四
長い長い神事と宴が終わり、緋禾が自分の室まで戻って来た時には、すでに陽が西の山の端に沈もうとしていた。初夏から夏に向かうこの季節、日が沈む時間は大分遅くなっているとは言え、辺りは薄紫色の闇に染まりかけていた。
朝、寝間着から豪奢な裳や上衣に着替えさせられた痕跡はすでにない。優秀な采女達は、祝言の間に綺麗サッパリと片付けてくれたらしい。あまりにも殺風景で、これが一国の后の室なのかと自然と自嘲が浮かんでくる。稲日は緋禾の衣装をすべて取り去り、髷に結っていた髪の毛も下ろし、綺麗に櫛ってくれた。簡単に手足も洗ってくれる。湯を使うかと聞かれたが、もうそんな気力もなく、すぐに床に就きたかった緋禾は緩慢に首を横に振って彼女に室から辞するように告げた。
「白湯を運んでまいりましょうか。さすがに何も飲まず食わずで眠られると、寝起きがお辛いでしょう」
「…そうね。じゃあ、それだけお願いするわ」
稲日は小走りで炊事所へ掛けていき、少しも経たない内に白湯と水を張った桶を持ち帰ってきた。よく出来た卑女だ。緋禾が夜中に起きて水を使って手や髪を洗いたいと思うはずだと、彼女なりの気遣いが感じられる。しかし、当の主人は脇息にもたれ掛かり非常に「だらしのない」格好を披露している。
「姫様。お休みになられるのなら寝台にお入りください」
「稲日。私は、もう、姫じゃないのよ」
「…左様にございましたね」
もう緋禾は、穂の姫君ではない。神事を終え、既にこの中つ国の后となった。緋禾の身分が変わったのに、ずっと姫様と呼ばれるのはどうなのかと思う。けれど、全く実感が沸かないのは、緋禾も稲日も一緒だった。
稲日は恭しく頭を下げると、静かに室から辞して行った。一人きりになって、緋禾は今日御和から言われた言葉をつらつらと頭の中で考える。疲れ切って今にも瞼が落ちそうであるのに、なかなか眠れそうにない。こんな時になって初めて、緋禾は自分の孤独を実感した。望まれて嫁いできたはずであるのに、今、緋禾は殺風景な室に一人ぼっちだ。穂の国では毎日同年代の少女に囲まれて育った彼女は、あまり孤独に慣れていない。
故郷を出てきた十六の少女にとって、大国の内部で起こっている抗争を鎮めるという役割は荷が重すぎる。御和は緋禾に神気を以てあの白狐を救ってほしいと、願ってきた。この国にも多くの巫覡は存在するはずなのに、あえて緋禾にそれを望む理由が分からなかった。いくら緋禾の持つ神気が甚大なものであっても、この大国にいる数多の巫覡がそれに劣るとも思えない。緋禾が沙依里比売の末裔であることが、何かしらの理由に繋がっているのだろうか。
そのようなことを考え込んでも、答えが出る訳ではなかった。なかなか訪れない眠りの世界に身を投じることを諦めて、緋禾は脇息から起き上がった。ぼんやりした頭を振り、御簾の向こう側を見ると、庭にある池の上を漂う光が見える。ずっと緋禾が見てくれるのを待っていたのだとでも言うように、光は段々と形を成していき、いつもの狐の姿を取った。
御和が救ってほしいと願った、白狐だ。それを認知してしまうと、もう緋禾には己を止めることなど出来なかった。掛布を握りしめ、肩に掛けると思い切って御簾を捲りあげる。途端にふわりと夏の青臭い空気が鼻腔に届いて、緋禾は大きく息を吐いた。露台の階に爪先を掛けてしまえば、あとはもう庭に降りるだけだ。一歩一歩近づいていく緋禾を、池の上に佇む白狐は静かに見守った。
池の端まで来ると、不思議と白狐の表情がよく見て取れる。囚われないように緋禾は眉間に力を入れて白狐の目を見つめた。目と目を合わせれば、もう止められないことを分かりながらも、そうする以外の方法が緋禾には分からなかった。ゆっくりと流れ込んでくる意識は、白狐が送り込んでいるものだろう。何も形を成さないそれは、けれど、緋禾の胸の内を掻きむしる程に重く苦しい念だった。
