第五話 文字を覚えよう②
「――といっても、あんたは日本語を自然に話せているみたいだから、あたしが教えることはそれほど多くないわよ」
早速、僕の後を付いてくるような形で部屋に入ってきた真耶さんは、幾つかの分厚い紙束を手にしていた。
椅子に腰かけた僕の前、机の上にバサリと音を立てて放る。
「まずはこれね。片っ端からこなしていって頂戴」
ほら、と真耶さんは掌で複数の紙束を指す。
彼女の言動に従ってパラパラとページをめくって見てみれば、そこには見本となる変な図と何かを書くスペースのようなものがズラリと並んでいた。
しかし、これが僕には変な図としか思えず、そもそもページをめくる向きすら分からなかったので、紙束を縦に持ったり横にしたりして眺めていると。
「……これはこうするのよ」
急に真耶さんがこちらに顔を覗き込ませてきて、僕の手中の紙束を取り上げた。二、三枚ページを横にめくり、もとから書かれていた図を枠の中にそのまま再現してみせた。
「ちなみに、今あたしが書いたのは『き』っていう平仮名よ」
「き……? それに平仮名……?」
書き方は分かったものの、ここでまた新しい単語が出てきた。
真耶さんはハッとなって頭を抱えている。
「しまった……! 文字の練習の前に、あんたはまずそこからだったわね……!」
自分よりも遥かに知能が低い人間を相手にしているというのに、真耶さんに失望した様子はなかった。失望しているというより、「知らないのが当たり前」みたいな感じで僕に接してくれている。
「あたしの国、日本ではまず『平仮名』っていう簡単な文字から習うの。その次に『カタカナ』っていう、平仮名を少し別な風に捉えた文字を習うのね。そうして最後に『漢字』……平仮名をマスターしたことを前提とした文字を習う。
だから、日本の文字を問題なく使いこなすためには平仮名が必要不可欠な存在ってわけ」
「平仮名? というものはこの国では基礎中の基礎なわけですか」
「えぇ。はっきり言って、平仮名が覚えられないようじゃ話にならないわ。この国の識字率は割と高い方よ。今の時代、どんな仕事にも文字は関わってくるわ。
だから、あんたがこの国で生きていきたいなら文字は必要ってわけ」
早口とはいかないまでも、長々と文字の重要性を語る真耶さん。
要するに、「社会のはみ出し者になりたくなければ文字を覚え、書けるようになった方が良い」ということだ。
「ありがとうございます、わざわざ説明していただいて」
そう言って視線を合わせてみると、真耶さんはなぜか顔を赤らめてそっぽを向く。
「べ、別に……あんたのためじゃないから。あんたがこのまま社会に出たら姉さんやあたしの価値が下がると思っただけよ」
しかし、それでも僕のことを思って練習に付き合ってくれているのには変わりない。
真耶さんの言葉は辛辣だが、なんだかんだ言っても最終的には助けてくれる。
「……やっぱり、真耶さんって真昼さんの妹なんですね」
「はぁ? 何いきなり分かりきったようなこと言ってるのよ。あたしが姉さんの妹じゃないとでも思ってたの?」
真耶さんは訳が分からないといった風に顔をしかめるが、
「妹だってことを疑っていたわけではないです。
ただ、真耶さんも真昼さんに似て優しい人なんだなぁって思っただけで……」
僕の言葉を聞くなり、耳まで真っ赤になって狼狽え始めた。
「や、優しいって……! あ、あんたふざけてるのっ!?」
困惑しているからか、真耶さんは僕の両肩を掴んで僕を揺らしまくっている。
「そ、そんなこと言って……! こ、殺されたいのかしらっ!? そうよね殺されたいのよね! じゃなきゃこんなこと言わないわよね!?」
「お、落ち着いてくださいよ!」
「落ち着けるわけないでしょ優しいとか真面目に言われたら!」
真耶さんはそれからも「馬鹿」だとか「鈍感」だとか僕を罵った。しかし、またも一階から真昼さんの心配するような声が聞こえてくると、慌てて部屋から出ていった。
しばらくもせず、真耶さんは部屋に戻ってきた。
「――……気を取り直して、勉強再開するわよ」
気持ちの整理がついたのか、真耶さんはいつもの調子に戻っていた。
僕も、気を取り直してペンを片手に机に向かう。
所々分からないところは傍らに佇む真耶さんに尋ね、一、二時間ほどかけて平仮名を覚えた。
「真耶、ルアン君、少し休憩でも挟みませんか? お菓子とお茶、持ってきましたよ」
次はカタカナだというタイミングで真昼さんがお盆を手に部屋を訪ねてきた。
すると、真耶さんは僅かに嫌そうな顔をした。多分、僕と真昼さんとの会話が成立してしまうからだろう。
「……ありがと、姉さん。悪いけど、机の端に置いておいてくれる?」
真昼さんはその言葉に従い、僕の側まで近寄ってくる。
