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空をゆく、仄か緋を  作者:
中つ国
2/37


その日は、夏であるというのに荒れた天気の日だった。

昼前までは見事に晴れ渡っていたものの、中天を過ぎると雲行きが怪しくなり緋禾ひかは海での遊びを止めて帰らざるを得なかった。せっかく今日は波も穏やかで陽の光も優しく、魚たちも元気であったのに、遠くの方で黒い雲が広がり始めるのを近くの漁師達が教えてくれ、仕方なく海から上がったのだ。


「誰か、海の女神様の腹に据えかねるようなことをしたのかしら」


そう言いながら緋禾や一緒にいた少女たちはくすくすと笑いながら家路を辿ったのである。

そして、緋禾が屋敷に帰りつくと同時に、灰色の雲からぽつりぽつりと雨が降り出し、やがて風が木を揺らし、嵐となった。それと同時に緋禾にもたらされたのが父親の帰還の知らせだった。


「海の女神様がお怒りなのは、お父様のせいなのかしら。急に帰ってきたりするから海が荒れたのね」


迎えの準備を、卑女はしため稲日いなびに手伝ってもらいながらそう呟くと、「姫様!」と軽い叱責が飛んだ。肩を竦めて、黙って言われたとおりにじっと立っていると、稲日はまたこの「の末姫」を飾り立てる作業を再開させた。

その間も嵐はいよいよ勢いを増して、昼だというのに獣脂の灯を焚かなければいけないくらい、室の中は薄暗い。風が木をしならせる音、横殴りの雨が雨戸を叩く音が緋禾の耳を打つ。緋禾はこれから一体いくつ猫を被らなければならないかを想像して、ため息をついた。


穂の国はこの豊葦原とよあしはらの中にある、小国の一つである。中心の大国である「中つ国」の周りにある五国の中でも一番小さい国だが、水と土に恵まれた豊穣な土地で、人はみな漁や農耕で慎ましく暮らしていた。

中つ国は名前の通りこの豊葦原で最大の大国である。かつての戦乱時代を統治・支配し、圧倒的な権力と武力を有している。周囲を囲む五つの国が、中つ国に従属する形をとっているため、中つ国を大国、他の五つの国を小国としている。

父親でありこの穂の国の当主である青海豊彦あおみのとよひこが首都・水穂に帰って来るのは一年に二・三回あるかないかだ。それ以外は、ずっと穂の北方に位置する大国、中つ国の忠臣として王宮勤めをしている。いわゆる、単身赴任状態である。

帰って来るのは、年の瀬と収穫の秋くらいだ。夏の初めのこの時期に帰ってくることは、はっきり言って珍しい。


母によくよく聞けば、緋禾に話があるかららしい。一体どんな話かと、緋禾は先を思いやってまた心底嫌そうな顔をした。それを見咎めた稲日に注意される。


「いくらお嫌でも、御当主様の目の前でそんなお顔をしてはいけませんよ」

「…だって、稲日。父様の話なんて碌なことがないわ。絶対」

「姫様。それでもこの嵐の中をお帰りになったんですから、労いの言葉くらいかけてあげて下さいな」

「ええ。分かってるわ」


年の割に大人びた表情の少女がそう言うと、どこか憂いを帯びて見える。緋禾は行動こそまだ小さな少女のようだが、王族としての威厳が全くないわけでもない。緋禾の上の姉二人はもう嫁いだ身であるから、実質この当主が単身赴任状態の家で母の次に位が高い。それを緋禾が自覚していないことはないし、ただ単に父親と顔を合わせるのが嫌だから、こうして我儘じみたことを言ってしまう。


父である青海豊彦は、良い意味でも悪い意味でも大国の大王おおきみに絶対忠誠を尽くす人だ。

それは母である十千代とちよと結婚する前からそうであり、中つ国の周囲にある五国が随従する立場であろうとなかろうと、豊彦は大王に忠臣として仕えた。それは、大国の持つ絶対的な権力や武力に従うという意味ではなく、己の主として、という意味合いが大きい。


ともあれ、上の姉二人が嫁いでしまっている今、父の帰還をもてなすのは母と緋禾の仕事だ。いつもはめったに着ない上等な衣、めったに履かない裳、頸珠くびだまや手珠もつけて小国の一姫らしさを纏う。


「あなた毎日そんな格好してたら、一応それらしく見えるのにねぇ」


と、意外に失礼なことを言いながら室に入って来たのは十千代である。生来の美貌を持ち、その容姿の美しさは姉二人にはきちんと受け継がれたものの、緋禾に今のところその兆候はない。姉二人と緋禾、そして世継ぎとなる長男を設けてもなお、それは損なわれることがない。どこかぼんやりとした母の性質も、緋禾とは正反対だった。

緋禾はため息をつきたくなるのを堪え、母に一礼すると上座を譲った。獣脂がほんのりと室の中を明るくするのを見つめながら、緋禾と母の十千代は父の訪れを待つ。


緋禾は目を伏せながら、外で荒れ狂う嵐の音に聞き入っていた。明日、海は落ち着いているだろうか。そうしたら、また村の少女らと潜って海女の真似事もできる。暖かい太陽を浴びて、真昼の間は今日の分までいっぱい海で過ごすのだ。


