二
少し乱暴な表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
一体どれほどの時間そうしていただろう。一瞬かもしれなかった。永遠の時間かもしれなかった。緋禾は息も詰まる思いで目の前の男の顔を見上げた。
こんなに間近でこの顔を見るのは二度目だった。その顔は、というより、その瞳はあまりにもするどくて得体が知れなくて神々しくて、緋禾は無意識に直視するのを避けていたように思う。今も、直視してしまえば簡単に目は逸らせなくなった。漆黒のそれに射抜かれて、緋禾はぴくりとも動けずにいた。
ただ、はっきりしていることは幾つかあった。御和と名乗ったこの男はこの国の大王であること。自分の夫となる人。そして、自分はまたとんでもないことをやらかしてしまったのだということ。
そこまで思い至ってようやくぎこちなく首を動かし、緋禾は御和から目を外した。その途端に目に入る、握られている己の手首の細さに泣きそうになった。ゆうに御和の指が一周してしまうほど細い。
これが、この力の差なのだろうか。そう思った時、痛いほどの沈黙を破ったのは御和の方だった。
「いつもの威勢の良さはどうした?」
いつでもお構いなしに噛みついてくるというのに、臆病風を吹かせたか。喉の奥で笑われると、自然に怒りが首をもたげてくる。力任せに御和の手から自分の手首を奪い返し、緋禾は一歩後ずさった。挑むように御和の顔を睨み上げてやれば、彼は心底可笑しそうに唇を歪める。いっそ一度くらい引っぱたいてやろうかと思ったが、そこではたと母の言葉が脳裏によぎった。
――『いいこと、緋禾?天上の神々の末裔であられる中つ国の大王の御目を、許しなしに見てはいけないのよ。大王は天から遣わされた神そのもの。でないと目を焼かれてしまうわ』
その言葉を思い出して、緋禾は一気に血の気が引いた。今まで自分はこの「御方」に、この大国に対して何をしてきたのか、と。
言いつけを破って深夜に舎から抜けだした。
からかわれて、頭に血が昇って、ここでは抑えようと思っていた言葉遣いで捲し立てた。
気に入らないからと、大王の膝小僧を蹴っ飛ばして、逃げて、挙句の果てに衛士に捕まったところを、丁度いいところにいたからと利用した挙句助け出してもらった。
そう思えば、一気に御和の言っていたことが一つに繋がる。この人は、この大陸で最も権威を持つ唯一絶対の王。絶対に逆らえない。逆らえば、故郷がどうなるか分かったものではない。
今更であることを十分承知の上で、緋禾は一歩距離を取ると、床に膝をついて頭を下げ正式な拝礼の形をとった。急にしなければならいことが、緋禾の頭の中に浮かんでいたのだ。自分のしてきたことがどれだけ非礼であったとしても、今こうしなければならないことは、王族としての義務でありけじめである。
そう思った。何をされてもそう思い続けなければいけなかった。
床を見つめていた視界に、影がさして藍色に似た衣が入る。そう思った途端、冷たい指先に顎を掴まれて無理やり上を向かされた。今まで以上に近い距離に、御和の顔があった。そして今まで以上に冷たい色をした瞳が緋禾を嘲笑するように見ていた。
「なかなかに面白い女だと思っていたが…」
ぎゅっと顎を掴んでいる手に力をこめられて、緋禾は眉を顰めた。御和は鼻すれすれまで顔を寄せて目を細めた。
「つまらん。とんだ見当違いだったようだ」
一瞬にして御和は、必死に抑えていた緋禾の怒りの炎を燃え上がらせる。次の瞬間には、緋禾はぱしんと音を立てて御和の手を振り払っていた。この男は、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだと口走りそうになった。けれど、緋禾は一瞬唇を噛みしめてぎゅっと拳を握った。
「…国のために義務を果たそうとすることのどこが、見当違いなの」
「お前がそれを言うか?」
「自分がやってしまったことは、とりかえせない。分かってたもの、一国の姫がすることではないことくらい。でも貴方様の立場が分かった以上、こうするしかないじゃない」
「国のため、か」
「そうよ。小さい国の私達は、そうしなければならないと、幼い頃から教えられてきたの」
