五
しばらくの間、二人の間には会話らしき会話もなく、黒馬は闇に染まりつつある道を春日野に向かって進んでいった。既に何度も通った道を覚えているのだろう、馬は迷う素振りも見せず、御和も時折手綱を引いたり緩めたりする以外は黒馬の好きにさせていた。暫く歩を進めていると、森の境界を抜けた辺りで空気感が変わった。少しピリッとするような、身が引き締まるような、ここは簡単に足を踏み入れてはならない土地だと人間に知らしめるのだ。
いつも裏木戸から抜け出して森を通り春日野に向かっていた緋禾には知らない道だった。そもそも彼女は土地勘がないため、どこがどう繋がって春日野に着くのか、全く理解できていない。しかし、直感的にもう春日野の近くに来ていることは分かる。神に愛された娘というのは何とも恵まれているものだと、回りをキョロキョロと見渡しながら緋禾は呑気にそう思った。落ち着きがない妻となった少女を、御和は特段気にしてはいないようだった。それよりも彼は、森の際で佇む一匹のモノノケの方に気を取られていた。緋禾から離れた白狐は、この森を抜けて春日野の近くまで来ていたらしい。
「…あの子はこの土地には入って来れないの?」
「陰の気を持つモノノケは、この陽の気が満ちた土地は毒に等しいだろう。入ることは出来ても、すぐに弾き飛ばされるだろうな」
「だから森の中にあの子のお墓があるの?」
「……」
「あの白狐はあのお墓に私を連れて行ったのよ。そして、人の言葉も気持ちも、きちんと分かっている」
緋禾の問に御和は何も答えない。微かに手綱を握る手に力がこもるのを見て、緋禾は自分の行き着いた答えが遠くないことを確信する。
「御和は私にあの子を救ってほしいと言ったでしょう。だから何となくそう思ったの。あの子も私に何度も接触してはここへと連れて来た。そしてあの墓に導いたのよ。あの子も救われたいのよ、きっと」
あの白狐も助けを求めているのだ。モノノケと忌み嫌われるこの現状を、一体誰が作り上げているのかは分からないが、救われたいモノノケが果たして自分の意図で人を襲うのだろうか。人の言葉も気持ちも理解している白狐の正体は、自ずと明らかになる。
「あの子は『人』だったのでしょう。『佐和』という人。それが何らかの事情があって、死した後にこの世に呼び戻された」
「…墓の名を読んだのか」
「夜闇では読めないわ。指でなぞったの」
丁度森の入り口に着いた所で御和は馬の足を止め、地面に降り立った。続こうとする緋禾の両脇を抱えあげ、幼子のように降ろされる。妻となったと言っても、彼の中で未だに緋禾は幼い子どもなのかもしれない。それに不服を覚えない訳ではないのだが、それを今ここで言ってもまた軽くいなされて終わるのだろう。眉間に皺を寄せただけで、森の中に入る御和の後に続いた。
夜闇でも月明かりが葉の間を通して入ってくる森の中は、目が慣れると様相がよく見える。陰の気が強い月夜なら、白狐はある程度動きが活発になるのかもしれない。いつの間にやら二人の前に現れて、道案内をするかのように森の小道を辿った。前を歩きながら、御和はこちらを見ずに声を上げた。
「緋禾」
「なあに」
「あの白狐は人を襲う。哀しくとも、それは事実だ。人は白狐に魅入られ、魂を奪われる。国の呪術師などは、あのモノノケを祓おうと術を組んだのだが、必ず返り討ちにあっている」
御和がようやくことの内情を話し始めたので、緋禾は意見を求められているのだと判断した。この大国の呪術師という強大な力に対するものを持っているということは、それ以上の力や縛りがこの事件に絡んでいる
ということだ。
「…誰の魂が奪われたの」
「最初は、宮を守る衛士。そこから近侍、采女と徐々に宮の内部に及んだ」
「内部…」
「一年前に、等々皇太后である俺の母が襲われ、お隠れになられた。が、一般には知られていない」
それはこの大国の威信にも関わる重大な事件だからだろう。訳の分からないモノノケに宮の内部が荒らされ、守られなければならない国母が易々と命を奪われるという重大さは、安易に外に出せるものではないのだ。そんな中で祝言という祝い事を大々的に行えなかった理由が何となく分かった。喪が明けたのが祝言の前だったのだろう。
