耳を掠めた。
箱の中には、銅鏡と一房の髪の毛。
そして、白く細い、人の腕から先が収められていた。
箱に収められている腕は、驚くほど青白かった。手首にはまた、縛り付けるように呪符がぐるりと貼り付けられている。一度見ただけで分かる、完璧な呪詛の形代にされていた。
そして当然御和は気づいている。その腕の持ち主が己の兄であるということも、束ねられた一房の髪の毛も。
銅鏡は母からかつて贈られたものであるということも。
御和の兄――佐和は、病弱ではあったが病死したわけではないとこれで確信ができた。確実に誰かに殺された。証拠なんてどこにもなかった。
けれど、御和はひそかに見つけていたのだ。兄の死に疑問を持ち、密かに兄の自室を探らせていた時、芥子の実だと思われる毒物の入った小瓶が戸棚の隙間に隠されていたのを。
一瞬、自殺なのかとも思った。けれど、御和はどうしてもその結論に行き着くことができなかった。
誰よりも優しく、強く、次期帝――大王になるべくは、妾腹でも兄の方だと常々思っていた。この国の行く末、希望に満ちた未来を、この兄になら何とかできるかもしれない、と。
だからどうしても信じられなくて、独自に調査を進めていた。前大王が年を理由に引退しても、自分が大王になってからもずっと。
その内、あの白狐が宮廷内を騒がすようになっていたのだ。御和を支える重要な官人も白狐に襲われ、次々に死んでいった。真実は未だ不明だが、御和の母もこの騒動に巻き込まれて死んでいった。
人々は噂した。そのモノノケは、大王になれなかったことを恨む、佐和なのではないかと。
あれほど、この国の行く末を未来を、憂いていたから。
御和も一瞬そうかもしれないと思ってしまった。けれやはり信じきれなかった。だから、緋禾を呼び寄せたのかもしれない。水の女神に愛されし少女に、白狐は近づくかもしれない、と。
緋禾には甚大な神気が備わっていた。そして、予想にたがわず白狐は緋禾に近づいた。それにどうやら、心を開きたいと、彼女に救われたいと思っている。
この導きは正しかった。御和は普段参拝する陵は春日野の森に造った。白狐は分かっているとでも言いたげに、頻繁にその森や墓に現れるようになった。そして緋禾は白狐の存在に気づき、そして墓も見つけた。兄は無実であるという確証すらも。
この箱を見れば明らかだった。明らかな呪詛の、縛りの形だった。
「御和…この、腕…」
腕の中から、か細く震える声が聞こえてくる。真っ青な顔色をした、御和の妻。抱きしめていた腕を離し、肩を押すと漸く緋禾は箱の中身と向き合った。
「ああ…兄上のものだ…間違いない」
「でも…どうして?」
「墓を掘り返しでもしたか…」
「そんな」
何て酷いことを。まっとうな神経を持った者なら、そう思うだろう。けれど、こんな『酷いこと』をやってのける人間は、この宮の中に確かに存在している。国内を混乱させ、豊葦原の転覆を狙っているであろう人物。
それだけで、おおよその予想はつく。やはり間違ってはなかった。佐和は誰かに殺された可能性が高い。
そして死しても尚、人を喰らう妖に仕立てられてその誰かに操られている。
「緋禾」
名を呼ぶと、素直に目が向けられる。もう、この呪詛を破るのはこの娘にしかできない。女神に愛され、中つ国の后として高御倉神にも祝福されたこの娘にしか。
「…この悪縁を断ち切ってくれるか」
白狐は前大王にまで手を出してしまった。今まで留めていたが、これ以上放置すると本格的に中央の呪術師が討伐に動き出す。そうなってしまえば、御和はそれを止めることができない。そうなれば、兄は囚われたまま消滅させられてしまうかもしれない。
それだけは、どうにかしたかった。今まで兄に守られていた分、今度は自分が兄を守りたかった。
心安らかに逝かせてやりたかった。
どうか、兄を救ってやってくれと、柄にもなくそんなことを懇願した。緋禾がこちらに来るように仕向けたのも、動向を見守り長く放置していたのも、すべてこのためだった。
兄を解放する、この一瞬のため。
それをとうの昔に知っている緋禾は、何も言わなかった。ただ哀しそうに眉を下げると一度だけ頷いたのだった。
そっと御和は緋禾の手に己の手を添えた。主導は緋禾が担っている。箱の中の佐和の手に緋禾が触れる気配がした。
やはり、怖いのだろうか、御和が触れる緋禾の手はかすかに震えていた。そして、冷たかった。
「――いいの…?」
「ああ」
最後にちらりと白狐を見た。少しも動じてない。御和の兄はただ静かにことの全てを見守っている気がした。この呪詛を解けば、兄は消えてしまうのかもしれない。
けれど、それは解放なのだ。ようやく兄は心穏やかに逝けるはずだ。
「緋禾、頼む」
「うん」
そう返事が聞こえてからは、一瞬だった。箱の時と同じように呪符に触れ、剥がしてしまうのと同時に青紫色をした炎が燃え上がった。
「――…っ」
その炎は二人の重ねた手すら包み込んでしまう。目の前の緋禾が息を飲むのが分かったから、御和は右手にぎゅっと力を込めた。不思議とその炎は熱くなかった。ひんやりと、まるで水の中にいるように冷たいが、容赦なく二人を包み込んで焼いていく。
痛みはない。もしかしたら誰かが守っていてくれているのかもしれない、と柄にもなく御和はそう思った。御和は己の見たものしか信じない性質で、いつでも自分の力しか信用してこなかった。
けれど、何故だろう。神頼みしている自分が可笑しい。
もし神が本当にいるのなら、この少女を守ってほしいなど。
やがて、呪詛を解こうとする者を阻む炎はゆっくりと萎んでいった。息絶えていくように、ゆっくりと。ボッと燃え尽きる音がすると、箱から生まれていた風も止んだ。
「手が…」
ひどくか細い声で緋禾が呟く。彼女の後ろから、御和はゆっくりと箱の中を覗き込んだ。呪詛の形代となる白い腕は、まるで炎に燃やされてしまったかのように跡形もなく消えていた。
あるのは銅鏡だけだ。
緋禾がその銅鏡に手を伸ばそうとした、その時。ケーンと室内にキツネの鳴き声が木霊した。ハッとして縁の方を見ると、ずっと佇んでいた白狐が一跳びで二人の前に降り立った。




