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白色灯  作者: gojo
第二部
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第二部(3)


 仕事を辞めよう。沢村と公園で話をしてから睦子は幾日にも亘ってそう考えていた。

 自分がいなくとも会社は成り立つことが分かったというのもあるが、それよりも、そこに求めるものは何もないと感じたからだ。あそこには、沢村のような分かり易い目標を持った人が似つかわしい。

 また、既に一ヶ月半も出社をしていないため、こんな中途半端な状態で時間を浪費するよりも、立場をはっきりさせたほうが、会社にとっても自分にとっても良いと思えたのだ。

 けれど、個人の裁量だけではどうにもならないことがあった。どのようにして生活するか。今更ではあるが、淳一に面倒を看て欲しいと宣言するのは抵抗があった。


「また怖い顔をしているよ」


 ベッドで本を読む淳一に、そっと声を掛ける。


「ああ、すまない」


 そう言って彼は柔らかく笑う。


 これほど優しい彼ならば、どんな要求も受け入れてくれるだろう。否、確実に受け入れてくれる。かと言って、積極的にその好意に甘えるのは干渉が過ぎる気がした。

 そして何より、改まって申し入れをするには完全にタイミングを逸していた。


「好き」


 伝えられない言葉の代わりに、そう囁く。


「僕もだよ」


 当たり前のように美しい笑顔はそう返してくる。


 いっそのこと彼のほうから一緒に暮らそうと提案をしてくれれば良いのだが、そんなドラマの登場人物のようなことを彼は言うはずがない。もう好い歳だ。甘い願望を抱くよりも現実的な計画を練るほうが賢明だろう。

 順当に考えれば、居候の身分である睦子自身が何かしらのアクションを取るべきだ。しかし結局は、切っ掛けさえあれば、と甘えた願望にすがることしか出来なかった。


 ところが、図らずも唐突に転機が訪れた。

 二月の上旬、仕事から帰ったばかりの淳一が、座りもせずにこう言ったのだ。


「引っ越そうと思うんだ」


 このマンションは賃貸ではなく、気安く引き払えるものではない。当然ながら何らかの事情があるものと思い、睦子は淳一を見上げ、「どうして?」と尋ねた。

 彼は、澄ました顔で素気なく答えた。


「春から勤務地が変わるんだ」

「会社を移転させるってこと?」

「移転というか、大手広告代理店の傘下に入ることになった」

「子会社?」

「いや、一部署として吸収される」


 吸収、という言葉がポジティブなものなのかネガティブなものなのか判断できず、曖昧に頷くことしか出来ない。

 そんな心情を察してか、淳一が話を続ける。


「うちは小さなコンサル会社だけれど、特定分野への強みや横の繋がりを評価されて、現体制そのままに吸収されるんだ。一部署とは言っても、母体の大きさが今までとは比べものにならないから、仕事も増えるし、収入も上がるよ。未来は安泰だ」