「何となく、事情は分かったけれど。私がここに呼ばれて御和と結婚する必要なんてあるの?」
救うだけなら、巫女という立場でこの国に来ても良かったはずだ。しかし、御和はたどり着いた墓の前で眉間に皺を寄せて首を左右に振った。白狐は相変わらず墓の上に佇んだまま、静かに尾を揺らすだけだった。
「呪術師すら返り討ちに遭うモノノケだ。強大な力を持っていることは自明だが、この白狐だけでそれだけの力は持てぬだろう」
「――この子を操っている人がここにいるのね」
「命を等価としている契約か、縛りがあるのだろう。それを破る、対抗するとなれば、緋禾の命は必ず狙われるだろう。巫女以上に、この国の妻となったほうが守りがしやすい」
その言葉を絞り出して、御和は目を閉じた。外にこの事件を漏らさずに対処していくには、この方法が一番だと思われたのだろう。思っていた以上に様々な思惑が絡み合って、緋禾はそれに巻き込まれている。そしてそれは、御和も一緒なのだろう。この大国を内部から崩しにかかってくる人間がいるなんて、緋禾は思いもしなかった。
苦しげに眉を顰める彼を、白狐が見守っている。そこで緋禾はふと首を傾げた。それ程強い力で縛られているモノノケが、大王を目の前にして襲わない理由が分からない。恐らく、白狐を操る人間は、この大国の内部崩壊を狙っていると言っても過言ではない。一番の権力者を殺してしまえば、内部崩壊など容易だろう。御和には子もいない。
「…あなた、この子に好かれてるのね」
「それは、お前もだろう」
「私は、神気があるから色んなモノに好かれやすいの。そうじゃなくて、縛りがあるモノノケが命令に反してあなたを襲わないなんて、余程この子の意志が強くないと無理だと思うんだけど」
緋禾の言葉を聞いた途端、御和は一瞬だけ泣きそうな苦笑を浮かべて重い溜息を吐き出した。
「だからだ。だから、この哀しいモノノケを早く解放してやりたい。それは、この国にいる者では叶わない。緋禾。お前でないと叶わない」
敵意を持つ者では駄目なのだろう。緋禾は自分で言った通り、祓う力は持っていない。万物に宿る神の気配を読み取り、愛して敬うことしか出来ないのだ。しかし御和はその力を欲している。
「御和、ひとつ聞いていいかしら」
「お前の場合はひとつで収まらないだろう」
「じゃあ、私の気になること、全部聞くから全部答えてくれる?」
「全ては無理だ」
「でも、もう話しているようなものじゃない」
夫婦になったのだから隠し事はなしだ。向けてくる視線が、うんざりしているのがよく分かる。しかし、緋禾をこの事件に巻き込み妻としてしまったのは御和だ。そして緋禾には知る権利がある。抗わない様子を見ると、彼もこれには否を言えないらしい。ようやく勝てそうな点を見つけ出して、緋禾は心が少しだけ軽くなる。少しだけ、御和のことを好きになれそうな気がしたのだ。
「怪異が最初に現れたのは何年前?」
「俺が即位してから暫く経ってからだ」
「三年も前?」
「これだけ頻繁に騒がれだしたのは最近だな。近侍や采女にも噂が出回り、これ以上抑えておくのは困難だ」
「…じゃあ、あなたのが即位した前に、誰かお亡くなりになっている?」
ここで御和が口を噤んだ。目は墓と白狐の方を向いたまま。緋禾はもう答えを聞かずとも分かっていた。下手くそな誘導尋問に過ぎないが、御和の口から直接聞くことが大切だった。
「佐和」という名前は分かりやすい。今目の前にいる「御和」と、死してこの世に呼び戻された「佐和」――
「腹違いの兄が」
「……」
「病がちで、兄ではあるが妾腹の子であったので、日嗣の御子とはならなかった」
それだけ言うと、御和は身を翻して墓を背にして歩き出した。横目で緋禾を促したので、彼女も逆らうことなくその背中に続いた。何か話しかけたくても、今の御和がそれを拒絶している気がして口を開くことが出来ない。白狐はそこに佇んだまま、哀しげな目をして二人を見送っていた。




