第一部(5)
何をもって詮索とするかは結局のところ個人の裁量に委ねられる。
相手のことを知りたい、それは詮索か。しかし、知りたいという欲求を咎めることも詮索ではないか。その発想は言い訳がましいかも知れないが、個人の行動や感情を束縛しないという考えに立脚すれば、問いに答えるか否かが自由なように問うことも自由なのだ。
そして何より、詮索や干渉を排除するのは手段でしかない。つまり、最終的な目的は、不快感、ひいては損害を与えないということに尽きる。
了承を得ずに知り得ることを知れば良い。これは観察だ。
睦子は淳一のことを深く理解したかった。否、正しくは自身のことを知りたかったのかも知れない。とにかく、彼のルーツを探りたかった。
一般的には本人に聞けば済むことだが、それは躊躇われる。その反動もあってか、睦子は思い切って彼の故郷を訪ねることにした。淳一から聞いた話の断片からおおよその場所は分かっている。下町、社宅を併設した紡績工場、ネットでそれらの情報を検索し、併せて航空写真を参照したところ、その場所はすぐに特定出来た。
そして次の休日、早速そこに向かった。
電車を乗り継ぎ、バスに乗る。目的とする社宅は隅田川沿いにあった。
下町と言えば昔ながらの古びた家屋が多いものと思い込んでいたが、実際にその土地に来てみると、至って普通の住宅街だった。マンションや団地が整然と並び、大きなスーパーマーケットもある。特段、睦子の暮らす街と異なる点はない。
ただし、淳一が暮らしていたであろう社宅は独特の風情があった。
彼の言っていた通り二階建ての住戸が長屋のように連なった棟が幾つも並んでおり、それはどことなく牧場の厩舎を思わせた。建材は今日日珍しい木造モルタルだろう、築年数も相まってか、どの棟もくすんだ黄土色をしている。
あわよくば彼の住んでいた部屋を確認したかったのだが、あいにく敷地は金網で囲まれており、ご丁寧に有刺鉄線まで巻かれている。おそらくは子供が登るのを防ぐためだと思うが、見た目はかなり物騒だ。何かから財宝でも守っているのか、あるいは敷地からの脱出を防いでいるのか、そんな妄想が湧く。
子供のいる世帯が多いのか、玄関先に小さな自転車を置いている部屋が目立つ。睦子は遠巻きに棟を眺めながら柵のぐるりを回った。
そして半周もすると、門に辿り着いた。そこには中学生と思われる子供達の集団がいた。何人かは自転車にまたがり、何人かは縁石に腰を掛け、談笑をしている。その内の一人は少女だった。染めているのか、赤茶けた髪色をしている。随分とませているな、そう思いながらその子のことを見つめていると、少年達が睦子の存在に気付いたらしく、話をやめ、釣り上がった細い目で睨んできた。
すぐに視線を逸らし、門の前を通り過ぎる。しかし、どうにも居心地の悪さは払拭できず、睦子は逃げるようにその場を離れた。
まだ日は高い。だが、帰ることにした。
本当は近隣の小学校と中学校も見物するつもりでいたのだが、酷く気疲れしていたし、既に淳一がなぜこの街から脱出したかったのか何となしに察せられたからだ。
睦子は閉塞感を覚えていた。真冬の午後で静かだったからか、淳一に薄暗い世界と言われて先入観があったからか、否、どちらも違う。これは確固たる予感だ。人情とは、強制的に他人と密着させられた環境下で生じる生存戦略なのだ。
ここは、閉じている。
橋の袂にあるバス停に行くため土手の階段を上ると、背の高い建物が少ない所為もあって遠くまで街を見下ろすことが出来た。
街は、天気が悪い訳でもないのに、灰色に澱んで見えた。
駅前に着くと、そこもまだ下町と呼ばれる地域ではあるが、住宅街とは違って明るく賑やかだった。その雰囲気に幾らか安心し、睦子は買い物でもしてから淳一の家に行こうと考えた。二階改札をくぐり、駅中の洋菓子店の並ぶ方面へ歩を進める。
その時、背後から複数の悲鳴が聞こえてきた。
振り向くと、人混みの向こう側、タイル張りの床の上に真赤な水溜りが出来ており、その中央で女が倒れていた。何が起きたのか理解できず、しばし呆然としていると、辺りの人々があちこちに逃げ惑い始めた。
人々の中心には、作業着姿のナイフを持った若い男が立っていた。
刃渡り三十センチはあるであろう両刃のナイフを振り回し、男は走り出した。
近くのスーツを着た男性の背中をナイフが掠める。男性は痛みを堪えながらも次の一撃を防ごうとしたのか、振り返って両腕を突き出した。ナイフの男は冷静にその腕をかわし、突き上げるように男性の胸にナイフを刺した。刃が根元まで埋まる。それを引き抜くと、スーツの男性はその場に崩れた。
ナイフの男は崩れた男性の生死は確認せず、すぐさま次の獲物を探した。