(…この子は、哀しんでいるのだ…)
御和の言っていたことはあながち間違いではない。この白狐は何かに縛られているのだと言うように、辛く、哀しい思いを緋禾に伝えてくるのだ。真っ黒に染まったその思念は、緋禾を囚えようと手を伸ばしてくる。ぶんぶんと頭を振ってそれから逃れ、池の淵にしゃがみ込んだ。指先に池の水の冷たさが触れ、正気に呼び戻してくれる。一瞬ぎゅっと目を瞑った緋禾は、思い切ってそのまま池の中に手を入れたまま、白狐に思念を送った。
「おいで」
ゆらゆらと水の中で手を遊ばせながら、ゆっくりと御霊鎮めをするように辛抱強く語りかけた。
「大丈夫。私はあなたを害さない。あなたも、私を害することはしなかったでしょう。そんな哀しいこと、しなくていいの。大丈夫だから、こっちにおいで」
少しばかり自棄になっていたのかもしれない。こういうことをして自分の身が一体どうなるのか特に考えずに、緋禾は念を送り続ける。けれど、囚われたとしても乗っ取られたとしても、思考を蝕まれたとしても、自分と同じように独りでいる哀しい白狐を、もう放っておくことができなくなっていたのだ。別に御和に救ってほしいと頼まれたからではない。緋禾は緋禾の意志で、この白狐と向き合いたいと思ったのだ。
白狐は確かに緋禾に反応を示した。ヒゲの辺りをぴくりと動かし、前足を浮かしては引っ込めて戸惑ったように尾を揺らす。緋禾の言うことが分かっているのだ。だとしたら、この子は純粋なモノノケや妖ではない。人の言葉、人の思いを分かっている――
緋禾が確信を持ったその時。
白狐は突然後ずさりをして一瞬の内にかき消えた。
「…っ、待って…!」
ぱしゃん。
急に立ち上がった緋禾の勢いに、水の縁が揺れて音を立てる。それまで満ちていた不思議な静けさが消えた。
「緋禾」
すぐ後ろで響く声。鋭く緋禾の耳の奥まで響いて、心臓毎びくりと跳ね上がる。振り向けば、眉間に盛大に皺を寄せた御和が緋禾を通り越して池の中央を睨みつけていた。どうやら白狐の姿は御和にも見えるらしい。もう既に消えているが、彼も確かにその存在を確かめたのだろう。御和は非常に渋い顔をしたまま、緋禾に目をやった。その目は静かに怒っている。
「食われるぞ」
「あの子は魂を食べたくて食べてる訳じゃないわ」
「モノノケに意志はない」
「…それは」
御和の言い方は、自ずと緋禾の考えが正解に近いことを示している。ひゅっと息を飲んだ己の妻を、御和は横目で見た。口元に指を当てて暫し考えた後、徐に身体を返して「ついて来い」と緋禾を促す。歩き出した先は宮の門だったので、慌てて緋禾は御和のゆったりとした長衣の裾を掴んで止めた。
「どこへ行くの」
「春日野だ」
「…待ってよ。私、寝巻のままなんだけど」
「少し前まではそのまま外に出ていたではないか」
それを言われると苦しい。つい数日前までの緋禾は、寝巻という薄着のままで堂々と夜中に外を出歩いていたのだ。けれど、今、緋禾の立場は変わってしまった。もう純粋な乙女でもないし、この国の后となった身分である。しかも堂々と門から出ようと言うのだから、これが醜聞と言わず何になるというのだろう。もじもじと指先を弄ぶ妻に嘆息して、御和は自分の上衣を黙って脱いで緋禾に巻きつけた。これで満足かとでも言いたげに緋禾を見やった後は、また歩を進める。
もうこの男に何を言っても無駄なのだと悟った緋禾は、衣の両脇を掻き合わせて御和の後を追った。もう完全に陽は沈み、篝火が焚かれる時間となっている。門番の衛士は中から出てきた人物が大王と后だと知れると、素早く膝を折り、直接に彼らを見ないように頭を下げた。
(こんなに堂々と出ていく主人を、この衛士は止めないのかしら…)
