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空をゆく、仄か緋を  作者:
春日野
10/37


拍子は突如として止んだ。否、乱されたと言った方が正しいかもしれない。縺れるように足を地につけ、はっとして振り返ると、淡く光る春日野に一頭の黒毛の馬に乗る人の姿があった。濃い藍色の長衣、おすいを身に着け、漆黒の髪は結わずに背に流すままとなっている。顎が細い面立ちは、どこか浮世離れして見えた。月光による影がなければ、危うく緋禾はこの地に降り立った神の一人だと思っていただろう。

それほど、その人物は神々しく見えた。緋禾はこんな深更に野原で舞を舞っている自身こそ浮世離れしているという事実を忘れる程、目を見開いて馬上の男を見つめた。


声からすると、男だろうか。それでも、背の中ほどまでに伸ばされた髪やとんでもなく美しい顔は、女と見間違う。咽喉が詰まったように声が出ず、呆けたままの緋禾を置き去りにして、先に静寂を破ったのは男の方だった。


「このような時間にこのような場所で何をしている?」

「――え、あ…」

「ここは大王家由来の土地だ。許可なく入って衛士に見つかったら厄介だぞ」


男は少々偉そうにそう言いながら馬から軽快に降りた。見事な黒馬の鼻面を撫でてやり、緋禾に問うような目を向ける。緋禾はまるで唇が縫いつけられてしまったかのように、一言も喋れずにいた。突然現れた男に、目を奪われて瞬きもできない。月明かりに照らされた足元には、緋禾と男と馬の影がある。ということは、この男は神ではないらしい。そのことにようやく詰めていた息を吐き、さて、どう言い逃れようかと緋禾が思いを巡らしていると、男は緋禾を上から下まで眺めて小馬鹿にしたように笑った。


「まさか、一言も口をきけぬ馬鹿でもあるまいな?」

「な…!」

「子どもが寝る時間はもうとっくに過ぎている。早く帰って床に着け」


一気に緋禾の中で熱いもの――それは怒りだ――がこみ上げた。初対面の、しかも自尊心だけは人一倍強い女に向って放たれた一言は、容易に緋禾の本来の性格を前面に押し出した。


「私は子どもではないわ!もう年明けには十七よ!」


怒に顔を紅く染めて声高らかに言い放つ少女に対して男は冷やかに言い返した。


「真の大人の女ならば、このような夜半に供も連れず野で遊ぶような真似はしない。もちろん、こそこそするような『何か』があるなら別だが」


その言葉があまりにも的を得ているので、緋禾は何も言えずぐっと詰まった。勝手に室を出て、王宮を抜け出してきてしまったのは狐に導かれたせいでもあるが、緋禾の勝手な振る舞いには違いない。もし今、室の中に主人がいないことが露見していれば、一体どんな騒ぎになっているだろう。

稲日にも釆女たちにも迷惑をかけているだろう――大王の命に背く緋禾の行動を止めなければ、罰が下るのは何の罪もない彼女たちなのだ。


けれど、ここで言い負かされたくないと幼い彼女は咄嗟に思ってしまう。少々生意気で負けん気も強い緋禾は、きっと見知らぬ青年を睨み返した。


「…そうね、確かに軽率だったことは認めるわ…少し」

「少し?」

「…でも!あなたも人のこと言えないでしょう。その長衣、かなり仕立てのいいものに見えるけど。そんないいもの着られるならあなたもそこそこ位のある家のお坊ちゃんか何かでしょう?供も連れずにこんな時間にこんなところをほっつき歩いて、影打ちなんかされても知らないんだから!」


一気に言い放って、緋禾は荒い息を吐きながら肩を揺らした。全く以て大人げないやり方だが、何か一言でもいい、言い返したくてしかたがなかったのだ。ひとしきりの喧噪が過ぎ去った春日野には、再び虫の音と水の流れる音が響き渡っている。特に表情を変えずに緋禾のわめき声を聞いていた青年は、一言。


「まぁ、そうかもしれないがな。だが俺は剣も使えるし、基本的な体術も身につけている。ほっつき歩いているつもりはないぞ。馬に乗っているから、逃げ足にも自信はある。それに、俺は男でとうに成人して仕事もある身だ」


――多少なりともお前よりは、分別ある身として行動しているつもりだ。

その声があまりに静かで、違いを見せつけられているようで、緋禾はなんだか悔しさで泣き出しそうになった。こんな思いをするのは、この国に来てから一体何度目だろう。全てがままならず、自分の意を聞いてももらえず、何も出来ないまま日々は過ぎる。鬱屈とした感情が身の内から溢れ出して止められない。


