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白色灯  作者: gojo
第二部
7/11

第二部(1)


 年末からずっと睦子は淳一の家にいた。

 手に受けた傷は大事に至らず、包帯を巻く程度で済んだ。駅での事件当日も、病院に緊急搬送される被害者が多くいた中、睦子に関してはとりあえず駅救護室で応急処置をしただけだった。

 とは言え、惨劇を目の当たりにして少なからず精神的な疲労があり、休暇は貰うことにした。社長の提案によりそのまま正月休みに入り、現在に至る。


 現場にいた理由についてやましいことがあったため、淳一の世話になるつもりはなかった。しかし、自宅にいるのが嫌で転がり込まざるを得なかった。

 駅で治療を受けた際に並行して警察から事情聴取を受けたのだが、何も言葉が出ず、後日に話を伺わせて欲しいと言われた。冷静に考えてみれば警察に伝えなければならない話などない。だがその時は頭が働かず、言われるがまま自宅の連絡先を伝え、ついでに、何に必要なのか見当も付かないが、職業や生年月日も書類に明記した。

 事件のことは、誰にも、何も、聞かれたくはなかった。言えることなどない。言えたとしても自分の思っていることなど誰も理解できるはずがない。

 睦子にとって、いつ鳴るとも知れない電話に怯えるのは苦痛だった。そして、淳一の家にやって来た。


 年が明けてもテレビのニュースは駅での通り魔事件を頻繁に取り上げていた。

 犯行の動機は、死刑になるため、という至って独善的なものだった。コメンテータや評論家の解説によれば、非正規雇用職員として工場勤めをしていた二十代男は、生活苦から自殺を画策、件の凶行に走ったとのことだ。

 テレビに犯人の顔写真が映る。その顔は、評論家の意見を補完しようとしているかのように、目付きが悪く、陰のある感じだった。


 違う。睦子は思った。


 実際の犯人はこんな悪人然とした顔付きではなく、ごく普通の青年だった。そしてごく普通に、作業、をしていただけだ。

 あの時、犯人と目が合った時、見慣れた表情だと感じた。彼は冷たく微笑をたたえ、目的物を得ようと駆け寄ってきた。そう。あの表情は。

 睦子は吐き気を覚えた。


「ごめん、テレビ消して良い?」


 ベッドに座る淳一に声を掛ける。


「好きにしなよ」


 彼はいつものように短く返事をした。


 リモコンのボタンを押すと、プツリ、と小さな音が鳴って、以降、室内は静まり返った。

 夜十一時を過ぎている。淳一とはもう半月近く共に生活をしており、何となしに二人の間にはおおよそのタイムテーブルが出来上がっていた。今は休息の時間だ。この時間に彼は本を読んだりニュースを見たりする。

 元々お互い口数の多い質ではないので無言になることは珍しくないのだが、その時に限ってはテレビの音声が消えた途端、睦子は居た堪れない心持ちになった。


「ねえ……」

「ん?」

「何でもない」

「そうか」


 淳一は事件のことを何も聞いてこない。詮索を嫌う性分なのだから当然と言えば当然だし、それは有り難くもある。なぜ休日に現場にいたのか、そんなことを聞かれでもしたら返答のしようがないのだ。淳一の故郷を視察していたなどと言える訳がない。しかし。

 複雑な心境だった。

 何か言わなければならない。そう思い、言葉を振り絞る。


「通り魔事件の犯人は頭がおかしいと思う」


 すると淳一は不思議そうな顔をした。


「そうかい?」

「あんなこと普通の人には出来ない」

「まあ、そうだね」

「そうだよ」


 無意味なやり取りだ。睦子自身、本当はそんなことを考えていた訳ではない。

 会話が途切れると、再び静寂が訪れた。睦子は気を取り直し、明るい声色で淳一に話を振った。


「もうすぐ年始休みが終わるね」

「うん」

「仕事が始まったら、自宅に戻ろうと思う」

「分かった」


 二人にとって共に暮らすか否かはどちらでも良いことだった。一緒にいようと積極的な干渉はせず、基本的には時間の共有ではなく空間を共有しているだけだ。気持ちが昂ぶれば一方に要求を伝え、是か非か返答を仰ぐこともあるが、それは必ずしも同居していなければいけないという訳ではない。


