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白色灯  作者: gojo
第一部
4/11

第一部(3)


「どうしてそんなに見つめるの?」

「全てを知りたいという欲求だよ」


 淳一は常に部屋の灯りを点けていた。夜間はもちろんのこと、日中も眠る時も外出の時も、そして、睦子を抱く時でさえも全ての灯りを点していた。


 あれから二ヶ月が過ぎた。


 ベッドの上に横たわった睦子の身体を淳一は冷静な面持ちで見下ろしていた。冷えた空気によって強張った肌を、なだめ、溶かすように愛撫しては、微細な反射を確認しているようだった。

 彼は灯りの中に晒された睦子の全てを念入りに観察し終えると、開かれたままの両脚の間に腰を深く沈めた。乱れた息遣いと湿った音だけが響く。睦子は皺が寄るほど強く目を閉じた。それでも視線を感じる。

 彼は、今この瞬間も、自分のことを見ている。

 やがて込み上げる熱に身を仰け反らせると、淳一は睦子の頭を押さえつけて囁いた。


「ちゃんと顔を見せて」


 視界には幾つもの照明が並んでおり、眩しい。

 睦子は酸欠にも似た軽い目眩を覚え、その真白な光の中に意識が吸い込まれるような錯覚に陥った。


 光の中、ある日のことが思い出される。


「この関係は契約だ」


 そう淳一が言ったのは交際を始めて間もなくのことだった。

 彼が仕事で良く利用するというレストランで二人は食事をした。各座席がパーテーションで仕切られたオフィスのような造りの店で、スーツを着た男性客が目に付く。とてもではないが恋人同士で利用する雰囲気ではない。

 そんな所で、淳一は流暢に話をした。


「……男女の交際も仕事上の付き合いと一緒で利益を出すことが目的だと思うんだ。利益と言っても金銭に関わるものだけではなく、例えば、サービス業における契約の場合、顧客は金を差し出すけれど、企業側は娯楽や快感、癒しや美貌といった形のない物を提供するだろう? それと同様に精神的なことも含む利益を互いに生む契約、それが恋人関係だと思うんだ」


 睦子は軽く頷き、ワインを一口飲んでから返事をした。


「その言い回しはともかく、言わんとしていることには概ね賛成するよ」

「君ならそう言ってくれると思ったよ。つまりね、損害はご免被りたい。僕達は運命共同体ではなく、あくまで個人と個人だ。其々の生活の中で時間的余裕があれば、共に、例えば癒しを、得られればそれで良いと思うんだ」


 睦子にとって淳一は初めて会うタイプの人だった。何事にも理屈っぽく、常に表情に乏しい。

 思えば、出会った頃の笑顔は全て作られたものだった。

 しかし一緒にいることは苦ではなく、むしろ居心地が良かった。淳一が言うところの恋人契約は睦子の求める付き合い方でもあったからだ。


 振り返ってみると、今まで交際した相手はいずれも煩わしかった。

 初めて異性と付き合ったのは、周りの知人達と比べると大分遅く、二十歳を過ぎてからだった。恋愛に興味はなかったのだが、当時、男性から告白を受けた際、歳相応の経験もしておいたほうが良いのではないかと思い立ち、交際を受け入れた。

 だが、すぐに後悔をした。その男は、否、それ以降の男達も全て、聞こえの良い言葉を並べ立てては個人の人格を否定し、一方的に気持ちを押し付ける傾向にあった。睦子は、これが恋人というものだ、苦楽を共にするものなのだ、と自身に言い聞かせることもあったが、結局は本心が露呈してしまい、男の側から、お前は冷たい、などと言われて捨てられてきた。