だが、易々とそれを表に出せるほど緋禾は素直ではなかったし見知らずの、しかも気に食わない男にそういう顔を曝け出すなど真っ平だった。

よって、結果。うっすらと瞳に光る物を浮かべて、緋禾は再度男を睨みつけると徐に夜着の裾を持ち上げ――


「―――った!」


裸足の足を振りかぶり、男の膝辺りを思いっきり蹴りあげた。予想の斜め上をいく子どもっぽい反撃に男は思わず声を上げ、その場に膝をついた。驚いたのは馬の方で、鼻を鳴らして一歩二歩と後ずさりする。この機を逃すかと緋禾は裾を持ち上げた格好のまま、一目散に来た道を引き返し始めた。


「…おい!」


背後で男が叫んだが、まさか足を止めるわけにもいかない。自慢の足の速さを披露するように、緋禾は小道を駆け丘を登り王宮へと逃げるように帰っていった。出てきた木戸を潜り抜け、来た時の倍の速さで走り抜ける。そんな行動も子どもっぽいとは分かっている。けれど、これが自分なのだと痛感して悔しさで涙が出た。胸の中の澱みをどうする事も出来ずに、緋禾は不思議と迷うことなく居室への帰途を辿ったのであった。



***



「…なんというはねっ返りだ、あの娘は」


膝を思いっきり蹴られて苦悶の表情を浮かべていた男は、数分苦しんだ後ようやく息をついて再び立ち上がった。主人の顔が目に入ると、黒毛の馬は甘えるように鼻面を男の首筋辺りに押しつける。温かい首筋をぽんぽんと叩いてやると、安心したのか再び草を食み始めた。

一騒動があった春日野は再び静寂を取り戻し、虫の音が優しく辺りを包み込んでいる。緋禾の舞で溢れた野の光は、緋禾が去ったことで既に失われつつあった。


「随分と行動的なお妃ですね、あの方は」

「――さきか」


背後にゆるりと近寄った側近を、男は後ろ目にちらりと見やった。気配もなく近づいたこの側近は、彼が今一番に信を置いている人物だ。影に日向に主人に従い、確実に指示されたことをやってのける。非常に優秀な人材だった。岬が横に並ぶのを待って、男は再び馬に跨った。岬は徒だ。


馬をゆっくりと歩かせながら、男は少女が去っていった方向を見やる。そして大仰に溜息をついた。


「行動的というより、まだ我儘を言いたいだけの子どもだ。神気だけはあり溢れているから、あのまま神の御原で舞い続けていれば、確実に『アレ』に憑かれていた」


「アレ」と言って視線を巡らせた先、小川の向こうに光るものがある。薄ぼんやりとしたそれは、やがて真白い狐の姿をとった。緋禾が春日野に現れてから、ずっとその後ろを付いてきていたモノだ。彼女が気付いているか否かは分からないが、確実にあの白狐――宮中を騒がすモノを引きつけてしまっている。宮中で、皇族縁者を食い殺すという妖に。


そして、それは常に男の視界にもちらついている。つまり、彼が日常的に目にする者たちに憑いていると言っていい。殊更、一月ほど前にここへ来た少女・穂の三の姫、緋禾には人並み外れた神気がある。それに惹かれて妖が彼女の目の前に現れることは予想できていた。男は眉をひそめて手綱を握る手に力を入れた。そして意図的に白狐から視線を外すと、もと来た道を戻り始める。


あの、少女――緋禾。顔は一端の女のように美しいのに、正確はとんだお転婆だ。勝気な瞳はまっすぐに彼を見つめ、乙女にはあるまじき行為も躊躇いなくやってみせる。


「扱いづらい…」


それが、彼女に対する第一印象。その言葉を聞いて、横に着いていた岬はふと首を巡らせてこちらを見上げた。そして、皮肉気に漏らす。


「その扱いづらい姫君を妻にしたのはあなた様ですよ――御和みお様」


馬上の男――豊葦原の中心国・中つ国の大王にして絶大の権力を握る人物は眉間に深く皺を刻んで低く呻った。


(さて、どうしたものか…)


穂の国の末姫を妃にと求めたのは、御和自身だ。それは彼女の持つ特別な力を求めたということだった。特別な感情があって、召したのではない。けれど、あんなに跳ねっ返りの少女がやってくるとは思わなかったのである。

そして緋禾も、これが自分の夫との初体面とはまさか思ってもみなかった。



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