その際平仮名の練習書きが目に入ったのか、どこか嬉しそうに真耶さんへ視線を向けた。
「真耶、ルアン君に文字教えてくれているんですね……!」
そうして口元を抑えて微笑むものだから、僕は反射的に視線を彼女に固定してしまう。真昼さんが真耶さんに笑顔を見せることが珍しいように思えたから。
それもそのはず。僕が彼女に会ってから、彼女が真耶さんに笑いかけているところを見たことがなかったのだ。
しかし、背後からの視線をやけに感じる。
「ね、姉さんには関係ないでしょ! これはあたしとこいつの契約だもの!」
そんな声が聞こえたかと思えば、僕の腰は椅子から上がっていた。
肩や背中に当たっている柔らかな何かから、真耶さんが僕を無理矢理立ち上がらせ、そして引き寄せたのだと理解する。
一瞬だけ真耶さんに視線がいき、彼女の怒りが見えると僕の身体が硬くなって動かなくなった。
「――……なら」
真昼さんが少しの沈黙の後に言葉を紡いだ。
表情は見えないものの、その声音から何を感じているかは想像がついた。
「どうして焦っているんですか?」
それは幼子を諭すような、優しい音色だった。
これには真耶さんも息を吞んで真昼さんから視線を逸らす。
「っ…………そ、それは」
真耶さんは、唇を引き結んで言葉を探している。
多分、今この場で秘密を明かそうと思っているのだろう。瞳が右に左に揺れ動いては、思い違いだとでもいうように首を横に振っている。
僕の肩に置いた手に力が込められていることからも、彼女がそうしようとしていることは伝わってくる。
……でも。
「あ、たしは…………」
何十分にも感じられる空白の時間を経て、真耶さんは喉から絞り出すようにして声を出した。
「姉さんの、こと…………が――」
「――真昼さん」
僕は、真耶さんの言葉を遮った。
もう身体の硬直は解けている。
だから真昼さんが驚いて目を丸くしているのにも気づいた。
「真耶さんの教え方、丁寧で分かりやすいんですよ」
構わずそう続けると、真昼さんは少しの間逡巡し、僕の言葉に笑顔で頷き返した。
「やっぱりルアン君もそう思いますか! 真耶ってば教え方昔から上手いんですよ!
私も暇な時には勉強を教えてもらいたいくらいです!」
ふふふ、と微笑むと、真昼さんは空になったお盆を片腕で胸に抱きかかえるようにして部屋を出ていった。
静寂の中に扉の閉まる音が響くと、肩に置かれていた手が退かされ、僕は真耶さんの拘束から抜け出すことができた。
「――…………どうして、邪魔したのよ」
真耶さんは肩を震わせて俯いている。
ただの疑問なのか、怒りなのか。僕には分からないものの、言葉を遮ったこと自体が彼女にとっての迷惑行為であることには変わりない。
だから、僕は深意を告げる。
「無理して言う必要なんてないんじゃないかと思っただけですよ」
あの時、真耶さんは苦しんでいたように僕には感じられた。無理矢理嫌なことをしているような、苦しみを我慢してまでも告白しようとしているように見えた。
もしあのまま真耶さんが告白していれば、きっと真耶さんは激しい自己嫌悪に陥っていただろうと思う。それでは真昼さんに頼まれたことを果たせないし、真耶さんとの間の堀が一層深くなってしまう。
だったら、僕は助け船をだす。
この場合だと、彼女の言葉を遮ることが差し伸べる手に他ならなかったのだ。
「無理は身体に毒です。
今無理して言わなくても、気持ちが整った段階で、必要だと思った時に告白すれば良いんですよ」
真耶さんが驚いたように顔を上げた。
目元が少し赤くなっているように思えるのは、多分涙を流していたからだろう。
「…………あんたって、本当にお人好しね」
少し乱暴に手の甲で目元を拭っていたかと思えば、真耶さんは不敵な笑みを浮かべていた。
「確かに、あんたの言う通りね。あのまま恥を晒さなくて良かったわ」
しかし相当緊張していたのか、額から頬にかけて汗が滴り落ちている。
「だから、その…………あ、ありがと」
それでも、真耶さんは少し恥ずかしそうに感謝の言葉を口にした。
……これは正直、予想していなかった。
いつも強気な真耶さんが、暴言しか出て来ない真耶さんが、素直に塩らしくなって感謝の気持ちを述べている。
「――は、はいもう終わり! ってか、いい加減驚いてないで勉強の続きしなさいよっ!」
ポカンと口を半開きにして驚いていると、真耶さんは僕の顔面に思い切り紅葉を作って爆速で部屋から出ていってしまった。
もちろん僕は、驚いたままで勉強を続けることはしばらくの間できなかった。
ようやく始める気になれたのは、その日の夕食後だったりする。
毎日投稿になりそうな予感がしますので、こまめにチェックしてみてもらえると有難いです。
少しでも気になったという方は、評価してくれるとありがたいです。