第二部(2)
事務所に連絡を入れると、社長は快く長期休暇を承諾してくれた。
社長は何も言ってこなかったが、電話口からは惨劇に巻き込まれたことを酷く同情しているような気配が感じられた。わざわざその気遣いを拒否する必要はない。結果的に遠出することを回避さえ出来ればそれで良い。
仕事始めの日から数日が経過した。しかし、未だ人混みを見ると、著しく体調が悪くなってしまう。淳一がそんな様子を見ては医者に行くことを勧めてきたが、面倒、と告げると、それ以降は何も言ってこなくなった。
睦子は専業主婦さながらに家事をこなし、毎日、淳一の帰りを待っていた。
そんな折、投げ出したままの携帯電話が鳴った。
ディスプレイには沢村の名前が表示されている。通話ボタンを押して話を聞いてみると、仕事で近くに来たので会えないか、とのことだった。その求めに応じ、睦子は近所の公園に向かうことにした。
外は、もう薄暗くなっていた。
「お久しぶりです。一ヶ月振りですねえ」
公園に着くと、沢村は相変わらずのだらしない笑顔を見せた。
「仕事は? もう終わったの?」
「はい。今日は直帰です。だから時間はいっぱいありますよ」
彼は威勢良くそう言うが、外は非常に寒い。お互い長居するのは厳しいだろう。どこか飲食店にでも入れば済むことだが、そういう訳にもいかず、睦子はとりあえず缶コーヒーを二つ購入してベンチを指した。
沢村は身を縮こませながらコーヒーを受け取ると、「いただきます」と、不必要に大きな声をあげた。
「で、何か用なの?」
ベンチに腰を掛けて早速尋ねる。彼は真向かいで立ったまま返事をした。
「だから、たまたま近くに来ただけですよ」
その言葉に疑問を抱く。
「近くって、どうしてここにいるって知っているの?」
「パソコンのほうにメールしたんですけど、一向に応答がなかったので、たぶん川谷さんの所で療養しているんだろうなあと思いました」
「良く分かったね」
「普通分かりますよ」
釈然とせずに黙り込むと、沢村は陽気な口調で質問をしてきた。
「元気ですか?」
「元気だったら出勤しているよ。事務所は? 仕事は平気?」
「心配しなくても大丈夫です。僕がいますんで」
沢村は親指で自身のことを示し、おどけるように笑った。
「そうだそうだ、沢村がいれば安心だ」
睦子は台詞を棒読みするかのようにそう言って、小さく微笑んだ。
それから互いの近況を報告し合うことになったが、睦子には語るべきことがほとんどなく、ほぼ沢村が一方的に喋り続けた。時に冗談を交え、くだけた調子で話が進行する。
ところが、次の仕事の話題になった途端、彼は真剣な面持ちになった。
「次の物件、社長から設計を一任されました」
「そう、なんだ」
意外な内容に睦子はたどたどしく応じた。ワンマン気質な社長が、沢村のような若手に設計を全面的に任せることは珍しかったのだ。
「やっと認めて貰えました。これで夢に一歩近付いたって感じですね」
「夢?」
「前にも言いましたよ? 近々一級免許を取って、いずれは独立します」
学がなく営業しか進むべき道のない睦子に対して、沢村は大学で建築を学んでおり、独立というのもあながち叶わぬ夢ではなかった。
「おめでとう」
自然と、そんな言葉が零れた。
「いやいや、気が早いですよ。ちょっと前進しただけです」
そうは言いながらも嬉しそうにしている彼を見て、睦子は鼻で笑い、背もたれに寄り掛かって視線を上に向けた。
その時、街灯の周りを舞う小さな影が見えた。
「あ、蝶だ……」
呟くと、沢村もそちらに視線を向けた。
「睦子さん、あれは蝶じゃなくて蛾ですよ」
「蛾? 蝶と何が違うの?」
「日中に明るい所で飛んでいるのが蝶です。夜に光を目指して飛ぶのが蛾です。ちなみに寒い時期には蛾しかいないですね」
説明を聞いて、睦子は冷たく言い放った。
「どちらにしても虫でしょ」
すると沢村は睦子に向き直り、呆れたように笑った。
「風情がないなあ。蝶と蛾では見た目が全然違いますよ」
「見た目ねえ……」
ふと思い立ち、真顔で沢村に尋ねる。
「ねえ、沢村。わたしはどんな人間に見える?」
「え?」
彼はあからさまに戸惑った顔をし、ややあってから相好を崩して問いに答えた。