 それに比べて淳一は徹底して干渉や詮索をしてこなかった。個人を尊重している。其々別の道を往き、その道がたまたま交差した時には一緒に楽しもうというスタンスだ。

 ただ、その関係は赤の他人との付き合い方とどれほどの違いがあるのだろう。自分達は間違いなく恋人同士だという確信はあるが、その理由が分からなかった。契約という言葉でもって交際していることを確認し合ってはいるが、それは後付けの言い分だ。肉体関係にしても気持ちが伴わなければ単なる摩擦でしかない。もっと別の、双方にとって掛け替えのない存在に成り得た理由があるはずだ。


 薄いゴムを隔てて淳一が果てる。

 彼はティッシュで自分自身を手際良く拭き、蒲団に潜り込んだ。睦子も蒲団に入る。なぜ自分達は付き合っていると言えるのだろう。なぜ自分達は肌と肌を合わせて眠りに就こうとしているのだろう。いくら考えても答えは出ない。

 眩しい光を遮るように毛布を顔まで引き上げる。なぜこの部屋はこんなにも明るいのだろう。なぜ、なぜ、なぜ。しばらくの思考の後、睦子は一つの結論に至った。

 考えることはやめよう。そう。悩むことは損害だ。





 十一月の週末、睦子は仕事を終えると、淳一の家へ向かった。

 睦子の仕事はコンシューマ相手の窓口業務と外回りであり、概ね平日が休みだった。それに対して淳一は土日が休みのため、わざわざ取り決めた訳でもなく、いずれか一方が休みの時には彼の家で夜を共にすることが習慣となっていた。


 七時を過ぎた頃にマンションに辿り着き、早く暖を取ろうと、足早に最上階の廊下を歩く。すると、淳一の部屋から女が出てくるのが見えた。その女は険しい顔で睦子の横を通り過ぎ、甲高い靴音を鳴らして階段を下りていった。

 睦子は、誰もいなくなった階段の踊り場をしばし眺め、呆然とした。性別を問わず淳一が自分以外の人と一緒にいるところを見たことがなく、この様な状況を一切考えたことがなかったのだ。

 だからと言って嫉妬や怒りは湧かなかった。ただ、浮気ご法度という文言は契約に盛り込まれていただろうか、そんなことを思った。

 考えるのはやめよう。睦子は前へ向き直り、再び廊下を歩き始めた。


 鞄から合鍵を取り出して扉を開けると、キッチンから淳一が顔を出した。


「おかえり」


 悪びれる様子はない。


「ただいま」


 返事をし、それから端的に事実のみを伝える。


「そこで女の人とすれ違ったよ」


 淳一は全く表情を変えずに、すぐさま言葉を返してきた。


「仕事で付き合いのあった人だよ。買い物の最中に会ったんだ」


 落ち着いた口調の彼を見ながら睦子は次の言葉を探した。下手なことを尋ねてはいけない。浮気の有無よりも詮索の有無のほうが深刻だ。

 何も言わずにいると、淳一は料理をしながら横目で視線を寄越した。


「彼女に交際を申し込まれたんだ」

「それで?」


 短く、話を促すためだけの相槌を打つ。


「断ったよ。それなのに、しつこく僕の家に遊びに行きたいと繰り返すから、面倒になって、料理の邪魔をしないなら来ても良いって伝えたんだ」


 彼は冷たく笑い、更に話を続けた。


「ところがね、何を勘違いしたのか身体を摺り寄せてくるものだから、帰って貰ったよ」


 そこにいるのはいつもの淳一だった。


「そうなんだ」


 数回頷く。


「すまないね」

「え?」

「そういう訳で、まだ食事の準備が終わっていない」

「あ、ああ、そんなことなら気にしないよ」


 睦子は一瞬動揺した。女を連れ込んだことを淳一が謝罪したと思ったからだ。だが、その様なことで謝る訳がない。仮に他の女と関係があったとしても、彼はそのことを悪いとは思わないだろう。逆に睦子が浮気をしたとしても何も思わない。この人は、そういう人だ。そもそも、浮気、という概念自体が彼の中には存在すらしていないだろう。