その疑問はいくつも歩かない内に氷解された。門を抜けた先には、御和の側近が彼の黒馬に手綱を付けて待っていたのだ。側近は、緋禾が寝巻の上に御和の上衣を巻きつけているのを見ると、目を丸くして呆れたように主人に目を向けた。
「何もお后様をそのような格好で連れ出さずともよろしいでしょうに」
「緋禾はこの格好が一番動きやすいそうだ」
手綱を受け取り、軽快に跨りながらそんなことを言う。完全に緋禾がこの格好で数日前までうろちょろしていたことを、嫌味で言っているのだ。ぶすくれて唇を尖らせる緋禾を見て、側近はとても哀れなものを見る目で緋禾を見た。ものすごく同情されているようだ。それなら、この側近は緋禾の気持ちをきちんと分かってくれる人に違いない。
「お身体を冷やされないようにしてくださいね。我が主はそういう面であまり気が利かないので」
「…ありがとう…あなた、お名前は?」
「岬と申します」
「岬殿。これから色々と面倒をかけることもあると思いますが、よろしく頼みますね」
緋禾の言葉に岬は膝を折って従う姿勢を見せた。従順な側近なのだろう。御和にも心許せる臣下がいて、緋禾はどこかほっとしている。この立場ではそういう存在を望んでも手に入れられない例はごまんとある。そうこうしている内に、緋禾は御和に鞍の上に引っ張り上げられ馬上の人となった。どうやら岬は付いてこないらしい。それもそうだろう、春日野は大王家由来の土地だ。他人が許可なく入っていける場所ではない。緋禾は誘われる形で足を踏み入れてしまったが、大王の后として請われた身で中つ国に来たのだから、許してもらえるだろうと楽観的にそう思うことにした。
馬が軽快に歩を進める中、緋禾は先程の岬の言葉を思い出して、くすりと口元に笑みをこぼす。
「…何だ、思い出し笑いなどして」
「いえ…岬殿は、あなたのことをなかなかに酷い人だと私に忠言してきたわね」
「当たっているとでも思っているのだろう」
「半分当たって、半分外れね」
「は?」
馬の上で不安定に御和を見上げる。彼は、訝しげに眉を潜めて緋禾を見下ろしている。可笑しくなって緋禾は腹の底からふつふつと沸き上がる笑いを収めることが出来なかった。
「御和は、私に薄絹をかけてくれたわ」
「……」
思い出せないらしい。ということは、当たり前にそういうことが出来る人なのだ。気が利かないと、こんな面倒くさい王という立場などなれないだろうと、緋禾は思っている。
「私を初めてこの馬に乗せてくれた時。宮に帰る途中で雨が降ったわ。その時、あなたは濡れないように私に薄絹を掛けてくれた」
「そうだったか?」
「そうよ。『風邪など引かない』と言った私に、あなたは『馬鹿だからか?』って言った。だから、半分は当たってる」
つい最近のことであるのに、随分前のことように思う。緋禾の言葉に何を思っているのか、その表情から読み取ることは出来ない。けれど、緋禾には御和という人物のことが少しだけ分かってきたような気がしている。
本当に酷い人であるなら、緋禾が衛士に連れて行かれそうなところを助けてなどくれなかっただろうし、馬で送り届けることもしなかっただろう。あの白狐を救ってほしいなどと言わないだろう。彼は、意地悪ではあるけれど、恐らく身の内に入れた人間には優しいのだ。だから、今では緋禾も分かっている。
室から出るなと言ったのは、無闇に緋禾をモノノケに近づけないようにするため。そして、他意を持つ小王が接触してこないようにするためだろう。それは緋禾の実父ですら数の内に入るのだ。救ってほしいと願いながら、何とも矛盾しているところが彼らしいと思う。
そして、呑気にそんなことを思う緋禾は気づいていない。緋禾自身、気を緩めて御和の胸に知らず背を預けていることを。緋禾こそ、身の内に入れてしまった人間に非道になれないこと。そして御和がそんなおおらか過ぎる妻に不安を抱えているということを。