自分の言っていることが、どんなに矛盾に満ちていて馬鹿げているかは承知だった。それでも、やらなければならないと思ったからやったまでのこと。それを御和は一笑に付した。高慢そうに顎を上げて睨みつけてくる緋禾を見て、嫌味かと思うほどに綺麗に笑む。そしてその顎を再び掴む。急なことに吃驚したのは緋禾の方だった。
「…ちょっと、何する――」
「お前は馬鹿だな、やはり」
そう言うが早いか、御和は力強い掌で緋禾の後頭部を掴んだ。声を上げる暇もなく緋禾の身体は前へと傾いでいく。次に起こった衝撃に緋禾は鋭く息を飲み込んだ。けれど、それすらも覆いかぶさって来た御和の唇に全て奪われる――そう、まるで全てを奪いつくそうとしているような口づけだった。
咄嗟に御和の肩を力いっぱい押し返した。けれどその手は逆に絡め取られてしまい、たった右手一つで押さえこまれてしまった。その間にも口づけはどんどんと深くなって、緋禾は息ができなくなる。
「…んん…!」
呼吸どころか、抵抗する力まで奪われる。苦しい、と思って暴れてもそれは恐らく、御和にとっては弱々しいものでしかないのだろう。
(――もう、駄目だ…)
最後に、そう思った。このまま呼吸を奪われ尽くして死ぬのだ、と力を抜くとようやく御和の唇は離れていった。ぶりかえした呼吸に咳き込みながら荒く息をつくと、上から視線を感じる。目だけ動かせば平然とした表情の御和がこちらを見降ろし――馬鹿にしたようにくすりと笑んだ。
「馬鹿。鼻で息くらいできるだろう」
緋禾の名前は「馬鹿」になってしまったようだ。その言い草にまたしても頭に血が上ったが、余計に息苦しくなるだけだった。緋禾は荒い息を押さえるように手の甲を唇につけた。
「…むり、言わないで…」
湿った感触で、自分が今まで何をしていたかを思い知る。こんなことをしたのは勿論初めてで、ただでさえ御和の正体に吃驚しているのに身体も心も追い付いていない。
一体何の拷問なのか、これは。
そうやってうろたえる緋禾を見て、御和は冷たい指先を緋禾の唇に押し当てたかと思うと、その力が抜け切った身体を肩に担ぎ上げた。
体重など、何も気にしていない動きだ。急に目線の高さが変わり、緋禾は「きゃあっ」と声を上げた。
「…や、ちょっと…!降ろして!」
足をばたつかせると、膝の裏をぐっと抑えつけられる。御和がどんな身分の人かも忘れて背中を叩けば、鋭い視線で一睨みされる。恐怖で息を詰まらせると御和は足を寝台の方へと向けた。
「ねえ…!ほんとに…待って…」
「本当に五月蝿いな、緋禾は」
溜息とともに吐き出された言葉は、今までと違い無表情なものだ。その途端肩から指先にかけて冷え冷えとした震えが走った。初めて、御和の持つ権威を目の当たりにした。言いようもなく逃げだしたくなるのに、身体が動かないのだ。それでも緋禾は必死で身を捩ったが、それを許すような男でないことは緋禾自身よく分かっている。
「大人しくしておけ」
命令口調でそう言われれば、抗いたくなる。けれど、そんな暇もなく御和は軽々と緋禾を抱えて寝台へと降ろし、次の瞬間には敷布に押さえこまれていた。何か言葉を発する余裕もない。あっという間に再び冷たい唇で唇を塞がれた。
息が詰まる。
抵抗しようと思う。
それは、実行する前に易々と防がれる。
舌や唇に噛みついてやることだってできたはずだった。しかし深く口づけられると自分でもおぞましいと思うほどの鼻にかかった甘い声が漏れて、力はどんどん抜けていく。
「や、だ…」
指先の感覚がない。どうしたのだろう、自分の頭が全く働かなくなってしまった。そう困惑していると、御和はほとんど唇を重ね合わせたままで可笑しそうに笑った。不慣れな自分を笑われたのだと勘違いして、途端に頬に血が集まる。一瞬力を取り戻した緋禾は慌てて己と御和の間に距離を作った。激しく口づけた証拠のように赤く腫れて妖しく光るそれから目を逸らす。
「…どうして、今頃来たんです」
口から咄嗟に出た言葉は、そんなものだった。予想通り、言えばぐっと顎を掴まれて否を認めず正面を向かされた。無理やりにでも奥が深い漆黒の瞳とかち合う。顔が近すぎて、再び目を背ける事も出来なかった。
「離してください」
