二
あれほど触れられることに絶望を感じていたというのに、こちらに伸ばされた手は慎重で、どこか遠慮がちで、けれども焼ききれそうなほどの熱を孕んでいて、その落差に戸惑いながらも緋禾は何も言わずに受け入れた。婚姻を結んだからには、夫となった御和の行動を疑わず受け入れるのは当然だと、そんな言い訳がましい理由を念じながら。
途中からそんな雑念すら頭の中に浮かぶ余裕もなく、緋禾はただ御和に翻弄され続けた。御和が何を思いお飾りも同然の緋禾に手を伸ばすのか、考えることも億劫だった。
唐突に始まった行為は唐突に終わり、朝の神事から疲れ果てていた緋禾は、ぐったりと寝台に伏して意識を手放す。寝入り端、御和の指先が汗で額に張り付いた緋禾の前髪を優しく梳く感触を感じていた。
どうしてそんな優しい手付きで緋禾に触れるのか、不思議でならなかった。
***
気絶するように眠ってしまったからか、疲れているにも関わらず眠りは浅く、緋禾は水面に佇む白狐の夢を見た。いつものように近寄って来ないのは、この宮が呪術師による結界で守られていて、陰の気を持つモノノケが入ってこれないようになっているからか。けれども緋禾は、白狐がすぐ近くにいるような気がしてならなかった。そして、水面がこの室の前庭にある池なのではないかと思い浮かぶ。
それと同時に、白狐の声なき声が緋禾の耳の奥に響き始める。音なのか念なのか分からないそれは、繰り返し繰り返し緋禾に訴えかけるだ。
『ミナソコ――』
ミナソコ。水底。
水面に立っているから、そう訳するしかない。そして白狐は狂ったようにその言葉だけを緋禾に訴えかけるのだ。
ゆるりと目を開けると、これが夢の続きなのか現実なのか区別がつかなかった。隣で緋禾の腰に腕を巻きつけている御和は、やはり疲れているのか緩やかな寝息を紡いでいた。一方緋禾の方といえば、意識ははっきりとしているはずなのに、体は全く動かない。もはや起きているのか眠っているのかもわからない。そんな時に限って、意識の奥底で声なき声が聞こえてくるのだ。
『水底、水底』と。
それしか話すことが出来ないのだろうか。
季節は雨期を通り越して夏に差し掛かろうとしている。熱気が籠るからか、御簾は半分以上開けられていた。頭の中で繰り返される声に、自然と目は外を向いていた。横を向いているから、庭の様子はよく見える。
それほど明るい夜ではないが、水辺に蛍が飛んでいるから明るく見える。しばらくそれをじっと見ていたが、次の瞬間明らかに蛍よりも大きい光が水面にスイッとよってきた。
大きな丸い光は、やがてふよふよと漂いながら徐々にその輪郭をなしていく。予想通りというか、それは白狐になった。池からは離れず、近寄ってこない。結界があるからか、それとも緋禾を待っているのか。
御簾越しにじっと緋禾の目を見つめて同じように思念を送ってくる。その声は男なのか、女なのかよく分からない。もし本当に御和の兄であるなら…男なのだろうか。
果たして、本当に邪悪なモノノケなのか――
弱弱しく白狐が明滅を始めると同時に、動かないはずの指先がピクリと動いた。指先が動くと、息を吹き返したように全身に血が巡る感覚がした。何かに操られるように緋禾は身を起こす。そこに行こうという意志はないのに、寝台から降りて自分で足を前に動かしてしまう。ふらふらと縁の方に歩いていき、静かに御簾を潜った。自分から結界の外に出てしまえば、その効力など微塵もなくなってしまう。
足取りもふらついているのに、なぜが転ぶことはなかった。どこか外側から自分を見つめている心地だ。数段の階を降り、素足のまま地面に足をつけた。
砂利が足の指の間に入る。けれど前に進む足は止まらなかった。そのまま徐々に白狐との距離を詰める。池の水面から白狐は一歩も動いていないのに、引き寄せられてしまう。