そんな夢想を繰り返している所へ、向こうの廊から静かな足音が聞こえてきた。横で母が居住まいを正すのを感じて、緋禾もそれを真似た。そして、すぐに稲日の声が室に響いた。


「豊彦様のお通りでございます」


緋禾は十千代と共に、頭を床に向かって下げた。すぐに御簾が上がって、ぎしりと板張りの床が鳴った。上座に敷いた上等な円座に、腰を下ろす気配がして、そして稲日の気配はすぐ消えた。


「頭を上げなさい、変わりはないか十千代」


低く掠れた――悪く言えば、ひどく疲れたような――声が頭上に響いた。緋禾と母は同時に頭を上げ、上座に目を据える。嵐の中の帰還ということもあっただろうが、豊彦は随分やつれた面立ちをしていた。頬がこけ、目の下は青い隈がある。息を飲みたくなるのを緋禾は何とか我慢して、母が口を開くのを黙って見ていた。


「ええ。私も緋禾も元気に過ごしておりますわ。特に領内に変わったこともなく」


心配そうな顔は上辺だけではないのだろう。十千代はたとえ豊彦があまりこの家を顧みなくても、きちんと夫に忠義を尽くしている。穂の国の内政は大国に詰めている父が朝臣などに直接指示を出しているので、女達は国の政に口を出すことはない。いずれ内政を取り仕切る役目も長男に譲るだろう。と、いうことは男にとって家は二の次三の次にどうしてもなってしまう。

それに文句も言わない模範的な妻。そんな母も、緋禾はどことなく好きにはなれなかった。そんなことを考えていると、父の目がすっと己の方に向く。


「お前も、緋禾。母の言うことをきちんと聞いているのだろうな?」

「ええ。まぁ、母様が私に口酸っぱく言うことなど限られていますけれど」


一応の礼儀は守りつつ、緋禾は少々生意気ともとれる言い方をした。豊彦はそんな末娘の態度を見て眉根を寄せはしたが、結局何も言わなかった。それをいいことに、緋禾は真正面から父に向き合って口を開いた。


「…それで、父様。此度のご帰還は、私にお話があるからだとか?」


この娘の図々しさは、果たしてどうしたらよいものか。そう悩むことに、豊彦も十千代も随分前から諦めていた。村にばかり降りて、同年代の少女らと行動を共にし、海に潜り、およそ小国の姫君らしくない緋禾。女子に相応しくない服装や口の利き方、事あるごとに諌めては来たのだが、全く効果を成さない。


今もそれを頑張って続けているのは、最早稲日だけだ。この勝気な娘に、その口を噤ませることが出来るとは、豊彦も思っていない。しかしながら、一国の王族であるという矜持と神に愛される気質だけはあるのだから、豊彦は何も言えなかった。

この小生意気な娘に、これから言うことが少しでも薬になればいいのだが、と豊彦はため息をついた。


「…話と言うのはな。緋禾。お前には随分前から、将来はこの国の巫女として木築きづきの社に入ることが決まっていると言ったであろう?」

「ええ。穂の国の王族は、代々巫女を輩出している一族ですから。姉様方はお嫁に行ってしまわれたから、私がその役目を仰せ遣うのは当然です」

「その話だがな。白紙に戻すことが決まった」

「…は?」


緋禾は目をぱちくりとさせ、豊彦を凝視した。とんだ不敬であることは分かっているが、もとよりこの緋禾の性格である。何の憚りも無しに、豊彦を見つめていると、彼の方が気おくれした様子で緋禾から目を逸らした。


この穂の国の王族は、天上の王である高御倉神たかみくらしんの妻である沙依里比売さよりひめを祖先神としている。そして、その格式の高さから、国力こそ弱いものの毎代優秀な巫女を輩出する家柄でもある。この国にとって巫女は、国自体を護る大切で不可欠な存在であり、その役目を代々王族で一番神気が高い姫が務めることになっている。

緋禾はこの国の海の女神でもある沙依里比売さよりひめの気質を一番引き継いでいる姫だった。だから、この歳になっても嫁にも行かず、海に潜っては神に寄り添ってきたのだ。


しかし、その役目をしなくてもいいという。緋禾は目を細めた。


「どういうことでしょう?」


緋禾には、この土地で一生を終えることが出来るならまさに本望だったのだ。その手段が、巫女になること。

この土地を愛していた。この国の人々を愛していた。だから、余計に吃驚した。

そして、一抹の不安と、恐怖が胸の内を襲う。

その不安は、まさに的中した。これ以上ない程の衝撃を伴って、緋禾の心臓をどくりと波立たせたのだ。豊彦は意を決したように緋禾を見つめると一気に言い放った。


「朗報だ。お前の嫁ぎ先が決まった」

「…嫁ぎ先って、私は…」

「ああ、言っただろう、巫女の話は白紙だ。お前が嫁ぐのは中つ国の大王おおきみ――知徳帝ちとくていだ」


知徳三年、七の月。この日、豊葦原の小国・穂の国の末姫、緋禾に大国の后となる宣旨が下されたのであった。嵐はいよいよ強くなり、この先の暗闇を暗示しているかのような日だった。


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