2-069-6 水が合えば新しい環境もすぐに受け入れられるようで⑥
わたしはただ武具を届けに参上しただけだったのです。
いえ、もう一つ、陛下からの要望を伝えるという役目もありましたが。
ですがそれは、そもそも届けることとなった理由であり、主たる目的は武具をあの方にお渡しすることだけだったのです。
だというのに、なぜわたしは今、温泉に浸かっているのでしょうか……
ここの温泉は大変心地よく、全てが些末ごとのように思えてきますが、王都での整理が付けばわたしはここに住むのですから、もう少しよく考えておくべきでしょう。
考えを放棄しバカになってしまっては、あの方のお役には立てませんから。
陛下の使者が、ヤミツロ領を回避するルートであの方がシエナ村に帰られる、と連絡を受けたのは昼前だったと思います。
いえ、もう少し前だったかもしれませんが、今日は色々なことが起こりすぎて、まるで昨日のことのように遠い記憶に思えます。
ですが、寝た覚えがありませんので、今日だったことは確かです。
時間も忘れてわたしが徹夜をしていたなら分かりませんが。
あの方に関わると、オリハルコンのように硬い現実が、人が作ったギヤマンのように脆く崩れ落ちてしまいますから、わたしの記憶が多少歪むこともあるかもしれません。
しかしながら、現実が多少歪もうが、わたしのやることは変わりません。
ヤミツロで余計な詮索を回避するため、魔法武具を持って帰って頂くのが得策と陛下もお考えなのでしょう。
わたしはすぐに準備して、整理の手伝いをしてくれているガラキと共に、レバンテ様のお屋敷に運びました。
異種族であるガラキは力持ちなので、運ぶのに大変楽させてもらいました。
あまりにスムーズに事が運ぶので、この調子であれば問題なく武具の引き渡しも終わると思いなどしたものです。
その予想は当たっていました。
大量の武具を渡すわけですから、馬車で引いて帰るなら、もう一頭馬を追加しないと運べない可能性もあったわけです。
その問題すら関係ない手段だったため、引き渡しも運搬手段も全て問題なかったわけで、その部分の予想は当たっていたと言えるわけです。
ただ、陛下自らご見学に来られるとは思いませんでしたし、まさか日も沈まないうちにシエナ村に着くとは思っていませんでしたし、シエナ村がこんな村だとは思いもよりませんでした。
陸に船があると言うだけで驚くことですのに、その美しさはこの世のものとは思えぬほど完成されたものでした。
それが魔法によって一瞬で創り出されたなど、誰が信じましょうか。
その上、空を飛ぶ船など、我々の常識というのはギヤマンでもなく薄氷でしかなかったと思わされます。
わたしは教会の信徒ではありませんので、教会の教えも信じていませんし、商人ですのでこの国の自然信仰もあまり信じてはいませんでしたが、何かしら超常的な存在は確かにいることを実感させられてしまいました。
教会の教えはあまり知りませんが、あの方を悪魔と断じる教えなら、現実に則していないため恐らく信じるに値しない教えなのでしょう。
そして、あの方を自然と言うにはあまりにも不自然ですので、自然信仰もあの方は除外すべきでしょう。
いえ、あの方が自然の力を行使されているのであれば、自然信仰に付随するのやもしれませんが。
それを判断できるほど観察できていません。
もしかすると、新たな信仰が必要なのかもしれません。
信仰とは何かを信じるところから始まります。
わたしは商人でしたから、現実的な金勘定と貴族の欲を信じて商売をしてきました。
実際的に、それによって財を成し、楽しく暮らすことが出来ていたので、少し前までは間違っていませんでした。
ですが、それもあっさりと崩れ去り、信じられないものとなってしまいました。
貴族の欲に裏切られたとも言えます。
わたしは何を信じれば良いのでしょうか?
わたしの商売が闇に閉ざされると同時に、救いがありました。
であれば、今信じるものはその救いなのでしょう。
その救いこそが新しい信仰となるのでしょう。
それにより、健やかに暮らせるのであれば、正しく信仰と致しましょう。
その為に、わたしは村へも着いていったのです。
いえ、これは後付けです。
その時は単純に、空飛ぶ船に興味があっただけです。
その結果、信仰がどうとか思ってしまうほどの現実に向き合わされてしまっただけです。
薄氷の下には深淵があったのでしょう。
決して昏くはない深淵でしたが。
実際に船が飛ぶところを体験し、恐ろしい速度でシエナ村へ向かったとき。
まず最初に非現実という壁にぶち当たったのです。
そう、本当に壁です。
雪を被った山へ近付くにつれ見えてきたのは、異様なまでに高い壁でした。
そのくせ、表面には継ぎ目ひとつない、金属とも石材ともとれない不思議な壁でした。
そして、船を操縦されているあの方は、近付いてきた壁を見て速度を落とされたものの、馬車よりも遥かに早い速度で、そのまま壁に向かっていったのです。
あの方にはまるでこの壁が見えていないかのようで……恐怖で背中がゾワゾワしました。
静止する間もない速度でしたから、あっと言う間に船は壁にぶつかり、壁を通り抜けてしまいました。
早まった鼓動も抑えられないまま、振り返ってみれば、そこには壁なんてありませんでした。
山と木々、谷と川が視界のほとんどを占め、シエナ村の入口が眼科に小さく見えるだけでした。
実体のないゴーストに会ったような、魔界の入口にでも迷い込んでしまったような、恐ろしい感覚が暫く残りました。