一
緋禾の住まう宮まで辿り着いた時には、既に周囲は夜闇に染まり、煌々と松明が焚かれる時間になっていた。あれだけ歩けばお腹が空くかと思っていたが、胸の方が一杯でとても食事などできそうになかった。しかし御和は成人男子らしく動けばそれなりに空腹になるらしい。
緋禾の室の中には既に軽めの夕餉と酒が用意してあり、獣脂が二・三焚かれている。二人分用意してあるところを見ると、ここで御和も夕餉を取るらしかった。床に腰を据える御和を見て、緋禾は少しだけ胃が重くなる心地がした。今まで放置されていた日々が嘘のように、無理矢理に妻とされてから一日、祝言を挙げ、墓に参り、その墓の主の存在を確かめ、自分に課された使命を思い出して胸苦しいのだ。
穏やかに夕餉を取りながら、御和と言葉を交わすこともひどく億劫だった。さすがに夫となった者に給仕をしないのもどうかと思い、濡れた手ぬぐいを差し出したり、酒を注いだりと妻らしく接してみると御和は不思議そうな目で「頭でもぶつけたのか?」などとのたまう。
「何よ。ちょっと妻らしいことしてみただけじゃない」
「…緋禾は案外切替が早いのだな」
自分がなかなかに酷いやり方で緋禾を妻にした自覚はあるらしい。となると、やはり今までの緋禾に対する接し方はいささか彼らしくないのかもしれない、と自然そう思えた。あれほどに死した兄の現状に苦悩している位なのだから、家族という身内には彼なりに愛情を注ぐのかもしれなかった。
しかし、緋禾はその愛情が自分に向けられるとはどうにも思えない。未だ緋禾が御和の身内に完全に入ったとも言いづらいのだから仕方のないことだ。なんせ、自分への仕打ちを緋禾は許せる気にならない。
そんなことをつらつらと考えている内にも、御和はひょいひょいと軽い食事を済ませ、ついでに給仕をサボってぼけっとしている緋禾の口にいくつかの煮しめを放り込むと、手際よく膳を片付けた。室の外にでも出しておけば采女が早々と持っていってくれるはずである。
大王という身分でありながらも、御和は自分のことは自分でしてしまう質らしい。そんな性質の主を側に仕える者たちはよく理解しているのだろう。特に何も言われずに采女が膳を持って下がると、御和は徐に緋禾の両脇を子供のように抱えあげ、寝台へと連れて行った。目を白黒させている内に上に伸し掛かられ、唇を寄せるものだから、慌てて両手で御和の接近を防がねばならなかった。
「な、何するの」
「何とは。婚儀を済ませた妻に『寵』をいただこうかと」
「冗談言わないで」
前言撤回。やはり御和は意地悪だ。男の人は特に愛情を持たない女性にも欲を満たすために唇を寄せることができるらしい。そんなことに思い至って、緋禾に向けるのが愛情ではなく欲であることに、どうしようもなくやるせなさがこみ上げた。その事実は、胸にどんよりとした重いものをもたらしてくる。御和に対して愛情を期待していたのかとふと考えて、緋禾は愕然とした。
この男が果たして自分に愛情など傾けてくるのか。考えなくても分かる、答えは否だ。そんなものを緋禾に与えるほど、二人の間に信頼関係はまだ成り立っていない。御和の目的は外に漏らさずに内乱の予兆を鎮めることであり、妻を娶ることではないはずだ。そんな男に、夫婦の愛情を求めかけていることは、もはや滑稽でしかないのではないか。身分ある者の婚姻に、必ずしも愛情は必要ではない。
けれど、緋禾はそんな希薄な関係性の中で死ぬまでこの国にいることなど出来そうにない。
では自分は御和と愛情に満ちた夫婦関係で国を治めていきたいのかと思うけれど、まだ緋禾の中で明確な答えはでないのだ。御和の考えていることが一寸も分からないのだから。
思わず御和の唇の侵入を拒んでいる両手に力が入り、目をそむけてしまう。だから、緋禾は気づかなかった。威勢の良かった妻が急に萎れたように表情を暗くして、泣きそうになっている。そんな彼女を見て、御和の両手が小さな頭に伸びて慰めるように撫でようとしていたことを。けれど、寸でのところで躊躇うように指を握りしめ、結局撫でなかったことを。
