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空をゆく、仄か緋を  作者:
曲水
21/37


大国・中つ国には政治の中枢を担うために、赴任している小国の王それぞれにも執務室や寝室が用意されている。ほとんどの小王は国から側近や奴僕を連れてきており、中央の政以外ではそこそこ自由が保たれていた。ここから自国の政の指示が発され、自国では実際に臣下や次に小王を次ぐ子息が動いて回していく。長い間中つ国にいると自国で反乱が起きやすくなるために、半年に一度は国に下がる習慣がある。しかし、中央から近い国ならまだしも、遠く離れた穂の国などは移動に時間がかかるため、穂の小王が国に帰ることは実際一年に一度ほどになっていた。


さて、小王達の執務室は、基本的に他の国の者が入ることはない。それは、大国の大王であっても、その執務室内だけは他国の領土として扱っている。なので、小王の執務室はその国の者だけしか入れないのだ。

支配する側も、あまり縛ると逆に反発を買うことを恐れているのか、大国と小国という概念が出来上がる頃からの習慣でもあった。

しかし、その習慣は絶対的に大国の権力が及ばないからこその抜け穴にもなってしまう。それを分かっていて中つ国が手を出せないのも、均衡が崩れつつある証なのかもしれなかった。


今、とある小国の執務室、その室内には淡く光る白狐の姿がある。その国の関係者しか入れないはずの部屋に、モノノケがいる。足元には呪符の山、それらから縛るように無数の光る糸が白狐の身体に絡みついている。白狐が目を細めて見据える先には、一人の男が人形(ひとがた)と細い針を手に眉をしかめている姿がある。


「約定を違えると、お主の魂が消えることを分かっていて、我が命に従わぬのか」


言葉を話せない白狐に向かって、返事を要求するように尋ねている男は、非常に不機嫌そうに舌打ちをした。その不機嫌を隠そうともせずに、徐に持っていた針を人形の中心に勢いよく刺した。そのまま念を込めるように深く深く打ち込むと、目の前の白狐は一層目を細めて口元から牙を出した。

苦しげな表情に満足したのか、にいと口の端を釣り上げて何事かまじないを呟くと、白狐を縛っていた呪符が全て燃え上がる。それは赤いものではなく、目の覚めるような青い炎。新たな縛りの証。


「こちらに『あれ』がある限り、お前は私から逃れられん。次は失敗を許さぬ」


男の瞳は闇の中でも爛々と輝き、異様なほどに血走っていた。

もう後がない。今、宮中の者全ての目がモノノケの怪異に向いている今しか動けないのだ。特に大王の目はこちらを向き始めている。ここで仕損じれば祖国の未来はない。

モノノケの怪異で国を、大陸を乱して隙が生じる今がその時なのだ――この大陸を混沌の時代に戻す時。神々が地上を歩き、神の力が全てを支配していた原初の時代が、この男には必要だった。


「行け」と命じて針を抜くのと同時に、白狐の姿は室内から煙のように消え失せた。霞ひとつ残さず消え去った後には奇妙な静寂だけが残っている。



***



原始の時代、この大陸は空と地上が混じり合う混沌であった。2つの境界は非常に曖昧で、空も地上も神のものであり、地上を神が歩いて治めていた。高御倉神と沙依里比売が夫婦となった後、四人の子どもたちと共に大陸を分割して統治し、そのまた子どもたちが生まれるのを見届けて神々は空へと戻っていった。それ以来、地上は人が、空の世界は神が治めるようになったのである。


高御倉神を祖先神としているのが中心の中つ国、沙依里比売を祖先神としているのが穂の国。

長男である須佐神(すさしん)が治める国が夷の国、長女の立花比売(たちばなひめ)が治める流の国、次男の吉美彦(きびのひこ)が治める翠の国、そして次女の多喜津比売(たきつひめ)が治める葵の国。

それぞれの子ども達が治める国々は、その後数百年、父たる高御倉神が祖先神の中つ国を中心として発展してきた。しかし、時代共に神々の気配は薄れつつある。

神が支配していた時代は遠い昔であり、今人の手が地上を支配して長い時間が経ちすぎた。過去の遺物となりつつある神話を、清いままに奉っている人々が一体どれ位存在するのだろう。


神々が空へと帰った後も、この世の万物に神の気配は残り続けている。緋禾はその気配を感じることが出来る唯一の姫であり、更には幼少よりその気配に触れ続けた結果、様々な神々から愛されるようになった稀有な存在だった。

海に長い時間潜っても溺れること無く、山に登ってもさ迷うこと無く、虫も獣も蛇ですら彼女を襲わず味方でいてくれた。


(…けれど、あの白狐だけはなかなか仲良くなってくれないわ…)


女という陰の存在である緋禾に惹かれて寄ってくるものは、全てが陽の存在だったように思う。この目で実際に陰の気を持つ妖やらモノノケやらを見たことがなかったのだが、惹かれ合っても溶け合うことはできないのだ。まるで反発し合うように、近づいたと思っても、また離れていってしまう。