 柔らかな笑顔。睦子はそれを見て安堵し、微笑みを返した。


「そうなんだ。良かったね」

「それでね、勤務地が郊外になるんだ。長く勤めることを考慮して、この部屋は売ってしまおうと思う」


 もちろんそうなればここでの生活は終わる。

 睦子としては、淳一の仕事のことよりも自身の身の振り方のほうが関心事だった。だが、彼の口から自分の名前は出てこない。


「わたし、どうしたら良い?」

「好きにしたら良い」


 淳一は束縛と捉えられかねない台詞は口にしない。分かっていたことだ。

 睦子は大きく息を吸い、意を決して想いを伝えた。


「わたしは淳一とずっと一緒にいたい。連れていって」

「分かった。そうするよ」


 その事務的な言い方に物足りなさを感じる。まだだ。まだ伝わり切っていない。

 追い打ちを掛けるように、彼の目を見つめながら訴える。


「愛してる」


 淳一は、悟ったような面持ちで、頷いた。


「うん」

「淳一は?」

「一緒にいたいという感情を愛と呼ぶのなら、愛しているのだろうね」


 そして、彼は綺麗に笑った。


「ねえ、結婚して」

「断る理由はない」


 淳一が手を差し伸べる。睦子はその手を取って彼の向かいに立った。すると彼はティッシュを一枚引き抜き、それをこよりにして睦子の左手の薬指に結んだ。

 静かに尋ねる。


「これは?」


 彼がからかうように微笑む。


「婚約指輪だよ」

「契約だ」

「そうとも言う」


 二人を包んでいる真白い光は眩しく、とても清らかに思えた。

 まるで、舞台の照明のようだった。





「……え? そっちには帰らないよ……うん。平気だから」


 睦子は久しぶりに母に電話をし、退職したことを伝えた。ただし、最も報告したい用件はそのことではなく、婚約した、ということだ。

 会話をしながら本題を切り出すタイミングを計る。しかし、なかなか言い出すことが出来ない。そうしているうちに母から通話を終えたそうな気配が漂う。


「実はね」


 慌てて睦子はそう言った。母は続く言葉を待っているのか、黙っている。


「実は……」


 もう一度言い、次の言葉を考える。


 結局、結婚するとは言わなかった。ただ、知人の男性に居候させて貰っている、とだけ告げた。

 なぜそうしたのか理由は判然としない。淳一は誇りに思える相手のはずだ。二人の関係にやましいことはなく、誰に対して報告をしても構わない。ましてや実の親にならば伝えて当然。

 それなのに躊躇われた。予感と言えば良いのだろうか、何かが引っ掛かった。何か大切なことを失念しているような気さえした。そこで、まだ機は熟していないと自身に言い聞かせ、とりあえずは、知人男性、という言葉で濁した。

 引越しをする際にでも改めて電話をすれば良いだろう。


「……うん。だから心配しないで……また近いうちに連絡するよ。じゃあね」


 婚約をした日から一ヶ月が過ぎていた。

 寒さが穏やかになって時間の経過を感じはするものの、二人の生活に目立つ変化はなかった。


 淳一は四月から正式に新しい勤務地に行くらしく、引越しの日取りは三月の終わりということになっている。二度手間になるからと、睦子の自宅、正確には元自宅は、今現在も放置したままだ。その為、相変わらず淳一の家には睦子の私物が最低限のものしかなく、ただの居候という感覚は拭えない。

 とは言え、引越しまで一ヶ月を切っており、片付けやら何やら、やらなければならないことは幾つもあった。

 特に淳一に関しては、職場の移転もあって仕事が忙しく、帰りが遅くなることも多い。


「先に寝ていて良いよ」


 毎朝、淳一は言う。


「大丈夫。最近は体調も良いし、待っていたい」


 そう応じると、彼は呆れたように肩をすくめて綺麗な笑顔を見せる。


 眩しい。物理的な光の話ではなく、現在の二人の関係、そして約束されているであろう未来が輝いていた。


 夜になれば、彼は睦子の気が済むまで話に付き合ってくれた。


「……川谷部長だなんて、なんか変な響き」

「社内では最年少の部長なんだ。名誉ある響きだろ?」


 淳一の雰囲気には若手社長という呼び名のほうがしっくりくる。無名の小さな会社の代表よりも、大手企業の上級管理職のほうが社会的地位は高いのかも知れない。また、安定もしているだろう。それは分かっている。分かってはいるが、どうしても違和感を覚えてしまう。彼が組織の歯車として規範に則って生きる姿を想像できないのだ。ただそれは一過性のことだろう。じきに慣れる。じきに慣れて当たり前のことになる。


 結婚したら生涯専業主婦になるに違いない。

 年齢的なことを考えれば数年以内に子供を作るに違いない。

 郊外の分譲マンションで家族揃って暮らすのだ。

 眩しい。夢のようだ。輝いている。


「……ねえ、新しいマンションも照明をリフォームするの?」

「分からない」


 眩しい。輝いている。


 輝いているはずだ。




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