そんな自身の感情を持て余すように、御和が眉根を寄せたことを。
振り切るように、痛みを耐えるかのように、きつく目を瞑り、力ない妻の手を丁重に退けて御和は赤い潤みを自身の唇で塞いだのであった。
***
御和は、自分が大変不器用な男であることを重々承知している。それは主に、人間関係において。
大王として立って既に三年。なりたくてなった地位ではない。国と民に責任を持つ立場は、年若い青年が負って立つには些か荷が重すぎる。周囲の五人の小王達は、皆二十は年上の老獪な男である。侮られないように背筋を伸ばすだけで必死だった三年間が、御和の中の大切な何かを奪っていたのだ。
それでも、幼い頃は活発でやんちゃな小坊主だったと記憶している。政治を学ぶよりも馬に乗って野を駆け回り、剣技の稽古をしている方が好きだった。思ったことをすぐ口にしていたのを、よく父に窘められていた。
「そんなに分かりやすい王がいてはならぬ」と。
御和はよく、己の感情を押し殺さねばならない立場になどなりたくないと思っていた。けれど、違えようもなく自分は次代の日嗣の御子であり、王位に就く日は刻一刻と迫っている。周囲の大人は御和の個性を容赦なく奪っていき、代わりに絶対的な君主としての知識と姿勢を叩き込んでいく。
嫌でも自分を押し殺す日々が続き、御和は十五歳になる頃には完全に思いを表に出さない無表情を装う術を身に着けていた。信頼できるのは側近である岬と、小さい頃から剣技を教えてくれた翠の小王の川治氏、そして腹違いの兄だけになっていた。
そんな御和が更に感情を失っていったのは、父親から大王の位を譲り受けてすぐの頃だった。
切欠は兄の死だ。元々妾腹で病がちだった兄は、長子であるにも関わらず、最初から日嗣の御子として定められなかった。一年のほとんどを寝台の上で過ごし、日がな紐で長く綴られた竹簡を読んで過ごしていたように思う。御和より余程博識で、穏やかで、けれど一本芯の通った気概を持つ、こんな時代でなければ王に相応しい人物だった。
『はは、王など私には向かないよ。民もこんな病弱な者が王になど、たまったものではないだろうに』
『けれど、兄上は俺より物知りだし、賢いし、小王達も上手い具合に言いくるめられるだろ』
小さい頃はよく兄の室まで遊びに行って、国を治めるための勉強をすっぽかしたりしていたものだ。愚痴を吐く度に五つ離れた兄は――佐和は、根気よく宥めてくれた。優しい男だったのだ。優しすぎたから、死した後もこの世に縛り付けられているのかもしれない。
病死にしては、あまりに唐突だった。身体が弱いと言っても、近年は落ち着いている時も多く、日によっては寝台から出て庭を散策するくらいには回復もしてきていた。だから、御和は最初その報せを聞いた時何かの間違いにしか思えなかったのだ。しかし、棺の中に横たわる兄は確かに冷たく、唇はどす黒くなっていたのだ。兄の従者が朝、起こしに行った時には既にこの状態だったと言う。
その時の御和は、静かに唇を噛み締めながらも、心の内は動転していたと言っても過言ではない。だから、気づけなかった。
今思えば、死の報告をした従者も、佐和を罠に嵌めようとした仲間なのかもしれなかった。そういう風に冷静になれたのは、王家の陵に兄の棺を収めた後。そして、どこかで兄を身近に感じていたくて、御和がひっそりと春日野の隣の森に佐和の小さな墓を作った後。そこに兄との思い出の品である短剣を葬って宮に帰り、自室で机に向かっていた時、ふとした疑問が心の中に生まれた。
心の臓の急性的な発作であったとしても、あれ程唇は変色するものだろうか?
胸元には何か、掻きむしったような痕があったと聞く。
胸が苦しくて、という言い訳は立つが、他にもそのような状態になる原因が他に考えられまいか?