 睦子は部屋の奥へと進み、スーツから部屋着に着替えようとした。しかし、少しく考え直し、上着を壁際に投げるだけにとどめた。

 間の悪さを埋めるように、「手伝うことはある?」と尋ねる。

 彼は振り向きもせず、「必要ない」と、短く返事をし、加えてこう言った。


「それはそうと」

「なに?」

「キスがしたい」


 抑揚のない言葉。


「どうぞ」


 睦子は淡々と応じた。

 二人は大きく身を乗り出し、カウンター越しに舌を絡ませ合った。味見をしたばかりなのだろうか、淳一の唇は、仄かに血のような味がした。





 食事を終えると、淳一はベッドに腰を掛けて本を読み始めた。

 その間に睦子は片付けをしようと、食器を流しに運んだ。キッチンには、空になったワインの瓶が置いてあった。


「高そうなワインだね。美味しかった?」


 尋ねると、彼は本に視線を落としたまま返事をした。


「今日の夕食の牛肉はそれを丸ごと一本使って煮たんだよ」

「もったいない」

「そうかい? それは取引先から貰ったんだけどね、僕はワインに興味はないし、一人で晩酌をする習慣もないから最も有益な使い方をしたと思っているよ」

「その取引先の方も、そうと知ったら残念がるでしょうね」

「僕も馬鹿じゃない。今度会った時には美味しかったですくらいのことは言うよ」


 そう言うと、淳一は美しい笑顔を睦子に向けた。作られた表情。嘘の仮面。睦子はそこに心が微塵も込められていないことを知っている。だが、他の人がそれに気付くことはないだろう。誰だって騙せる。淳一の目からはそういった余裕が垣間見えた。事実、彼が再び本に視線を落とすと、その笑顔は何事もなかったかのように消えた。


 洗い物を終え、淳一の向かいにある椅子に腰を掛ける。

 彼は相変わらず本を読み耽っているが、睦子の視線を感じ取ったのだろう、口を開いた。


「今日は泊っていく?」


 間を置いて答える。


「明日は朝が早いから帰るよ」

「そうか」


 淳一は無表情のまま本のページを捲った。睦子は足を組み、頬杖をついた。


「何を読んでいるの?」

「恋愛小説だよ」

「つまらない?」

「そんなことないよ。中身がなくて、頭を空っぽにして読むには丁度良い」

「その割には随分と退屈そう」


 その言葉を聞いた淳一は視線を本から外し、上目遣いに睦子のことを見つめた。


「子供の頃、周りの人間から似たようなことを良く言われたよ」

「淳一に子供の頃なんてあったんだ? さぞ可愛くない子供だったでしょうね」

「まったくだね。可愛くなかったと思うよ。教師や同級生から、機嫌が悪いのか、と頻繁に尋ねられていたからね」


 そこで彼は大きく息を吸った。


「そして母親からは、笑えっていつも怒られたよ。何も面白くないのに笑えってね。僕としては決して常に怒っていた訳でも退屈だった訳でもなく、至ってフラットな精神状態のつもりだったんだけれどね、周りからすると不快そうに見えたようだよ」


 ふと睦子の脳裏にかつての病室での出来事が浮かんだ。真白な光の中で行なわれた、悲しみを演出するための儀式。


「わたしは……」


 自然と言葉が口を突いて出た。


「わたしは、お母さんに泣くことを強要された。女の子なんだから泣きなさいって、直接言われた訳ではないけれど、いつもそういう雰囲気がわたしを包んでいた」


 淳一が目を細めて言う。


「思い込みや一般論は本質を理解する上で邪魔なものだ」

「その通りだね」

「人間の感情も然り、理解に必要なのは観察と分析だよ。僕はね、この目で見たものしか信じない。真白な光に晒されたものだけが真実だと思っているんだ。この光の中で観察をすれば、回りくどい嘘や作られた表情も全てお見通しだ」