「うん。自宅に戻る」


 自身の考えを確認するようにそう呟き、睦子は、ベッドの上に転がった。





 週明け、目を覚ますと隣に淳一の姿はなかった。彼も仕事始めだと言っていたので既に出勤したのだろう。

 短期間ではあるが同居をしていたというのに、特に挨拶を交わすこともなく、それは終わる。睦子は一抹の物足りなさを感じながら身体を起こした。


 出掛ける準備を終え、外に出て鍵を掛ける。当然、灯りは消していない。それから一階に下りてマンションを出る。

 するとそこは、眩しかった。

 目の前は大通りのため遮蔽物が少なく、日当たりが良い。常に真白な部屋にいたとはいえ、流石に照明器具よりも太陽光のほうが明るかったのだ。

 睦子は微かな目眩を覚え、日陰を求めて路地へと入った。そして、やや遠回りとなるが、そのまま裏道を通って駅まで行くことにした。


 今まであまり気にも留めていなかったのだが、改めて観察してみると、淳一の家の周りは高級住宅街だった。一般的な出勤時間ともなると歩いている人の姿はまばらだ。

 そうは言っても、駅が近くなるにつれ徐々に雑踏の音が聞こえてきた。と同時に、胸の辺りに違和感を覚え始めた。久しぶりに外を歩いたので息切れでもしたのだろうか。微かに思うが、復帰初日に遅刻をする訳にもいかない。

 睦子は躊躇わず、路地を抜けて駅前の大通りに出た。人混みが見える。

 瞬間、全身から汗が滲み出た。決して暑い訳ではない。それにもかかわらず地面に雫が落ちるほど身体は濡れそぼった。鼓動が早くなり、火花が散ったかのように視界が明滅する。呼吸が乱れ、手足から温度が失われ、脱力し、倒れそうになる。

 睦子は慌てて歩道の脇に寄り、そこにしゃがみ込んだ。自身の身に何が起きたのか理解できない。少しでも気持ちを落ち着かせようと、目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。ゆっくりと息を吐き、薄く目を開いて駅の方向を見る。


 人がいる。人がいる。人間がいる。人間が歩いている。


 その表情は無機質。狭いコミュニティの中においては愛想笑いをし、馴れ馴れしくすることを良しとしているのに無機質だ。大半の者が、いざ一人になってみれば何事に対しても無関心であり、確固たる意志など持ち合わせていないのだろう。

 それらは無為に規範に則って歩く、群れ。取るに足らない存在。目的と合理性を備えた一握りの捕食者に、操られ、殺され、喰われる、か弱き虫だ。


 あの日の情景がフラッシュバックする。銀色のナイフが踊り、人々が刻まれていく。惨劇だ。しかし、それは恐ろしくなかった。淡々と、悠々と、粛々と、独り善がりな目的のために当たり前のことのように行なわれた作業。

 それは、睦子にとっても当たり前に思えてしまった。なぜ、なぜ、なぜ。


 睦子は吐き気をもよおし、植え込みに向かって繰り返しえずいた。口の中に苦く酸っぱい胃酸の味が広がる。


 嘘。おぼろげには分かっていた。目の前で人が殺されても恐怖を抱けなかったのは当然だ。恐ろしかったのは、あの青年、ひいては自分自身なのだから。そんなはずはない。似ても似つかない。それでも、振り返る度そうとしか思えない。


 あの時、睦子は鏡を見たような気がした。

 なぜなら、あの青年の顔が、淳一の顔に見えたからだ。





 足を引きずるようにして、どうにか淳一の家まで戻った。白い光が目を刺激する。睦子は叩くように壁にあるコントロールパネルを操作した。灯りが消え、カーテン越しの日差しだけが仄かに部屋を染める。


 ベッドに転がると、幾らか身体は楽になった。しかし頭の中では様々な思いが渦を巻いていた。

 錯覚だ。馬鹿げた妄想だ。淳一とあの青年は全く似ていなかった。淳一の繊細に整った顔立ちに対し、青年はどちらかと言えば厳めしい骨格だった。駅での凶行にしても淳一があんなことをする訳がない。