じっと緋禾を見ている。その深い瞳は「こちらへ来い」と語りかけていた。その声なき言葉に従うように、緋禾は池に近寄った。
「…あなた…一体…」
滑り出た声は自分のもののようで、自分のものでないようにも聞こえる。どこか嗄れているそれは情事の名残であり、緋禾をこの世に留まらせようという守りのようにも思えた。しかし、それに答える声はない。頭の中に響くのはやはり『この池の水の底』という言葉ばかりだった。
これ以上近寄ってはいけないことは分かっている。それでも、操られたように足は止まらない。緋禾はさらに詰め寄ろうと右足を出した――その時。
「…――っ」
足に触れるはずの地面がない。砂利の感触の代わりに触れたのは、ひやりとした滑らかで、緋禾が離れて久しいもの。バシャン、と割れるような水音が耳元で鳴って初めて、緋禾は気づいた。
自分は池に落ちたのだと。
そしてその瞬間、ようやく正気に戻った。夜闇の水の中は信じられないほど冷たく、驚いてガボガボと身体の酸素を無暗に出してしまう。
緋禾は泳ぎが得意なはずだった。毎日にでも海に行って泳いでいたはずなのに、何の準備もせずに沈められた身体は、手も足も凍りついたように動かない。泳がなければ、上に行かなければと思えば思うほど四肢は動かず、余計に息を吐いてしまう。
ぼんやりと徐々に意識が薄れてきた。身体はどんどん水の中に沈んでいく。瞼が閉じそうな中、ふいに暗闇の向こうから小さい玉のような光が水中を進んできた。
幻なのか、現実なのか、それが何者なのか。まともに考えられずボコっと残り少ない空気を吐いてしまうと、僅かに開いた口へとその光は入り込んだ。
「あ、飲み込んでしまった」と思った瞬間、右腕に衝撃が走る。力が入らず重たい身体が信じられない力で上に引っ張られていく。肩が外れてしまうと思ったその時、不意にバシャリと再び水音が耳元で鳴った。それと同時に、喘ぐように口を開き本能的に酸素を貪った。
「…っう…げほ!…えほっ」
やっと水面に出られたと、その時気づいた。捉えられた右腕が引かれ、何かに絡められた。その温みに縋ろうとすると、耳元で荒い息が吐かれた。
「――馬鹿か、お前は!」
叱責する声は、ようやく耳に馴染んできた、低く他を圧する夫のもの。霞む視界の先、緋禾の身体を抱きかかえて水をかき分ける御和の横顔が見える。激しい声音から彼が怒っていることは明白なのに、それとは裏腹に緋禾を抱きかかえる腕は優しく力強い。
「み、お…?ど…して…」
「喋るな」
きつく言い放たれると同時に池のふちに着き、力づくで岸に押し上げられた。力なく両手をつき、息も荒く咳き込んでいるとすぐ隣でザバリと水しぶきが上がった。ぼたぼたと滴を垂らしながら御和も岸に上がり、緋禾が何かを言う暇もなく再びその腕に抱きあげられる。水分を吸った衣は寝衣と言えどもどしりと重い。なのにそれを苦にもせず御和は階を上がり、御簾を肩で跳ね上げずぶぬれの緋禾を寝台まで運んだ。まるで物のように寝台に転がすと、ぐっと夜着の袷を掴まれる。
「脱げ」
「え…」
「風邪をひいて困るのはお前だ。早く脱げ」
御和の言うことは尤もだ。それも分かるから素直に頷いて締め紐を解こうとするのだが、指先が悴んで思うようにいかない。そうしていると、段々全身が震えてきた。夏だというのに、冷たい池に身を沈めたからか信じられないくらいに寒い。
「――貸せ」
くしゅん、ととうとう派手なクシャミを漏らした時、ふっと目の前に影が差し、あからさまなため息をつかれた。下げていた視線の先に骨ばった手の甲が見えた。
「あ、」
