四
中つ国に来て、二十日ほどが経った。その間、表向きは何事もなく日々は過ぎた。緋禾に対しては全くの放置である。緋禾の扱いは一応の名目上は「妃」であるので、容易には外に出られないし人に会うことも難しい。それは肉親であっても同じであった。ここに来てから、緋禾は父の豊彦にすら会えていない。緋禾の立場が父より上にいってしまっては面会もままならないとは、皇とは面倒なものである。
その鬱憤が積もりに積もってか、はたまたただの偶然の結果か。あの日の夜、妖の狐に連れ出されて春日野に降りた緋禾は、頻繁に室を抜け出してそこら辺を散歩するようになっていた。勿論日が落ちたあとの夜である。夜になると、不思議と人の目は減った。運がいいのか王宮の衛士に見つかったことは、これまで一度もなかった。それをいい機会だと緋禾は眠ったふりをして誰もいなくなると出歩くことを繰り返す。稲日や采女に迷惑がかかるとは思っても、こんなに暇にさせる大王が悪い、というのが緋禾の持論である。
今宵も例外なく緋禾は庭に降り立ち、いつも抜けだすのに使う築地の崩れへと足を向けた。行く場所は、毎度同じだった。
神の地・春日野。
最初の一回以来誰かに会う事もなかったし、行けば緋禾を拒むことなく優しく包んでくれるのが春日野へと向かう第一の理由だった。この土地の生き物だけが彼女を温かく迎えてくれるのだ。だから足が自然とそちらへと向くのだ。駄目だと思っても、惹かれてやまない、それ程緋禾を引きつける魅力があった。そこへ向かう足取りは軽やかで、高い塀すらも飛び越えてしまえそうなほどだ。
それでも、心の中には様々な思いがせめぎ合っていた。
(今日は、あの妖は来るのかしら?今は、一応見て見ぬふりをしているけど…それに…)
あの、男。春日野へ行けば、いつかまたあの男に会ってしまいそうな気がする。正直なところ、あの男には会いたくなかった。自分の子供っぽい部分ばかりさらけ出してしまって、自己嫌悪で落ち着かない。何故だろう、大きな威圧を感じてきちんと目を見て話せないのだ。宮中を跋扈する妖の狐よりも緋禾にとってはたちが悪い。まあ、話せないと言っても、あの男の口から皮肉が零れ落ちるまでなのだろうが。
(あの、人を馬鹿にしたような口調と目…!)
思いだすと怒りがこみ上げてくる。膝を蹴っ飛ばした程度では到底治まらない。だから、会えば会ったで今度こそは言い負かされぬようにしようと密かに矛盾した思いを緋禾は抱えていた。
そう考えながら、王宮の築地塀を潜り抜けるとふと首筋辺りに視線を感じた。緋禾は振り返ることなく気配を察知する。人ではないモノの視線だと、緋禾は感覚的に分かる。そして、このところよく感じる視線だということも。自分は四六時中この妖に見られているのだろうと思うと微かに背中に怖気が走った。
緋禾は気づいていない振りを続けて、春日野へと足を速めた。丘を登り、人目に付きやすい小川沿いを避けて木立と野辺が広がる方へと行く。星々が雲に覆い隠されずに輝いているのを見ながら、緋禾はここがごくごく自然なままでかつ、大切にされてきたのだと実感する。どこにも人の手が入っていない、神気に満たされた土地。
いつの間にか、緋禾は心が自然と落ち着いているのに気がついた。いつも緋禾の内に澱のように溜まっていたものが、綺麗になくなっていくようだ。それは、よく知った感覚だった。
(…ここは、穂の国の海みたい…)
穂の国の海のように、癒やしを与えてくれている。感覚に従い、緋禾はすっと目を閉じて歩を進めた。不思議と道に障害はない。歩く内に目の前には光る小道が現れ、同時に瞼の裏に白狐が当たり前のように光る道筋を辿っていく。緋禾は黙ってそれについて行った。またあの時のように、どこかに案内するつもりなのだろうか。
白狐は時折緋禾の方を振り返りながら尾を振っている。どのくらい歩き続けたか、ふと白狐が消えて居なくなった。それと同時に緋禾は閉じていた瞳をかっと押し開く。そこはもう春日野ではなく、どこかの外れの森の中であった。夜の暗闇に目が慣れる頃、目の前に、いつの間にか本当に白狐が佇んで緋禾を見つめている。宮中で噂の妖――今まで気づかぬふりを続けていたのに、ついに正面から目を合わせてしまった。
自然にその妖しく輝く瞳に吸い込まれそうになる。
しかし、緋禾は眉間に力を入れてそれに抗った。このままでは自分は宮中の被害者と同じように魂を取られて死んでしまうだろう。
「…駄目よ。そのようにして人を取り込んでは。あなた自身の『実体』が狂気に包まれてしまう…魂もろとも破滅してしまうわ」
口から出てくる言葉に、己の内にある神気を満たし言霊にして緋禾はゆっくりと白狐に語りかけた。白狐は理解したのか否か、耳をぴくりと動かし、ふさふさの尾を前後に揺らしながら「ケーン」と一声鳴いた。その声を聞いて初めて、緋禾は白狐が佇んでいる場所に気がついた。
それは、緋禾の腰の高さほどある細長い石の上だ。そこに、白狐は行儀よく座っている。緋禾は導かれるようにふらふらとその石に近づいた。石は、まだ真新しい名残がある。そして、その元には春日野で摘んだのであろう、野花が置かれていた。
一目見て分かる。
(これは…お墓だ)
つ、と指先をその冷たい表面に触れさせる。石は凍えそうなほどに冷たかった。近づいてみると、石に文字が切り刻まれているようだった。あまりに周囲が暗すぎるから、肉眼では見えない。緋禾は再び目を閉じて指先だけで刻まれた文字をそっと辿った。
(『佐』…)
指先になめらかな彫字が伝わった。もう一文字。
(『和』…『さわ』?)
