2-069-7 水が合えば新しい環境もすぐに受け入れられるようで⑦
わたしたちは、「恐怖の壁」を越えさせられてシエナ村の中に入りました。
落ち着いてから、もう一度シエナ村の入口を見つめれば、先程の壁ほどの異様さはありませんが、こんな山奥の村には似つかわしくない、大きな城壁のようなものが見えました。
村ですから村壁とでも言いましょうか。
村壁は谷を塞ぐような形で造られており、要塞の入口とも言えるような何者もの侵入を妨げる佇まいでした。
大きな異様さの前には霞んでしまいそうですが、それでも、この村が異様なことはそれだけでも分かりました。
陛下も恐ろしいと口に出されていましたし、レバンテ様は目を回されてしまいました。
その恐ろしさがあの方には伝わっていないようでしたが、わたしには陛下のご意見に同意しかありませんでした。
東西は急峻な山脈、南北にある村の入口は何人も通さない村壁が立ちはだかる。
どんな戦好きで勇猛な武人でも、どんな知略に富んだ策略家でも、逃げ出したくなる村がそこにはありました。
もう一度この国が南北に分かれるなら、攻めるのを諦めさせるに足る要塞になるでしょう。
だというのに、中に入ってみれば、忙しなさも騒がしさもない、のんびりとした田舎丸出しで、温泉に浸かれば悩みもお湯に溶けていくほど寛げる。
わたしの知っている現実から隔絶された世界。
それはもはやこの世ではなく、楽園なのではないでしょうか?
いえ、あの方はまだこの村を発展させたいようですから、楽園には足りないものがあるのでしょう。
でしたら、まだ楽園でないだけで、いずれ楽園になる場所なのでしょう。
わたしがそんな場所に住めるとは……
ありがたい話です。
村の偉容に圧倒されている間に、温泉へと到着しました。
そして、ツェツィさんに案内されて入った温泉は、格別でした。
まさに、楽園と呼んで差し支えないと感じました。
楽園とはきっと恐怖を越えた先にあるのです。
のんびりと温泉に浸かり、シエナ湖を眺めていました。
そこには、最近の忙しさなど忘れ去られ、穏やかな時間が流れていました。
ガラキなどは温泉にぷかりと浮かび、寝てしまっているのではないかと思うほど静かでした。
ときどき「ゴクラクジャ」と言ってるのが聞こえるので、寝てはいないようです。
ガラキは少し前まで、薄汚い灰色で見窄らしい体毛で、それを隠すようにフード付きのコートを良く使っていて、こんな風に身体を晒すことはなかったですが。
今は、その艶やかな銀毛誇るように晒しています。
その銀毛が温泉に濡れ、艶やかに光を反射しています。
少々羨ましくもある変わりようです。
塗装が剥げてしまったわたしとは、対照的ですね。
ところで、『ゴクラクジャ』とはどういう意味でしょう?
後でガラキに聞いてみましょう。
少し離れたところで、案内して下さったツェツィさんも寛いでいます。
そうです、折角の機会なのですから、あの方の侍女であるツェツィさんに、あの方のことを聞くというのはどうでしょう?
何ができて何ができないのか?
それが分かればわたしがこの村ですべき事も見えてくるでしょう。
もっとも、あの方のできないことなんて、全く想像がつかないですが。
わたしが思い付いて、ツェツィに話し掛けようと思った時、近くで大きな水音がしました。
その音は段々こちらに近付いてきます。
何か危険なものが近付いてきているのでしょうか?
ここには「恐怖の壁」のような得体の知れないものが、他にもあるかも知れません。
下手なことはできませんので、ツェツィさんの反応を伺いましょう。
ツェツィさんは水音が近付いてくる方を見ているだけで、別に動く気配はないようです。
それならば危険はないのでしょう。
と思っていたら、お湯の中から突如現れた何者かに、盛大にお湯を掛けられてしまいました。
頭からびしょ濡れです。
さすがにビックリしました。
それでもわたしはまだマシな方で、ぷかぷか浮かんでいたガラキは、お湯に沈んでしまってもっと驚いています。
お湯を飲んでしまったらしく、激しく咳き込んでいます。
とりあえず、ガラキに大丈夫か?と問いかけてから、異種族は頑丈なので大丈夫だろうと確信しつつ、後ろを振り返ってツェツィさんを見たところ、頭も顔も一切濡れていませんでした。
どうやって避けたのでしょうか……
「キシラ、てめぇー! 待ちやがれ!」
どこかからシシイさんの声が聞こえてきます。
何者かに同じようにお湯を掛けられたのでしょう。
水音が戻ってきて、一緒にシシイさんの声も近付いてきます。
そして、ザバァっという音とともに、そのキシラと呼ばれた何者かが顔を出しました。
少女でした。
可愛らしい少女でした。
見た目はシシイさんとそんなに変わらないように思います。
見た目通りの年齢であれば、子供のような行動をしてもおかしくはないですが、子供でもそんな行動をしたら窘められるのは間違いありません。
「スヴェトラーナケ! 久しぶりケ!! ということは、ボーグがいるのケ?! どこケ??」
「キシラさん、久しぶりです。ボグダンさんなら特別室にいますよ」
「ありがとうケ!!」
会話が終わった途端、今まで以上に大きな水音がしました。
大量の水が辺りに撒き散らされたと思ったら、その少女は空を飛んでいました。
「人魚……」
美しい衣装を纏った人魚が空を泳ぎ、上の方に見える屋敷へと登っていきました。
この温泉には人魚が住んでいるのですか……しかも人と普通に接して会話をしている。
どうりで、あの方は人魚に対して偏見がなかったのですね。
そして、人魚に似合うあの美しい衣装も、あの方の作り出したものでしょう。
そういえば、第三王子に扮していたクタレも、美しい顔立ちになっていました。
ガラキの毛もそうですが、人でも異種族でも美しく整える……それがあの方の仰っていた美容整形ですか。
いえ、それだけで無いようにも思います。
祝宴の最後に『花火』を見る席も、この国に合ったように美しく整えられました。
どこかに保管していたものを取り出したのか、それともその場で作り出したのかは分かりませんが、いずれにしても貴族や王族で争いが起こることなく、キレイに纏められました。
お渡しした武具を片付けた際も、どう考えても入らないような小さな箱に、キレイに片付けられました。
次は何を整えてくれるのでしょうね。