そして、そのすぐ後に起き始めたのが、モノノケの怪奇現象である。御和の国の民を、そして皇太后たる母をこの世から奪う怪異は、確実に御和の神経をすり減らした。国の呪術師や剣の腕に覚えがある衛士までもが魂を奪われ、はっきり言って八方塞がりになっていたのだ。
モノノケは、御和の周りに現れ、御和に関係のある者の魂を奪っていく。最初は、兄もこのモノノケに殺されたのではないかと疑った。御和にとって、最も大事であったのは、当時兄だけであったから。けれど、兄が死した後にこのモノノケは現れたのだ。時間の経過関係からいくと、違うであろうということは容易に想像できた。
御和がその存在の正体をはっきりと認めたのはつい最近のことである。モノノケ――白狐は、御和が佐和の墓を参る時に、必ず佐和の墓に現れる。そして魅入らせるように御和の目をじっと見つめる。魂を取られるわけにはいかないのだから、その目をじっと見つめ返すことはしない。けれど、その目に見覚えがあることも、同時に気づいてしまったのだ。
『兄上…?』
言葉は自然と口から出る。それに答える声はない。けれど、たしかに白狐は尾を左右に振ったのだ。
***
人を容易に信じることができなくなった御和が、人心の交流において不器用になってしまったのは、ある意味で仕方のないことだと言えた。けれど、いくら不器用と言おうと、騙し討のように緋禾に近づいてその身の純潔を奪ってしまったことは簡単に許されることではないだろう。
はっきり言ってしまえば、一昨日あの場で緋禾の身体に触れることをするつもりはなかった。なかったはずであるのに、萎れるやら歯向かうやら感情の波が激しい緋禾についうっかり乗せられて、その滑らかな頬に自然と手を伸ばしていたのだ。感情の抑制は効く方だと自認していただけに、己の内なる欲望に簡単に負けたことに一番驚いたのは御和自身である。そして、側近の岬も同時に。
大王を前にしても、緋禾は自身を偽ることをしなかった。彼女の性質故か、出来ないのだと言う方が正しいだろう。思っていることがすぐ口にも顔にも出る。膝小僧を蹴っ飛ばされた時は、さすがに唖然としたが。かつての幼い頃の御和のようだった。
だから惹かれるのだ。緋禾の持っている性質にも、神気にも、表情にも。そして、全てのものを惹き付けるあの舞にも。惹かれて意地悪なことを言ってしまうのは、御和の地が出てしまうのだろう。緋禾といると、いらないことまで口走ってしまう自分に心底うんざりする。
緋禾は素直すぎるくらいだから、物事の本質を見抜くことも得意であるらしい。白狐に懐かれていることから、近々緋禾がこの国に呼ばれた本来の目的に気づくことは想像できた。本当は聡い娘なのだろう。だからこそ、本当は知られたくなかった。知れば緋禾は、御和と距離を取ろうとすることも、容易に想像できたからだ。
昨夜も、緋禾の様子が一変したことは明らかだった。己の何かが緋禾の気に障ったのかとも思ったが、最初から緋禾の気に障るようなことしかしていない自分が、いくら気遣っても気味悪がられるだけだ。止めることもできた。けれど、無垢な白い肌が目の前にあって、惹かれる自分を意識して、止めることが出来なかった。
(…欲とはやっかいな感情だな…)
初めて抱く感情に戸惑っているのは御和も同じだ。眠りからぼんやりと意識を浮上させて、最初に思うことがそんな感傷的なものだったので、疲れているのかもしれなかった。ぼんやりとしながらも、無意識に隣に手を伸ばし――
「…緋禾?」
隣にいるはずの存在がいないことに気づく。まだ温かな感触が残っている。がばりと寝台から身を起こすと、深更とも言える時間、御簾ごしに月明かりを浴びた妻の姿が見える。緋禾はふらりと歩を進めながら、庭に降りていく。何をしているのか、とそんな思いを抱く間もなく御和は大股で室を横切り、御簾を跳ね上げた。
その間も、緋禾は歩みを止めることなく庭を進み――その先には大きな池があり、その水面上には白狐がいる。
「緋禾!」
止める声は響かなかった。
緋禾はそのまま池の方に歩を進めると、導かれるように池にその身を投げ出したのである。