逃げ遅れた若い女がいる。ナイフの男は腕を振り上げ、その女の顔に向かって振り下ろした。銀色の切っ先が女の耳元から顎へと走る。同時に女の皮膚は捲れ上がり、乳白色の脂肪層が露出し、その下から鮮血がどっと溢れ出た。
睦子はその場から動けずにいた。動揺の所為もあったが、それよりも、その凶行から目が離せられなかったのだ。音が掻き消え、全てはスローモーションに見えた。引き裂かれる肉の繊維、飛び散る雫の形、それらをはっきりと認識できた気さえした。魅了されたのか、理由は分からない。いずれにしても一歩も動けなかった。
男は殺戮を続けていた。刺し、斬り、タイルが血に染まっていく。決して狂っている風でも悦に入る風でもなく、男は至って機械的に目的を遂行しているようだった。そして男は、徐々に睦子に近付いていた。
瞬間、男と目が合い、思わず声を漏らす。
「あ……」
男は冷たく微笑み、睦子に向かって走り出した。
逃げなければならない。それなのに身体が動かない。照明の光を反射してナイフが輝く。それは目の高さよりも上にあり、振り下ろされれば自分は死ぬ。
そこまで考えが至った時に、ようやく僅かに緊張が解けた。睦子は身体を反らし、顔を隠すように左手を広げた。切っ先が掌を掠める。
とりあえず一命は取り留めた。しかしそれも一瞬。すぐに刺されるに違いない。男は力を蓄えるように腕を引いている。
もう駄目だ。思った時、男の姿が視界から消えた。
見ると、男は駅警備員に突き飛ばされ、床の上に転がっていた。倒れた際に手放したのか、ナイフは握られていない。それを認めた複数の男性達が即座に男を取り押さえる。
男は抵抗する様子も見せず、澄ました顔をしていた。
助かったのだ。心の内でそう呟き、睦子は、幾分冷静さを取り戻した。すると、先程まで一切痛みを感じなかった左手の傷が、焼きゴテでも押し付けられたかのように、じわじわと熱くなり出した。
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なぜナイフを振り回したか?
本気でそんなことを聞いてるんですか? 人間を殺すために決まってるじゃないですか。両刃のナイフなんて殺傷以外に使い道なんてないでしょ。
そうです。大量に殺そうと思いました。大量に殺して死刑にして欲しかったんです。
悩みがあった訳ではないですよ。なんか世間だと俺が社会から虐げられてたみたいに言われてるらしいですけど、全然そんなことないですから。
確かに給料の少ない派遣社員でしたけど、特別そのことに対して不満はありませんでした。と言うより、そもそも俺、仕事なんてどうでも良いって思ってました。だから生活できる金さえあれば十分でしたし、正社員とか出世とか全く興味なかったですね。
じゃあなんでって言われても困ります。何となくとしか言えないですよ。
俺、家でゴロゴロして、漫画でも読んで、パソコンでも弄って、そんな風に時間を過ごすのが好きなんですよね。そういう無駄? なんかそんなのを維持するためだけに働いてた訳ですけど、思ったんですよ、無駄のために無駄を失うのっておかしくないかって。いや、違うな。働くことも無駄だって気付いたんです。
そうしたら死にたくなりました。
でも、自殺って怖いじゃないですか。そんなことする気力がなかったので、大量に殺して世間に殺して貰おうと考えました。
許されると思うか? だから殺してくれって言ってるじゃないですか。それ以上の罰を俺に与えることなんて出来るんですか?
結局ね、全て意味なんてないんです。それなのに世間は理由を求めて、俺のことを勝手に社会的弱者として裁こうとしている。馬鹿ばっかりだ。その真理に気付いた者だけに与えられる特権が殺人なんですよ。
選ばれた人間だけが、透明の檻の中にいる凡人達を自由にすることが出来る。俺は能力者みたいなものですね。
それであの日、駅の人混みの中でナイフを抜きました。見境なく目に付く人間に向かってナイフを振ったんです。十人くらい殺す予定だったんですけど、三人しか死ななかったらしいですね。それは意外でした、もっと何人も刺したはずなんですけどね。
え? もう一人死んだんですか?
他の男に殺された?
ああ、すいません、笑っちゃいました。俺に切られて、その後、他の男に殺されるなんて、よっぽどついてない人間ですね。
覚えてる訳ないじゃないですか。
さっきも言いましたけど、見境なく手近なところから刺していったんです。男か女か、どんな顔をしていたか、そんなの全く気にしませんでしたよ。わざわざ特定の人間を狙って駆け寄ったりなんてしないですって。
俺からしてみれば、全員等しくどうでも良い存在でしたから。
事件や事故がある度に、どうしてこの子が、とか言って泣く人がいますけど、もし死んだ人間のことを選ばれた犠牲者だと思ってるなら……
それって、自意識過剰ですよね。