 睦子は何かが分かった気がした。彼と自分は似ている。そして彼は、自分の中の形の定まらない考えを明文化してくれる鏡のような存在なのだ。

 二人は互いの姿を観察した。それこそ鏡の中の自分自身をもって、傷跡の状態を調べるように、作り笑顔の出来具合を確認するように、見つめ合い続けた。


「今の僕はどう見える? 何を考えていると思う?」


 そう言われ、彼の爪先から頭までを眺める。


「駄目。何を考えているのか分からない」

「そういう時はね、何も考えていない時なんだよ」

「なるほどね。じゃあ、今のわたしはどう見える?」

「スーツを着ている」

「何それ」


 睦子は呆れた声を出した。淳一は小さく肩をすくめると、再び無表情のまま本に視線を戻した。ただ、極めて微かだが、その頬の筋肉が一瞬緩んだのが見て取れた。

 立ち上がり、独り言のように呟く。


「やっぱり今日も泊っていこうかな」

「そうか」


 彼は、視線を落としたまま返事をした。


 その日の夜は、浅ましいほどに彼を求めた。回りくどい手続きなど必要ない。端的に要求のみを伝えれば良い。それだけで、彼は応じてくれた。


 ひとしきり抱き合った後、普段であれば淳一はすぐに眠りに就く。しかし、その夜は違った。ベッドに横になりながらいつまでも目を開き、ぼんやりと天井を眺めている。睦子は、そんな彼の横顔をじっと見つめた。


 ふと淳一が片方の腕を上げ、宙に掌を彷徨わせる。


「光だ」


 彼が言う。


「光?」

「うん。この光はね、僕が手に入れたものなんだ」


 語り掛ける風ではなく、どちらかと言えば自身に言い聞かせるように彼は話を続ける。


「……僕は下町の出身で、ずっと薄暗い世界に閉じ込められていたんだ。父は紡績工場に勤めていて、その社宅に暮らしていたんだよ。工場に接した狭い敷地に、メゾネットアパートと言えば良いのかな、長屋のような棟が幾つも並んでいてね、その一室に父と母、それと僕の三人で暮らしていたんだ。両親は今でもそこで生活しているよ。とても狭かったなあ。しかもね、信じられるかい? どの部屋も照明は裸電球だったんだ。スイッチと呼べるものはなくて、灯りを点けたい時には電球のソケットにあるコックを捻らないといけないんだ。夜に灯りを点ける時には延々と暗闇の中で手探りだよ。そして灯りを点けられても、それは部屋の隅々を照らすほどのものではなくて、小さなオレンジ色の光だ。僕はその光が大嫌いだった。どこか貧乏臭くて、どこか寂しくて。それでも母はその光を指して暖かみがあるとか幸せだとか言っていたよ。薄暗い灯りの中、三人で食卓を囲んではいつも笑っていた。母は不器用な人間で安い給与のパートを転々としていたんだ。父も母もゴツゴツとした手を毎日真黒にして帰ってきては、オレンジ色の灯りを見て癒されるって言うんだ。僕は、一刻も早くそこから脱出したかった」


 淳一はちらと横目で睦子を見て、冷たく微笑んだ。


「オレンジ色の光は暖色って呼ばれているんだろ? でもそれは、あくまで暖かみがあるだけで暖かさがある訳ではない。結局は誤魔化しだよ。そんなものを有り難がるのなんて本質を知らない人間だけだ。僕はね、そうはなりたくなかった。経済的な理由で低レベルな公立校に通っていた所為か、周りには大学まで進学する人間はいなかったけれど、僕は進学を希望したよ。両親があからさまに戸惑った顔をしてさ、僕は当てつけに自ら奨学金と勉学援助の申請をして早々に推薦合格を決めたんだ。それで、高校卒業と同時に家を出て、もう十年以上あの街には戻っていない」


 淳一は上げた腕を真直ぐに伸ばした。睦子はそれを見上げた。

 光の中に彷徨う開かれた手の影は、何かを探し求めている蝶のように見えた。


「あそこには光がなかった。光がね。光が……」




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