その手はしゅるしゅるといとも簡単に濡れて固くなった締め紐を解いてしまった。何のためらいもなく袷が開かれるが、もう抵抗する力はどこにも残っていない。御和は手早く緋禾の夜着を脱がせると、すぐに自分の夜着も脱ぎ捨ててしまった。微妙に視線を逸らしていると、大きな手が肩を掴んで引き寄せる。無駄に柔らかい寝るための敷布で二人を包み、何とその布で緋禾の髪を拭きだすではないか。
「…ちょ、御和…」
何という面倒臭がりだと思ったが、面倒をかけているのは自分なので、結局黙ってされるがままにしていた。拭い終わると濡れた敷布は床に放り出され、今度は別の敷布で体を包まれた。同時に氷のように冷たい肌が御和の素肌に抱きしめられる。
自分の腕に割れている御和の腹筋が触れる。素肌が触れ合う、こんな状況は初めてではないのに、それだけでもう火がついたように恥ずかしくなった。縮こまるように御和の腕の中で丸くなっていると、ふと項に指先が触れた。
「……」
「説教は明日だ」
今日はもう寝ろ、いいな、と。
有無を言わさぬ口調はそのままだけれど、明らかに怒気をはらんでいる。なぜ自分が池に飛び込んでしまったのかは言い訳を盛大に言いたいところだが、今は逆らわないことにした。
怒られるのは仕方がない。自分の身は最早自分のものだけじゃない。穂の国のもので、この豊葦原のもの。
だから自分自身で、自分の身を守らなければならなかった。だから言い逃れはできないけれど、このおかしな状況を一体どうやって御和に話そうかと考えている内に、緋禾は御和のぬくもりに再び眠気に誘われて夢の世界へと身を投じたのであった。
***
翌朝、緋禾が目を覚ました時には、もう既に隣はもぬけの殻だった。説教はやめたのか、後になったのかは分からないが、とりあえず言い訳を考える時間は与えられたらしい。
正直、あの出来事をきちんと話すことができるのか緋禾も自信がなかったので、助かったと安堵の息をついた程だった。濡れた夜着やら敷布やらは綺麗に撤去されていて、緋禾の身体には誰が着せてくれたのだろう、新しい夜着が巻きつけてあった。
起こしにやって来た稲日が何も言わない様子を見ると、どうやらこれも御和が着せ替えてくれたらしい。最早面倒を掛けすぎて頭が上がらない。こうして外堀を埋められていくのだろうか、と普段着に着替えさせられながら、ぼんやりとそんなことを思った。
着替えて人心地着くと、昨夜からろくに飲み食いしていない身体から「腹が減った」と訴えかけられる。それを間近で聞いた稲日は「あらあら」と苦笑を漏らしつつ、顔を真っ赤にする緋禾を見上げた。
「昨晩もあまり夕餉を召し上がらなかったからでしょう。すぐにお腹に優しい粥などお持ちしましょうね」
稲日は母のように優しい笑みを漏らして、すぐに立ち上がると室から辞して行った。初夜の次の日、あまり緋禾が悲観していない様子を見て、どこか安心しているらしい。その足取りは軽かった。
とりあえず、何か胃にものを入れないと冷静に思考することもできないだろうと、緋禾は大人しく待つことにした。けれど、いくらも待たない内にぱたぱたとどこか慌ただしい音が聞こえてくる。手に何も持たずに戻ってきた稲日は、「姫様、ご用意を」と緋禾が何かを問うまもなくせっついてきた。
「用意って?」
「豊彦様でございますよ」
何でもないことのように、さらりと言ってのける。緋禾はぐるりと目を回した。
「と…父様?!」
「はい。昨夜が初夜でございましょう?ご様子を見たい、とのことですので」
にこにこと稲日は笑いながら、まだ流したままであった緋禾の長い髪の毛をきつく結い上げ始めた。どうやら緋禾の胃袋を満たすことよりも、父の面会に備えることのほうが優先事項らしい。櫛で何度も梳き、煌びやかな簪一本でまとめてくれる。髪を結うことに関して、稲日の右に出る采女はいなかった。