 考えを巡らせていると、久しぶりに薄暗い空間に身を置いた所為か、意識が、深い穴に転がり落ちていった。

 まどろみの中、夢か妄想か判別できない映像が浮かぶ。

 顔のない人達が右へ左へ整列して歩いている。それは波のようでもあり、幕のようでもある。

 その向こう側に冷たい表情の淳一が立っている。淳一は大きな刃物を振り回し、幕を切り裂いていく。

 暗褐色の体液を流しながら人々は地面の上に仰向けに倒れ、手足をひくつかせる。

 やがて幕に隙間が出来、辺りが明るくなっていく。





 どれくらい時間が経ったのだろう、突然目の前が眩しくなった。睦子は驚いて身体を起こした。見ると、部屋の入口に淳一が立っていた。


「あ、おかえりなさい」


 間の抜けた調子で言うと、淳一は鞄を床に置き、近付いてきた。


「いたんだ?」

「あ、うん、ごめんなさい」

「久しぶりの仕事はどうだった?」


 そう言われ、我に返って携帯電話を手に取る。時間は夜八時。事務所から何度も着信が入っている。

 無断欠勤をしてしまった。明日、社長に事情を説明しなければならない。そんなことを思い、睦子は淳一に返事をした。


「仕事、休んじゃった」


 すると彼は探るような視線を寄越した。


「どうかした?」

「ちょっと、気分が優れなくて」


 その言葉を聞いた淳一は睦子の首筋に手を当てた。外から戻ってきたばかりだからだろう、彼の手は冷んやりとしている。


「熱はないみたいだね」

「うん。風邪じゃないと思う。ただ、目眩がして……」


 それから、心情は伏せ、端的に症状のみを伝えた。淳一は向かいの椅子に腰を掛け、少しく上体を前に屈ませて話を聞いてくれた。


 説明を終えると、彼は口を開いた。


「精神的なものだろうね」


 首肯のみで応じる。


「病院に行ったほうが良いんじゃないか?」

「そこまでしなくても」

「心療内科に行けば、鬱か、パニック障害か、PTSDか、専門家ではないから明確なことは言えないけれど、何かしらの診断書は書いて貰えるだろ。それを提出すれば保険組合から傷病手当が支給されるよ」


 淳一らしい言葉。彼なりの合理性に富んだ気遣いに違いない。


「心配してくれているの?」

「うん。少しだけね」


 彼は正直だ。少しだけ、という言葉がそれを良く表わしている。そこには回りくどい社交辞令など存在しない。淳一は睦子に真摯に接している。


 そう。彼は誰よりも優しい。


 詮索や干渉を嫌うのも、自己防衛という側面もあるが、相手に対する最大限の敬意とも取れる。思い込みで相手の心情を決め付けてはいけないという考えについてもそうだ。

 そんな彼が、独善的な欲求で人を傷付ける訳がない。


「何も食べていないだろ? どこか食事にでも行こうか」

「ごめん。人混みを見たくない」

「じゃあ何か作ろう」


 立ち上がろうとする淳一のことを睦子は止めた。そして彼の膝をまたぎ、その上に正面を向いて座った。


「その前に、わたしのことを良く見て」

「見ているよ」

「どう見える?」

「疲れているようだ」

「違う……」


 睦子は一瞬だけ天井を仰ぎ、照明が真白く輝いていることを確認した。


「違う?」

「うん。わたしがどういう人間に見えるのか教えて欲しい」

「君は綺麗な人だ」


 それも違う。人を傷付けられない人間、そう言って欲しかった。けれど、よくよく考えてみれば、そんな言葉をこの状況で得られるはずがない。

 睦子は諦め、笑顔を作って淳一に礼を述べた。


「ありがとう」


 彼は神妙な顔をした。


「やっぱり大分疲れているみたいだね。まあ、あれだけのことを目の当たりにしたのだから仕方ないか」


 睦子は、微かな、ずれ、を感じた。


「事件のこと自体は何とも思っていないよ」

「君らしい言葉だ。確率で考えれば、もうあんなことに巻き込まれることはない。君は論理的に物事を考えられるから、じきに恐怖も……」


 もうそれ以上、何も聞きたくなかった。睦子は淳一の頬を両手で包み込み、口を塞ぐように唇を重ねた。


 ゆっくりと顔を離し、彼のことを見つめる。その表情からは何も読み取れなかった。もちろん優しさを汲み取ることも。


「お願い、笑って」


 睦子は懇願した。

 淳一は視線を逸らし、少しく間を置いてから睦子のほうに向き直って、とても綺麗な、笑みを浮かべた。

 それを見て睦子は安心した。その表情を狂おしいほど愛しく思い、彼の頭を抱え、再び、唇に唇を押し当てた。




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