六
夜半になると、月明かりは一層強くなり雲はいつの間にか彼方に消えた。よく晴れた夜である。騒動があった夜だから、人目はない。御和は衛士にも「何が起こるか分からないから立哨もいらん。下がれ」とその一言だけで下げてしまった。衛士は影で安堵のため息をついていることだろう。誰も前大王が襲われた夜に見張り番などしたくはない。そういうこともあって、この夜、この宮の中には緋禾と御和しかいない。
「存分に泳いでいいぞ」
庭に出て腕を組んだまま言う夫に、緋禾は「遊ぶわけじゃないんだけど」と胡乱げな目を向けた。じろりと睨むと、くいと顎をしゃくった。偉そうな態度もさすが大陸の中心人物と言ったところか、格好がつくのだから気に入らない。
二人っきりの庭には、本当に人気がなかった。人気どころか、虫の気配も風でざわめく木々の気配も今日は遠い。
薄物一枚になった緋禾は、つま先からとぷんと池に入り込んだ。月光を反射する水面は昼間と同じようにきらきらと輝いている。透き通った水には、けれど、微かな負の雰囲気が感じられた。白狐は今までもよくこの池の近くに現れていたが、その時から緋禾に何かを伝えようとしていたのかもしれない。
ふと、背後の御和を見やる。ゆるく普段着を纏った御和は、くすりと自身の直刃の刀を揺すった。
「溺れたら俺が助けてやるから安心しろ」
「そんなことしないわよ!」
頬を膨らませて、そのまま池に頭まで沈み込んだ。息をもたせるのは得意なほうなのだ、あの夜は半分夢うつつだったから、まさか池に落ちるなんて思わなかった。完全なる油断だ。
スイスイと簡単に池の奥深くまで進んでいく。池の奥深くは闇に地上よりも、地底の神に近い場所。潜れば潜るほど、目の前は暗くなる。あれほど強い月光であってもこの池の奥深くにまで届かない。何も見えなくなるのだ。やはり駄目なのか、と思った時、不意に目の前が仄かに明るくなった。
(…何…?)
咄嗟に右手を目の前にやって目を見張る。すぐそこには、池底が広がっており――光っているのは、緋禾自身だった。発光、というよりは仄かに輝いている。それは蛍の光のように弱々しいのに、目の前を明るく照らすのには十分だった。どうして、何故、という気持ちは溢れるほどあったが、今は時間がない上に水中だ。
そろそろ苦しくなってきた。緋禾は池の底に手を這わせながら、必死に目を凝らす。
池の広さはそれほどない。けれど、確証らしき「何か」は見当たらない。
(神様…水の女神様…)
水の女神は、沙依里売比だ。緋禾が一番に信仰している祖先神。祈りを必死にこめて周囲を見回していると、不意に視界の端に留まるものがあった。
否、また池底が淡く光っている。段々と苦しくなってくる体を叱咤して、緋禾は底を蹴った。淡く光る池の底の砂を細い指で掻き分けていると、ふと固い何かに触れた。かなり深くまで埋まっている。
やった、と思った瞬間、ごぽっと大きく息を吐いてしまった。大きな気泡が上に上っていくのが見える。
(やばい…)
もうこれ以上はもたない。緋禾は必死にその「モノ」を引っ張るが、簡単には抜けない。意図的なのか自然にそうなったのか、かなり砂の奥深くまで沈み込んでいるのだ。焦る緋禾はなりふり構わず砂をかき分けて指を奥深くまで突っ込んだ。
力任せ、火事場の馬鹿力、とはこういうことを言うのだろう。目をつむり、思いっきりぶんと両腕に力を込める。すると、砂が一斉に水中に舞った。手に掴んだものを何なのかも確かめないまま、緋禾は急いで底を蹴った。
上昇が中々上手くいかない。片手で水を掻き、両足で水を蹴り、緋禾は月の光が届く水面を目指した。ザパン、と耳元で音が鳴ると、途端に空気がいっぱい肺に入り込んでくる。
「う、え…げほっ」
溺れはしなかったが、危なかった。息が保たなくなる位までぎりぎりまで潜ることは、普段ならしない。息継ぎなしでどれ位潜っていられるか、と勝負していた子どもたちはいたけれど、緋禾はそんな無茶はしなかった。「するべきではない」と今日確信した。これは危険すぎる。本気で死ぬかと思った。
一度で出来なければ何度か挑戦するつもりだったが、もうこれ以上は無理かもしれないと思うほどに、体力を使ってしまった。
荒れた息のまま片手で濡れた前髪を払うと、視界の先に優雅に腕組みをする御和の姿があった。どうやら刀で対応するような危機は起こらなかったらしい。その姿を見て安堵するなんて、ちょっと前までの緋禾なら信じられなかった。自分の内で起こっている変化を持て余しながら、緋禾は掘り出したものを片手に抱え、よろよろと岸まで泳ぎ切る。
「何だ、それほど泳げるのなら助ける必要はなかったな」
岸に膝をついて、御和は右手を緋禾に差し出す。皮肉な物言いに緋禾はむっとなったが、今は怒るよりも地上に上がるほうが優先だった。
「この前は、足が攣ってたのよ」
言い訳のように緋禾は目線を下に向けてその手を取った。力強く、ぐっと引かれる。水から上がると予想以上に疲れていたが、ふらつく足を踏ん張って地上に戻った。
「それは…」