「睦子さんは、自立した女性って感じですね。僕にとって頼りがいのある先輩です。だから、早く復帰してくださいね」
沢村は何も分かっていない。睦子は思った。
自立など縁遠い。淳一がいなければ自我を保つことさえ危ういのだ。やはり大半の人は盲目で、何も見えてはいない。
自分のことを理解できるのは淳一だけだ。同様に、淳一のことを理解できるのは自分だけ。
睦子は込み上げる笑いを隠すために俯いた。
「睦子さん?」
沢村が尋ねる。睦子は感情を殺して短く答えた。
「何でもない」
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はい。睦子さんと最後に会ったのは一月の下旬です。あのマンションの近くの公園で会いました。
年末に通り魔事件に遭遇して睦子さんは精神を病んでしまったって、職場の社長から聞いていたんです。それで、少しでも励ましたいなあと思って、仕事が早く終わった日にわざわざ会いに行きました。
出来れば一緒に食事でもしようと考えていたのですが、やっぱり本調子ではなかったみたいで、公園で少しだけ話をすることになりました。
顔を合わせてすぐの時は大分ぎこちない様子でしたけど、睦子さんは仕事が好きだったのでしょうね、事務所の話をしているうちに次第にいつも通りの明るさを取り戻して笑っていました。
それを見て、大丈夫そうだなって思いました。その時は。
でも、最後に意味深なことを聞いてきたんです。自分はどう見える?って。それを聞いて、川谷さんと上手くいっていないって察しました。
だって、そういうことを気にする時って、だいたい異性と上手くいっていない時ですよねえ? 可愛げがないかとか、意地悪く見えないかとか、自分自身に何かしらの非があるのではないかって不安になっていたと思うのですよ。
だからと言ってそのことを突っ込む訳にもいきませんでしたから、何となく当たり障りのない返答をしておきました。そうしたら、睦子さんはとても悲しげに俯いたんです。
あの時にもう少し話を聞いてあげていれば、ひょっとしたら。って、今更こんなことを言っても仕方がないですよね。
はい。川谷さんとは一度だけ会ったことがあります。
去年の十二月に車で家まで送って貰ったんです。とても話が上手で明るい雰囲気の人でした。睦子さんのようなちょっと毒のある感じの明るさではなくて、品の良い、純粋な明るさって言うんですかね、そんな感じの人でした。
それが、あんなことをするなんて。きっと、真面目な人だからこそ反動で極端な行為に走ってしまったのでしょうね。たぶん喧嘩でもして。
睦子さんって、頑固と言うか、自立心の強い人でしたから、結婚後も仕事を続けるかどうか、そういった類のことで揉めたのだと思います。
正直、川谷さんが社長をしているって知った時から、さすがに事件のことまでは予想できませんでしたけど、上手くいかない気はしていました。
そういえば、いつだったかな、睦子さんが変なことを言っていたんです。川谷さんは本当に社長だったんだ?って。
今になって考えてみると、その頃には既に揉めていたのかも知れませんね。社長夫人になるよう強要されていて、それに対して睦子さんは、本当に社長なのかと疑っていた。そう思いません?
え? 考え過ぎですか? でも、睦子さんのことを知っている人なら有り得る話だと共感してくれると思いますよ。睦子さんって、とても疑い深い性格でしたから。
仕事はそつなくこなすし、お客さんからの評判は良かったのですけど、職場内では少し神経質過ぎるって言われていました。僕は睦子さんのそういうところ嫌いではなかったのですが、特にうちの社長は苦手だったみたいで、睦子さんが急に休むことになった時も愚痴を零していました。
だから川谷さんにしても、睦子さんの頑固さや、疑い深さや、空気の読めないところに関して、不満が募っていたとしても不思議ではないですね。もちろん川谷さんのしたことは許されることではありませんけど。
あ、ちなみにこのインタビューについてなんですが、僕の名前は公にならないようにしてください。
もうすぐ僕は結婚をするのですけど、相手の家族に殺人事件の関係者と思われると、心象が悪いんで。