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空をゆく、仄か緋を  作者:
曲水
22/37



出入りする口を閉じられてしまった上、見張りという名の稲日を側に置かれてしまった以上、緋禾がこの室から出ることは不可能だった。

モノノケに前大王が襲われたという醜聞は一気に宮中を駆け巡り、怪異を恐れた者は皆、蔀や雨戸を閉じて夜に備えた。夜は妖やモノノケの時間だということは、この時代の人間にとって常識だ。夜が来ると、人間は戸や窓を閉ざして朝が来るのを待つ。太陽は天上の御光、月は地下の国への道標。その地下世界へ引っ張っていかれないように、夜は外に出ない。

モノノケに誘われて外に出ている緋禾が異常なのだ。それを呆れた目で見守り、己も黒馬と共に遊歩する御和も同類だ。けれど、二人には創世からの神の加護が付いている。簡単に喰われたり連れ去られたりしない護りがあるから、ある程度は対処できる。


けれど、この大陸にいる多くの人達はそうでない。神の存在が薄れ始めた現在、人々はいつの間にか忘れている。自然の中、万物にその存在は宿っていること。いつも身近にあるということ。社は単なる神々の家でしかないこと。

だから、何かある度に社で祈祷を捧げてもあまり意味がないのだ。それを知っているから、緋禾は社に上がっても自然の中に下りていくことを止めなかった。いつも触れ合い、存在を確かめ、祈りの舞をその中で捧げていた。


だから、こうして閉じ込められるのは非常に不本意だ。こういう時こそ、呼び寄せた緋禾の出番であるのに一体御和は何を考えているのだ。そう思って室の中をうろうろし初めて一刻ほど経った時。ずっと落ち着かない主を見守っていた稲日は、遠くから聞こえてくる足音を聞きつけて慌てて立ち上がった。

締め切った蔀を一部開けて御簾だけにすると、丁度勢いよくそれが跳ね上がる。すぐさま入り口に膝をついて頭を垂れる稲日に「ご苦労」とだけ言って入ってきたのは御和だ。


「外に衛士を残している。下がって自室にて待機しろ。外に出るなよ」


その命に稲日は「是」と答えて、下がっていく。


「稲日。夜遅くまでごめんね。明日の朝餉は遅めでいいから」

「姫様こそ、お話が終わられましたらゆっくりお休みくださいませ」


それだけ言うと、膝をついたまま稲日は下がっていった。主人と仕える者がこのようにして言葉を容易に交わすことは、本来禁じられている。しかし、緋禾に幼い頃から仕え、まるで姉妹のように接してきた二人の間柄を御和は責めることはしなかった。「俺以外が見ている場ではするなよ」というお小言は貰っているが、大目に見てくれている辺り、段々緋禾にも甘くなってきているのだろうか。


ちらりと腕を組んで難しい顔をしている御和を見上げて、取り敢えず席を勧めてみる。脇息と敷き詰めた敷布を見て、御和は疲れたようにため息をついた。座っている場合ではないとでも思っているのか、しかし、少しでも腰を下ろしてゆっくりでもしない限り、彼は一晩中起きていそうな気がしたのだ。


「御和」


無言でむっつりと黙っている。ぽんぽんと脇息を叩いても腕を解こうとしない。今度は緋禾がため息をついて立ち上がった。


「私、立ったまま話すの、疲れるから嫌なの」

「…」

「ほら、座って。お酒はないから、白湯で我慢してちょうだい」


くい、と長衣を引っ張ると、案外簡単に御和は腕を解いて敷布の上に腰を落ち着けた。茶瓶から温くなった湯を注いで渡すと、喉が乾いていたのを思い出したのか、一気にそれを呷る。おかわりを注いで、それも一気に飲み干してから、御和は何かを考え込むように頬杖をついた。

聞きたいことは勿論、山ほどある。一体この宮中で何が起こっているのか。武龍帝がモノノケに襲われたというのは本当なのか。これからどうするつもりなのか…

けれども、どれをどのように緋禾に話すべきなのか、御和自身何も決められていないような気がした。だから無理矢理に聞こうとは思っていない。何も言えないのにここへ来たということは、少なからず緋禾という存在に己が落ち着く何かを求めたのではないか。


無音の時間が暫く続く。緋禾は黙ったまま開け放されたままの蔀の方を見る。

いつもの夜の時間に思えるのだが、今日はいつも以上にひっそりとしていて、虫の音さえ遠くなる。満月が雲に隠れて光が届かなくなって、庭の池がきらきらと輝いているのが見えた。