震えそうになる声を無理やり押し込めてそう言った。鋭い声音になんて到底ならないけれど、緋禾の中に今まで溜めてきたものが一気に噴き出した。
「…今更です。どれほど私が放っておかれたと思ってるんですか。よく意味も分からないまま故郷を離れてここへ来て、周りの釆女は何も教えてくれないし、冷たいし、あなたからは何の音沙汰もない。挙句の果てには正体隠して寄って来て…」
「正体を隠したつもりはない。緋禾が勝手に勘違いしただけだろう」
「…そうですけど…でも…あなたは一体何がしたいの。何故ここへ私を呼んだの」
「……」
「何故今、ここに来たの…」
涙が目からこぼれ落ちそうになって、緋禾は唇をかんだ。絶対に、この人の前で涙など見せるものかとふんばった表情をする。すると御和は無表情なままで緋禾の夜着の腰帯に手を掛ける。しゅっと引っ張られた帯は簡単に解けてしまう。
「――や、」
「お前を呼んだのは、五国の中から嫁を取れと言われていたから。ここへ来たのは諸王臣に急かされたから。何がしたいかは…今分かる」
言葉の内容の割に苦々しい声音に訝しげに眉を顰める。それでも、動き出した手は止まらなかった。はっと息を飲むと同時にまたしても御和の唇が下りてくる。突っ張ろうとした腕は、容易く大きな掌に戒められた。
あの時、春日野で触れてきた唇がまた同じ所に吸いつく。薄く、冷たい唇に緋禾はぞくりとした。
叫び声は弱々しさを伴って口から零れる。婚姻を結ぶからには、早々こういうことをしなければいけないことは知っていた。覚悟もできていた――はずだった。
けれどそれは「そのはず」でしかなかったのだと思い知る。優しさのかけらもない行為は、緋禾を震え上がらせ、目尻に涙を浮かばせた。
初夜は、きっと大王はとても大切にしてくれるはずだ。
母はそう言った。
(…どうして)
伸びてきた右手が緋禾の髪の毛を掻きやるのを感じながら、緋禾は繰り返しそう思った。どうして、自分はここへ来てしまったのだろう。何のために、今ここにいるのだろう。
誰でもいい。噂の妖でも、あの白狐でも、誰でもいいから助けてほしかった。
その願いは、叶わないと分かっていた。
***
次に目を開けると、周囲は薄明るかった。まだ夜は明けきっていないのか、ほんのりとした冷気が頬に触れる。緋禾はピクリとも動けなかった。動く気力すら、今は無いのだ。
体中が鈍い痛みに支配されている。下腹部の痛みは、もう自分が乙女でないことを物語っている。
数回瞬きをして、起き上がろうと試みる。けれどやはり、身体は言うことを聞かない。まるで機能していなかった。
「……」
それでも耳は声を拾うものだ。目が覚めた時から、ずっと枕辺ですすり泣く声が聞こえている。密やかに耳に落とされる音。緋禾自身のものではない。もちろん、御和でもない。
彼の姿は、この室のどこにも見当たらなかった。動くのは難儀だったが、緋禾は頭をようやく動かして枕辺を見た。そこには見慣れた頭が寝台に突っ伏している。ひっく、ひっくと嗚咽と共に肩を震わせている。
「…稲日。どうして貴女が泣くの?」
声が掠れていた。弱弱しくか細かった。
その声を聞いてばっと稲日は顔を上げた。それと共に涙が散る。
「何故姫様がこのような目に遭わなければならぬのですか!」
「…私は、『このため』にここへ来たようなものだわ」
「…そんなの、あんまりですっ」
当事者の緋禾よりも悲壮な顔をしている。だからか緋禾は自分自身のことをそれほど悲観できなかった。重たい手を挙げて、ボロボロ零れる稲日の涙をそっと拭ってやった。温かい涙だった。それだけでもう、緋禾は救われている。
「…いいのよ、もう。稲日が泣いてくれたから、十分」
冷えた緋禾の手を稲日はしっかりと握りしめた。ずず、と洟を啜り上げて、眉を吊り上げる。
「私は、いつでもいつまででも姫様の味方です」
勢いよくそう言うものだから、緋禾は思わず笑みを漏らした。
その日。
前触れもなく祝言が行われた。緋禾は大国・中つ国の后となった。圧倒的な権力に緋禾は押し潰されそうになりながら、気丈に前を向いて神官の祝詞を聞いていた。隣の夫となった人は、昨夜の熱を全く見せず最後まで緋禾と視線を合わさないままだった。




