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空をゆく、仄か緋を  作者:
春日野
12/37


一際存在感がある黒い馬。その背に乗るのは、深い藍色の長衣を纏った神々しいまでの男。あの日出会ったその姿が、小川の側にあった。目が合ったのは一瞬だった。けれど、相手はいつからそこにいて、緋禾の様子を見ていたのかは分からない。けれど、その一瞬を逃さず、緋禾は叫んでいた。


「ちょっと…ねえ!!!」


その声に、衛士が目を丸くして振り返り、男は遠くからでも分かるほどに思いっきり迷惑そうに目を眇めた。そんな表情は無視して緋禾はもう一度向こうに向かって叫んだ。


「…ちょっと!あんたがなかなか来ないせいで面倒くさいことになってんだけど!!」


藁にもすがる思いで緋禾はぶんぶんと男に向かって手を振り続けた。衛士はすでに足を止めて訝しげに緋禾と男の間に目を走らせている。すると、男は諦めたかのように馬の背から優雅に滑り降りて手綱をとってこちらに向かってくる。

「お前そのものが面倒だ」と口の動きでそう言っているのが分かる。けれどそんなものに構っている暇はない。緋禾は掴まれている手もぶんぶんと振って、ようやく衛士から解放された。これは幸運だと緋禾は少しずつ衛士から距離を取る。そうこうしているうちに、男が二人の目の前に立った。


先日会ったばかりの男で、しかもつい先ほどまで緋禾が思いっきり心の中で罵っていた相手。それに、緋禾はこの男の膝を蹴っ飛ばして逃げてきた。けれど、今はこの衛士に連れて行かれる危機を乗り越えられるなら、緋禾はこの男に怒鳴られることもねちねちと嫌味を言われることも耐えられると思った。


つい懇願するような目で男を見上げる。諦めたのか、男は深いため息をついて緋禾の手を取って己の方へと引き寄せた。衛士は男のことを知らぬ顔のようで訝しげな表情だが、男の着ている上等な衣服や思わず目を逸らしてしまうような威厳に、一応は上位の者だと認めたのであろう。憮然としながらも一礼をした。


「…何をしていた」


多大の呆れと面倒くさそうな響きを含ませて男は言った。緋禾はぱっと目を上げたが、あまりにも顔の距離が近かったのでまたすぐに視線を下にした。代わりに衛士が声を低くして答えた。


「は…真夜中に森の中をうろついていたのです。越境許可証の提示を要求しても応えませんので、衛府寮へと連れて行こうと…」


本当なのかと、ちらりと緋禾の方に視線を向けられる。緋禾はそろりと上目でそれを窺うのだが、あまりにも冷たい瞳にぎこちなく笑ってみせることしかできなかった。青みがかった黒い瞳が射すくめるように細められると、問い詰める側の衛士もすくみ上がっている。

これが初対面というわけではないのだが(見知った仲とも言い難いが)、けれど緋禾は喉の奥がひりつくように痛むのを感じた。今度は目を逸らすことが出来ない。そんな緋禾の心情を知ってか知らずか、男は殊更ゆっくりと口を開いた。


「特に、危険な存在でもあるまい。見逃してやってはくれんか」

「何故――」

「間諜の類ならばこのように簡単に捕まるはずもないだろう?」


当たり前だ。目から鱗が落ちたように衛士がぽかんとしている。二人まとめて「間抜け」認定されたようで、緋禾はいささか納得がいかないが、まさか口ごたえを出来ずに眉根を寄せた。


「それに」


言い加えて初めて、男の口が僅かに緩んだ。視線は緋禾に添えたまま。それを見て、緋禾は更に青ざめた。

直感が叫んだ。

この男は一体何を言おうとしているのか―――「何を」知っているのか。


「この『御方』は――」

「…止めて!!」


咄嗟に緋禾はなりふり構わず男の方に詰め寄った。ここで、自分が大王の妃であるなど――穂の国の姫であることをばらされてしまえば、もう終わりだ。緋禾は核心を突く言葉を言いかけた男を見上げた。男は、しばらく緋禾を見つめた後ふっと唇の端を上げた。あの、笑みだ。人の悪そうな笑みを見て嫌な汗がつと背中を滑る。それと同時に肩に手を回された。


「聞いたであろう?俺の女だ。お前は逢引きを邪魔するほど野暮でもないだろう?」

「―――っ」


男はそう言うと緋禾の肩を引き寄せて己の胸の中に押しつける。あまりにも吃驚しすぎて緋禾が固まると、合わせろと言わんばかりに男の腕に力が入った。無意識のうちに手は動き深い藍色の長衣の袂を握りしめる。すると、背後では先ほどまで息巻いていた衛士が急にうろたえだした。

それと同時に男の手が緋禾の背を辿り項を触る。吃驚して息が詰まって、喉の奥から変な声が漏れる。耳元で男が薄く笑う気配がして、ぞくりとした。


同時にからかわれているのだという事も分かった。悔しくなって、緋禾は身を離そうと腕に力を込めたが呆気なく封じ込められる。男にしてはやけに繊細な手つきで髪を梳き、露わになった耳たぶを甘く噛まれた。