そうこうしている内に、時間になったのだろう、緋禾に「お待ちくださいね」と言い置いていそいそと室から出て行った。そしてそれほど時を置かずして、御簾の外に影が差す。
「豊彦様のお通りでございます」
さっと御簾が捲り上げられ正装を着た父親が顔を覗かせた。少しばかり疲れた顔をして、薄緑の衣をさばいて緋禾の正面に腰を据える。上座を譲ろうと緋禾が腰を上げかけたが、それは手で制された。
「構わぬ。お前は最早この国の后たる身だ」
身分が、自分の父よりも上だというのか。それは豊葦原が他の五国よりも強い力を持っているからだろうか。何となく納得がいかなくて、緋禾は無理やり席を立って、父に上座を譲った。
「私はこの国の后となっても、父様の娘であることに変わりはありませんから」
そこまで言われてしまえば、豊彦も頑なにはなれなかった。親子二人だけなのだから、諦めもついたようだ。
「で、今日はどうして?」
緋禾は下座に座りながら問いかけた。様子を見に、と言われていたがそれだけの理由ではない気がした。豊彦はその言葉にふっと渋面を作った。
「いや…大人しくしておるのか気になって」
その表情を見て、緋禾はぴんときた。御和がきっと、何かを告げたのかもしれない。と、考えた途端に緋禾は眉根を寄せて俯いた。きちんと大人しくしていた、とは、とても言えないからだ。好き勝手しすぎて、ついにはモノノケに誘われて池に落ちて、御和に釘を刺されたのは、つい昨夜のことだ。ついでにこれからお説教が待っているのだ。
「大人しくするつもり…です。これからは」
渋々、という気持ちは簡単に表情に出てしまった。それを見て豊彦は重いため息をつく。懇願するような眼差しで見つめられてしまった。
「本当に…本当に、頼むぞ。ほかの四国全てが穂の味方という訳ではない。大王の機嫌を損ねれば、情勢的にも穂の立場は悪くなってしまう。お前に重いものを背負わせていることは、承知している。だが…お前の一挙一動が祖国の運命すら左右させてしまうことを…よく覚えておいてほしい」
豊彦は心労からか、目の下に暗い隈を作っていた。心臓に大変悪いから本当に頼むぞ、とその表情が語っている。今、緋禾の両肩には大国の后の務めも、巫女としての使命も、祖国の行く末も圧し掛かっているのだ。おそらく、小王である豊彦以上に。
「分かり…ました」
それ以上、何が言えようか。決心してこの大国にやってきた以上、后の務めはきちんとこなすつもりでいた。
そして、御和に請われた巫女としての努めも。更に国を愛する気持ちは人一倍あるから、不興を買って危険には晒せない。ただでさえ貧しい国である。八方塞がりをその身に重く感じて、緋禾は俯いた。
こういう時に、是としか緋禾には言えないのだ。
様子を見に、と言っていたが、実際その内容はお説教でしかなかった。嫁いだ緋禾を心配するわけではなく、頼むから大人しくしていてくれと、懇願しに来ただけだった。外に出るのが楽しくて仕方ない娘だった緋禾にとって、大人しくしているということは拷問に等しいことを、この父親は分かって言っているのだ。
去って行った父親の背中から視線を外し、膝の上で握り占めている拳をじっと見つめた。瞬きもせずにじっと見つめていると、じんわりと視界が滲んできた。ぐっと唇を噛んでみても、手をどれだけ握り合わせてみても、視界が晴れることはない。
ついにその一滴がぽたりと手の甲に落ちた。そうなると、もうどうにも止められなかった。次から次へと滴が落ちてきて、綺麗な裳まで濡らし始めてしまった。
声も出さずに緋禾は泣いた。泣いているなんて、誰かに悟られたくなかった。何が悲しいのか、苦しいのか、それもごちゃごちゃになって分からないのだ。
豊葦原へ嫁いできて、初めてこの日、緋禾は泣いた。