御和の視線は、緋禾が持つものに注がれている。そこではじめて、思い出したように緋禾はその手の内の感覚を思い出した。
それは、それほど大きくはない桐の小箱だった。下に向いた角から、ぽたりぽたりと滴が垂れている。ずっしりとしたそれは、ともすれば何の変哲もないただの箱だ。
「池の底に…埋まってて」
けれど、ただの桐の箱とは違った点がある。まずは池の底に眠っていたというのに、びっくりする程水に侵食されていない。とても綺麗な状態だった。そして、一番目についてしまうものに、緋禾も御和も同時に眉をしかめた。
「――呪符…か」
蓋と容器の境目を囲むように――まるで封じるように、ぐるりと幾枚かの呪符が張り巡らされている。
何かを逃さないとでも言うように、水中から引っ張り出したそれは、禍々しいまでの負の気を纏っている。
「お前、平気なのか」
眉をしかめたまま、御和は不意にぽつりと呟いた。え、と思って緋禾は手の中の桐の箱を見た。よく見れば、池の中でみたように、手元が微かに緋色に淡く輝き、薄物のように緋禾を纏っている。御和には見えないのかもしれない。それは、薄膜を一枚貼ったみたいに緋禾が直接箱に触れないように守ってくれているように感じた。
「それは――謂わば呪物だぞ。常人がおいそれと触れられるものじゃない」
最悪、手を焼かれるだろうな。そんな物騒なことまで言い出す。「ええっ」と奇声を上げて箱から離しかけたが、何とか思いとどまった。それでも、その「呪物」が緋禾に何か害をなすことはなかった。
やはり、この光が守ってくれているのではないかと、緋禾は何となくそう思う。
ちろりと御和を見上げると、興味深そうに緋禾の手を眺めていた。見えないと思っていたのだが、もしかしたら光が見えているのだろうか。そして、ふと思う。
――今なら、言えるかもしれない。
「…御和」
声は思ったよりも大きくなってしまった。けれど、御和は穏やかそうに「何だ」と問う。ぽたりと水滴が前髪に滴る瞬間、緋禾は口火を切った。
「佐和様の縛りは、これなのかもしれない。ずっと考えていたの。陰の気を纏う女の私に、同じ陰の気を持つモノノケが近づいてくることの意味」
「陰の気を持つもの同士は、惹かれ合わないのか」
「うん。弾きあうの。モノノケが襲うのって、どちらかと言えば男の人が多かったのではないかしら。というより、母后様って、本当にモノノケに襲われてお隠れになられたの?」
一気に言い切れば、御和の方がひくりと揺れる。
「この宮で起こる怪異って、モノノケがやったのか…それとも、『人』が成したのか、ごちゃ混ぜになってる気がして…」
「…」
「だって、おかしいじゃない。母后様にも、武龍帝様と同じように、護りの呪いは施されていたはずよ。なのにどうして、母后様はお隠れになって、武龍帝様は助かられたのかしら」
「兄と、同じだった」
遮るように御和は呟いた。緋禾が両手で捧げ持つ物に目を奪われ、唇を噛み締めている。
縛りがあったとしても、そもそも陰陽がこの世にあるように、陰と陰は弾きあう。同じように陽と陽も。だから、陰が陰の魂を喰らうことには、無理があるのだ。だから、緋禾は白狐に出会ってもどこか楽観的でいられた。
魂を取られた人間の死に様は、とても死んでいるようには見えないと聞く。綺麗なまま、まるで眠っているかのように事切れているのだそうだ。けれど、佐和や母后は違う。
御和はぽつりと、言葉をこぼす。
「胸元や喉元が掻きむしられていた。明らかに『人』の仕業だろうと思われるのに、上がってきた報告は『モノノケ』によるものだと、断定されていた」
「誰が断定したの」
「分かっていたら、すぐさまそいつを縛り上げている。呪術師達が皆一様にそう言うのだと報告されれば、秘密裏に探らねば真実など一つも見えん」
「なら、これが真実に近づくために必要なのよ。白狐に言われて潜ったら、これがあった。だから、何かわかるかも知れない」
これが、「真実」に繋がり得るものなのかもしれない。この正体が分かることはすなわち、白狐の正体も何かしら分かることだ。黙って、御和は緋禾の言葉を聞いていた。
自分の兄がもしかしたら、人を喰らうモノノケにされてしまっているのかもしれない、と瞳を揺らしていた彼。病死と言われていたが、実は殺されたのかもしれない彼の兄。
それを解く鍵が、ここにある。
苦しげに瞳を閉じて、御和は臓腑の底から息を吐き出した。開けられた瞳は、けれども、もう揺れてはいない。この先に真実を求めることに、御和はもう躊躇しない。そういう表情だと緋禾は思った。
「…とりあえず」
少し安心していると、ふと御和が視線を下げた。それは緋禾の首元を通り過ぎ――
「着替えることを勧める」
御和の視線を追うと、薄物を纏った自分の身体。水に浸かって透けている薄物を着ている、自分の身体。サーッと血の気が体中から引いていく音がする。しかっりと、はっきりと、身体の線が浮き上がっていた。
「ひゃああ!ばかー!」
その声は、宮中に響き渡ったという。