多分、モノノケという性質がそうさせてしまうのだ。御和の兄であるという憶測を差し置いても、白狐の想いは陽の気を持つ御和に向かっているように思う。モノノケに魅入られれば魂を奪われる。だから、反発してしまう性質を持つ緋禾をこの国に呼んだこともあながち間違いではない。あの白狐に御和を弑するという『間違いを犯させず』対処しようと思うのなら。


そんな白狐からは、夢の中で毎回『水底』という思念が繰り返し語られる。反発し合うのにあえて緋禾に語りかけるのであるから、この声は御和には聞こえないのであろう。そして白狐はこの怪異を解決できる者として緋禾を定めた。神から愛される娘にしか、この負の循環を断ち切ることが出来ないとでも言うように。

いつも白狐は緋禾の夢の中でその言葉だけを繰り返す。それしか言わない。


水の底――あの池の底に一体何があるのだろう。

ゆっくりと浮上する意識の中で、緋禾はそのことを考えている。

この大陸の歴史を学ぶ講義を終え、休憩のつもりで軽く目を閉じただけのつもりだったが、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。御簾の外側はそろそろ夕闇の時間であった。稲日はよくできた卑女だから、緋禾を起こさずに獣脂だけ焚いて辞したようだ。

緋禾は脇息から身を起こすと、両手を組んで上に上げて軽く伸びをした。着物の袖口が垂れ下がって、真白い二の腕が晒されたとしても、ここには「はしたない」とお小言を言う者は誰もいない。


鬼のいぬ間にとついでに肩をぐるぐる回していると、ふと緋禾は周りの空間があまりにも静寂であることに気づく。いつもは飯炊き場の方からちょっとしたざわめきや夕餉の匂いが漂う時間であるというのに、人の気配があまりにも感じられない。ついでに、虫の音も聞こえない。風もない。葉のざわめきも聞こえない。

まるで異空間に一人取り残されたような心細さだ。


緋禾は首の後ろに嫌な怖気を感じて、そわそわと立ち上がった。御簾の向こうにはいやに煌々と明るい満月が顔を覗かせようとしている。明るくて大きすぎる満月はどこか恐ろしいと、緋禾は小さな頃から思っていた。空の向こうの月の国には自分とは違う存在がいて、いつの日かこの地上の人間を連れ去ってしまうのではないかと、幼い頃そう母に話したことがあった。


『そうなったら、天井の神々がきっと貴女を助けてくれるから大丈夫よ』


そう母は諭してくれたけれど、なぜだか今、嫌な予感が胸の内をせり上がる気配がする。とてつもなく嫌な――不吉な何かが起こっているような気がしてならない。無意識に両腕を抱えて擦っていると、遠くからぱたぱたと急いでこちらに向かってくる足音が聞こえた。

現実の人間の足音に、これ程安堵したことがあっただろうか。緋禾は大きく息をついて、安心したさに自ら御簾をめくり上げた。本来、この国の后となった者が軽々しく室の外に出ることはあまり一般的ではない。

深窓の姫君という言葉通りに、御簾の外側には出ず簡単に顔を見ることもできない。けれど、今は少しでも早く安心をしたくて、緋禾は廊に出た。


案の定、向こうから走ってくるのは稲日である。しかし、緋禾は安心して表情を緩めることができなかった。なぜなら、稲日はとても強張った顔をしており、緋禾を見た途端「姫様!」と半ば叫ぶように駆け寄って来たのだから。嫌な予感は当たったらしい。再びすっと冷えた緋禾の肩を稲日は押して、早く室内に戻るように告げた。


「こんな所で無防備にお顔を出してはなりません…!急いで中にお戻りください」

「ちょっと、待って、稲日。落ち着いて。何があったの」


ぐいぐいと室の中に押し戻され、蔀戸すら閉じて厳重に戸締まりを始めて回る。呆然と緋禾がそれを見ていると、稲日は周りを神経質に見回しながら、緋禾を敷布の上に座らせて両手を握りしめた。


「恐ろしいことでございます。姫様のお耳に入れても良いのか…」

「何がなんだか分からないわ。あなた、大王になにか言われてここに来たのではないの」

「ええ、ええ…勿論。大王様のご指示を受けました。姫様を部屋の外へ出してはならないと…」

「もう。またそれなの?閉じ込められるの、もう散々なんだけど」


文句を垂れても、稲日は決して首を縦に振らなかった。青ざめた稲日の表情は、獣脂だけの灯りだけでも妙によく浮かび上がって見えた。きょろきょろと辺りを見回す稲日は、まるで誰かに見られているのを恐れているようだ。不審に眉をしかめると、ようやく意を決したのか、緋禾の耳元にまで唇を寄せる。


「恐ろしい…あの妖であります」

「妖…では、誰かが…」


ささやき声に背筋が凍る。稲日は更に声を落とすと、ささやくように緋禾に告げた。


「あの妖がついに…大王様のご尊父様…武龍帝様を襲った、と」




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