目を開く。白狐は相変わらずそこにいて、緋禾を見つめている。その瞳が何故か哀しげに見えて、緋禾は思わずこの白狐が妖であるということを忘れそうになった。あまり妖に想いを入れ込むと、本当に取り込まれてしまう。声をかけそうになった緋禾は、思い直して一歩後ずさり鋭く息を吐き出した。
そして、はたと気づく。ここは大王家に連なる神聖な神の土地で、陽の神気に満ちた伝説の場所のはずだ。なのに、死という陰の気を纏うこの妖は、何故平気な顔をしてここにいることができるのだろうか。
それに、死は不浄だ。人が決して逃れることが出来ないものであり、最大の恐怖でもある。陽の気が満ちたここに墓があるのが、どうしても解せない。
敢えてそうしているかのように、とてもこのお墓は矛盾に満ちていて不自然だ。
はっと我に返ると、音もなく白狐は姿を消していた。何の気配もなく、この前のように消え失せている。咄嗟に周囲を見回したが、あるのは闇と墓石のみだ。
「どこに…」
呆然と緋禾が呟いたその時、ガサガサと後ろの草叢が動く。びくっとして振り向くと、木々の向こうから松明の明かりがちらついて見える。
「――誰ぞおるのか?」
声と共に聞こえるのは、松の弾ける音と甲冑の擦れる音だ。
(やばい…見回りの衛士…!)
思わず緋禾は隠れようと暗闇に目を凝らして茂みの中に飛び込もうとした。しかし、髪の毛一本ほどの差で松明の灯の明るさが緋禾の裳裾を照らしてしまう。はっとした時には頑丈そうな男が身の丈に合わず敏捷な動きで緋禾に詰め寄り、腕を捕えていた。緋禾の細腕を軽く握れてしまうような大きな手が容赦なく体を抑えにかかる。
必死に抵抗を試みるが、無駄に終わるのは明らかだった。男は低く朗々とした声で言った。
「こんな時間にこんな場所で何をやっているのだ…お前のような若い女が」
「…何もしてないわ!ただ散歩しようと思ってここまで来ちゃっただけよ。離して…!」
一応言ってはみたが、不信感満点な目で見られ、もちろんその願いは叶えてもらえるはずもない。空しく抵抗する緋禾を、衛士は難なく森の外まで連れ出した。歩幅は半端なく大きい。転びそうになりながら、緋禾は何とか逃れようと歯噛みする。
森の外に出ると、再び月が顔を出していた。そこまで来て抵抗を止めた緋禾を見て、ようやく衛士が手を離す。
「散歩とな?この春日野が大王家の領であることを知らぬ民はおらん。お主、異国の民だな?」
「…っそうよ!侮辱する気…?!」
頭に血が上ると、何をしても子供っぽくなるのが緋禾の悪い癖だ。上手く釣られたことにも気付かず衛士の男を睨みつけた。
「異国の民か。国境を越えるには許可証が必要だろう?見せてみな」
許可証――越境の際に関守に見せる通牒のことだ。小国から大国へ入る際は肌身離さずそれを身につけておかなければ、いろいろと面倒なことが多い。しかし、緋禾が越境した際には大王家の家紋がついた輿に乗り、それだけで通行が許されていた。通牒も隊列一体で代表の者が見せていた。緋禾自身が越境の許可証をもったことなどないのだ。
すなわち、ここで出すことなど無理な話だった。
ぐっと詰まった緋禾の顔を見て衛士はしてやったりと笑って見せた。許可証は提示を求められたらすぐに見せなければならない。そうしなければ、他国の間諜と間違えられても言い訳すら出来ない。
「…無い、と。では一旦衛府寮までご足労願おうか」
「ちょっと…!」
問答無用と言わんばかりに再び緋禾の腕を掴み無理やりにでも王宮の方へと引っ張っていこうとする。緋禾はとうとう顔を真っ青にして頬を引きつらせた。無謀な行いがこのような事態を呼び寄せてしまうことを、今程後悔したことはない。
(…どうしよう…!)
今更のように後悔が緋禾の心の中に渦巻く。このまま衛府寮に連れて行かれ、問答を受けたら緋禾の身分はあっという間に知れ渡るだろう。妃としてこの国に来た穂の姫が、勝手に室を抜け出して夜の野を散歩していたなど、国の恥に他ならない。自分は、恥をさらすためにここまで来たわけではなかった。
当たり前だが、室の中で姫らしく命令に従い大人しくしていれば、こんなことにはならなかっただろう。
頭では分かっている。なのに、どうしてこんな風にしか振る舞えないんだろう。後先のことを考えるよりも先に体が動いてしまう。意地の悪いことを言われると、すぐに頭に血が登って口に戸を立てず余計な抵抗をする。それで打ち勝ってこられたのは幼少までのことだ。
けれど、勝てたとしても、必ず後悔した。つい最近もそうだった。
なぜあんなことをしてしまったのだろう。なぜ、こういう風にしか言えないんだろう――
泣きそうになった。けれど、泣けなかった。泣いたら負けだと思ったのだった。緋禾は眉間にぐっと力を入れて潤む目で衛士を見上げ――そして、ある影が視界に入ったのはその時だった。