「…っや…」


一瞬で、緋禾の膝から力が抜け落ちた。緋禾は思わず縋りつくように男に寄り掛かる。その反動を利用するようにして、男は緋禾を抱き上げて己の黒毛の馬に乗せた。熱い感覚からようやく解放された緋禾は、いつの間にか衛士の姿が消えていることに気付く。


「ちょっと…」


横に座らされ、後ろに男が乗って来たのと同時に緋禾は「待って」と声を出した。しかし男はその声に答えず馬を進め始める。


「ちょっと待ってってば。止まって!」

「少し黙っていろ」

「…あ、あなたねえ…!」

御和みおだ」


更に言いつのろうとした緋禾の耳に落とされたのは、ささやくほどの小さな声だった。はっとして、緋禾は後ろへと目を巡らせた。夜中の闇の中であるはずなのに、何故か御和と名乗った男の表情ははっきりと見ることができた。ぞくりと肌が粟立つような感覚。反射的に緋禾は御和という男から身を離そうとしていた。


それに気付いたのか、否か。御和はじっと緋禾の瞳を見つめてきた。


「人を呼ぶ時は、名で呼べ。『あなた』やら『ねえ』やらで呼ばれ続けてもかなわん」


ゆっくりと馬は春日野を渡る。御和の言い方は少々不遜ながらも、言っていることは正しい。だから緋禾は「自分だって私のことを『お前』って言うくせに」とはっきり言うことが出来なかった。むずむずする感じを押さえながらも「…みお」と口の中で言って再び前を向いた。すると、意外に近い距離からまた御和の声が耳朶をくすぐった。


「…ほら、何か言うことはないのか?」

「え?…ええっと…ご、ごめんなさい?」


顔に血が集まるのを感じながら、緋禾はそれを振り払おうと先ほどのやり取りを思い出した。衛士に捕まったところを、やり方はともかく、助けてもらったのだ。「ありがとう」か「ごめんなさい」かで迷ったが、迷惑をかけたのだから一応は謝っておくことにしたのだが。御和はそれを聞いてこれ見よがしに溜息をついた。


「お前の頭は飾りか?俺は名を教えろと言ったんだ」

「な、飾りって…!一回もそんなこと言わなかったじゃない!」

「今までの話の流れで分かれ。それくらい」

「分かるわけないでしょ!」


緋禾の大声は春日野全体に響き渡った。御和はと言うと、それに顔をしかめて一言「うるさい」と言うだけだった。この男と一緒に居ると、自分がただの五歳児の子どものように思えてならない。元々奔放な性格で注意力や自制心が欠ける欠点は自覚しているものの、それをこの男は一言で助長させてしまうのだ。


苛々がこみ上げて、緋禾は鋭く息を吐き出した。けれどもここで拗ねて名を言わずにいたら更に惨めになりそうなので、「…緋禾」とだけ答えておく。名乗るという行為は神聖なものであるのに、ひどく空々しい声になってしまった。自分から助けを求めておいて、なのに緋禾は一刻も早くこの男から離れたくて堪らなくなる。春日野に現れては、緋禾のことを馬鹿にしたり助けたり、得体が知れない。

ひどく疲れていた。今日のこの日ほど夜の散策を悔やんだ日はない。もうしない、と緋禾は密かに心の内に刻んだ。


春日野を渡り終えるのとほぼ同時に月が薄雲に隠されてぽつぽつと小雨が降り始めた。御和は、自分が纏っていた薄い套をふわりと緋禾の頭にかけてくれる。頭をもたげて、手綱を操る男を見上げると、霧雨に髪の毛が美しく光っている。


「…別に…平気なんだけど。私、体丈夫だし。風邪なんか引かないわ」

「馬鹿だからか?」


少し優しいことをしたかと思えばすぐこれだ。言い返したい気持ちを抑えつつ憮然とした表情で前に向きなおると、御和はもうそれ以上何も言わなかった。やがて、築地の崩れのあるところまで来て、緋禾は手を借りずにするりと馬から地面に降り立った。この場所を知っているということは、緋禾がどういう人物なのかも既に知っているのだろう。緋禾は套ごしに馬上の男を見上げた。しっとりと濡れた衣と髪が、妙に御和を美しく際立たせている。


「…あなた、一体誰なの?」


そう、自然と口を開いていた。緋禾がどのような身分であるかを把握し、王宮の中も比較的自由に動き回れる。相当に、身分の高い者ではあるのだろう。けれど、そこから先は分からない。宮での情報が遮断されている緋禾には分かりようもないのだ。


「やはり、緋禾は少し鈍いらしいな」

「あのねぇ…!」


憤りに緋禾は声を荒げたが、御和は人差し指を唇に押し当てる。


「知らぬ方が、身のためだ」


どこか遠くの方を見た無表情で、御和はそれだけしか言わずに馬首を返した。思わず緋禾は一歩を踏み出しかけたが、馬はすでに数歩先にいた。


「…そのうち、分かるだろう」


そう言い残して、御和は馬を走らせた。あとに残された緋禾は、呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。



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