『明かりもない』のに、池は水面が輝いて見える。

はっと思いついて、緋禾は徐に立ち上がった。少しだけ開いている蔀の方へ向かい、御簾に手をかけたところで、その手はぐっと後ろに引かれた。


「緋禾。どうした」


振り向くと、眉根を寄せた御和が緋禾の華奢な手を握りしめている。その顔は「外に出るな」と語っている。

今、護りもなく外に出ることは危険なのだと。けれども、そんなことで怯む緋禾ではない。あの白狐とは、もう既に繋がりができてしまっている。こちらが気を惹かれなければ、喰われたりしないだろうという確信が、彼女にはある。


「御和」

「なんだ」

「潜らせて」

「は?」


突飛な言動に更に眉間の皺を深くした夫に向かって、妻はいっそ突破口を見つけたとでも言いたげに目を輝かせた。


「今日よ。今日出ないとダメ。月明かりが上がって陰の道が出来ているから、モノノケの正体に関わるものが今日なら見つけやすい」

「それと池と何の関係が」

「あの子は、ずっと私に教えてくれていた。『水底』って。あの池の底に何かあるのよ。自ら私を呼び寄せて、あの池に連れて行ったのに溺れてすっかり見失っていたわ」

「…そういえば説教をするのを忘れていたな」


それはどうぞずっと忘れていてほしい。けれど、今緋禾にとって優先する事項は説教をされることではない。あの池に潜って、池の底にある「何か」を持って帰ることだ。

白狐があの池に導いたのは、そこに何かあるのだと教えてくれていたのだ。恐らく、緋禾を弑することも相手側は命じていたのだろうが、白狐はそれを逆手にとって緋禾に示そうとしていたのだ。潜ることが得意な緋禾であれば、池なら生還できると踏んでいた。溺れたのは緋禾も予想外だったのだが、そこは御和に助けられた。

もしそこまで意図していたというのなら、白狐は操られる以外にも意志を持つ瞬間がやはりあるのだ。そして、かなり頭が賢い。御和を殺せないように、意志が強くないとそうはならない。


「解放できるかもしれない」


その一言は、御和にとってずるい一言だったかもしれない。けれど、今以上に緋禾に求められている使命を果たせる時はない気がする。あの池に潜って、底に沈む何かを持って帰ってこれるのは、緋禾以外にいない。それを御和もよく分かっている。

難しい顔をして考え込んでいたのは数瞬だった。小さく息をついて緋禾を掴んでいた手を離した。


「…泳ぐのなら、俺の目の届く範囲でしてくれ」

「ええ、もちろん」

「これ以上、身内がいいように弄ばれるのは、我慢ならん」


目を逸らせながら呟かれた言葉は、弱音のようにも聞こえる。そして、緋禾は御和の身内に既に入っているのだとこの時初めて実感した。緋禾は、御和の心配の内に入る人間なのだ。それを思うと、なんだか無性に目の前の存在が可愛く見えるのだから不思議だった。


「ねえ、武龍帝様はご無事なの?」

「父帝には、強固な護りの呪いがかけられている。宮の中に入られてしまったのは失態だが、力に弾き飛ばされて、打ち身を作られたこと以外に、負傷はない」


一言一言噛み締めて言う言葉に、緋禾は安堵の息をついた。けれど、御和の表情は晴れなかった。


「モノノケを操る存在にとっては、もうこれ以上後戻りが出来ないところまで来てしまった。今後はなりふり構わないだろう。だから、これ以上あの白狐を野放しにはできないのだ」


御和は恐れている。野放しにできない白狐を、果たして解放できるのか。それとも消失させてしまうのか。兄かも知れない、いいように操られているだけの兄を、消してしまうことになるのではないか。そういう風に苦悩すること人を、緋禾は初めて愛おしいと思った。

御和は、大切な人が多すぎるのだ。父に母に兄に、国の民に――そして、恐らくその中に緋禾も入っているのだと思いたい。緋禾は、御和の大切な人になりたいと願っている自分に、心底驚いている。


不器用で強がっているこの人を安心させてあげたい。だから緋禾が潜って、原因を見つけて持ち帰る必要がある。


「大丈夫よ。この前は、寝起きでちょっと油断してただけ。普段は私、素潜りで魚捕まえられるのよ」

「…どうなっているんだ、穂の国は」

「みんな優しいのよ。私がやってみたいこと、『駄目』って言わないの。この国の人くらいよ、私に『あれも駄目、これも駄目』って言うの」


それが普通だと、御和は言って緋禾の額を指で弾いた。あまり痛くない攻撃に、緋禾は少し安堵した。御和が少しだけ楽になったような気がして。


「見てて。あまりにも泳ぎが上手いって驚かせてやるわ」


腕まくりをし始めた元気な妻を見て、御和は今後は呆れたように眉根を寄せた。「緋禾が調子に乗ると碌なことがない」、と。



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