第一部(1)
睦子は助手席でまどろんでいた。
例年に比べて早くに梅雨が明けると、以降は連日快晴だった。今日も屋外は風景が歪むほど熱気を帯びている。
それに対して車内は空調が効いており、居心地が良過ぎた。
「寝ないでくださいよ」
隣にいる沢村がハンドルを握りながら零す。
まだ二十代半ばの後輩から注意を受け、睦子は瞳だけを右に向けて、「寝てないよ」と、不機嫌そうに返事をした。
その言葉を聞いた彼は、謝罪のつもりか、正面を向いたまま鶏のように首を前に突き出した。
車は玉川通りを都心部に向けて走っていた。相も変わらず道は混雑している。平日の午後だ、ほとんどの車が睦子達と同様社用車だろう。
働き者が多いのだな、と他人事のように思う。世間にはステレオタイプの会社員がわんさといて、皆、暗黙の規範に則って生きている。人間は考える葦だか足だかと言った人がいるそうだが、残念ながら会社の出退勤記録を思い返す限り、自身の行動に思考した痕跡は見受けられない。おそらく他の人々についても似たり寄ったりだろう。ただただ虫のように習性に従っているだけだ。
自嘲気味に鼻から短く息を吐き、流れゆく街並みに視線を向ける。車は、いつの間にか目的地に辿り着こうとしていた。
真白なマンションの前で車を停めさせ、油の滲むアスファルトの上に降り立つ。急激な温度変化の所為だろう、全身に汗の雫が浮き上がった。暑い。否、それを通り越して、熱い。吸い込む空気で気道が焼けてしまいそうだ。
ここまで送って貰って助かった。そう思い、睦子はハンドタオルで額を押さえながら沢村に礼を述べ、加えて、先に事務所に戻るよう伝えた。
「今日は予定もありませんから、待ってますよ」
彼はだらしなく笑った。
好きにすれば良い。その意志を伝えるように小さく頷き、すぐに振り返ってマンションの門へと向かう。
その建物は、未だ築二年ということもあり、小奇麗だった。しかし近年の物件にしては珍しく、入口はオートロックではなく、また管理室も見当たらない。そこで手持ちの資料に目をやり、部屋番号を確認する。目的の場所は最上階だ。
エレベーターに乗って目的階で降りると、そこは、ひっそりとしていた。打ちっ放しのコンクリートと牢屋のような柵。飾り気のない造りは、住宅ではなく、むしろ雑居ビルを思わせる。
睦子は短大を卒業してから十年近く改装業者の営業をしており、そういった建物の細部を無意識のうちに観察するのが癖となっていた。
部屋に着いたのは、約束の時間の五分前だった。
丁度良い頃合いだと思い、インターホンのボタンを押す。微かにスピーカーからチャイムの音が流れ、そして消える。しばらく待つが、返事はない。再び押してみるが、それでも応答はなかった。
淡いベージュ色をした鉄の扉、その右上にある表札を差し込むプレートは空っぽのままだ。鞄から再度資料を取り出して時間と部屋番号を確かめるが、この部屋で間違ってはいない。念のために扉を数回ノックしてみるが、低く震える音が響くばかりで、やはり反応はなかった。
留守だろうか。諦めの溜め息をついて出直すことを考えていると、薄く扉が開いた。中から冷たい空気が流れ出し、頬を撫でる。同時に、男がこちらを覗き込むように顔を出した。
その男は睦子の爪先から頭までを何度か眺めると、「ああ」と、短く声を漏らし、自身の腕時計に視線を落とした。
「うん。丁度だ」
男は呟いてから再び睦子に視線を向けると、綺麗な、微笑を浮かべた。
綺麗。その形容の仕方が男性に対して適切か否かは分からないが、一目見た時、確かにそう感じた。中性的な整った顔立ちの所為もあるだろう、どことなく柔らかで、それでいて鋭利な、精神の隙間にするりと入り込んでくるような雰囲気。一枚の完成された絵画のような趣さえある。
普通の人ならばその笑顔を好意的に受け止めるのかも知れないが、睦子には他人との接触や干渉を敬遠するきらいがあり、咄嗟に警戒をした。
そんな感情を知ってか知らでか、男が澄ました口調で喋り出す。
「すみません。シャワーを浴びていてチャイムの音に気が付きませんでした」
彼の名は、川谷淳一といった。資料によれば、睦子と同い年という若さで、コンサルティング会社の代表を務めているとのことだった。
睦子は儀礼的な挨拶だけを交わし、早速室内を見せて貰うことにした。
先を行く淳一が裸足なので、それに倣ってスリッパを履かずに部屋に上がる。そもそもスリッパ自体が見当たらない。それだけではなく、そこは極端に物が少なかった。
短い廊下を抜けると、左手にクローゼット、右手にカウンターキッチン、その先は、本来はダイニング、リビング、ベッドルームと三部屋あったのだろうが、扉などが全て取り払われてベランダまで望める大きな一部屋になっている。部屋の中央には小さなローテーブル、角に小さな机と小さな椅子、反対側の角に大きなベッド、ベッドの隣に背の低い収納家具が二点あり、テレビ、ステレオ、電話が、床の上に直接置いてある。他には何もない。クッションや座布団の類もない。異様だ。
しかし、それよりも更に目を引いたのは、部屋の明るさだった。
室内の灯りがまだ昼間だというのに全て点いていて、昼白色の光が部屋中に満ちていたのだ。キッチンのダウンライトも、通常であれば暖色系の電球が備え付けられているものだが、寒色系の蛍光ランプだった。その上、床も壁もカーテンも、机もベッドも、全て真白く、目が痛むほど眩しい。
まるで病室のようだ。
睦子は祖母が死んだ一室を思い出し、微かに身震いした。その様子を気取られないよう高い声で、「明るくて素敵なお部屋ですね」と述べ、続けて、「とてもセンスが良い」と言って、しなを作る。
淳一は何も言わず、ただ微笑を浮かべ続けていた。
「照明を増やしたい、とのことですが」
気を取り直し、至って事務的に仕事の話を振る。
彼は笑顔を崩さないまま口元だけで言葉を紡いだ。
「ええ。実はこの部屋、複数の部屋を繋げているのですよ。その所為か、元々の部屋の境目辺りが薄暗く感じるのです」
十分に明るいではないか。そう思いながらも親身な素振りで、二、三、頷く。
「だから、ここと、ここに、照明を……」
淳一が歩く度、シャワーを浴び終えたばかりだからだろう、仄かに石鹸の香りがした。ただし、その髪は完全に乾いており、また汗ばんだ様子も窺えない。
睦子は違和感を覚えながらも相槌を打ち、要望を一通り聞き終えると、持参した打診棒で天井を数カ所叩いた。所々にコンクリートの梁が走っている。それ自体は当たり前のことなのだが、その位置が悪く、希望通りの施工は難しそうだ。
そこで配電図や構造図の有無を尋ねると、淳一は申し訳なさそうに、ない、と答えた。話を切り替え、施工業者や管理会社を確認するために契約書を見せてくれるよう依頼すると、あらかじめ用意をしていたのか、彼はすぐに書類を差し出してきた。
書類に目を通し、憂鬱な気持ちになる。このマンションは、施工から販売、改装、管理に至るまで、全てを一つの会社が担っていた。この手の会社は他の業者が物件に手を出すことを嫌う。面倒だ。しかし睦子は、その考えをおくびにも出さず、軽く礼を述べ、微笑んでみせた。
「素敵な笑顔ですね」
淳一が言う。
「恐縮です」
恥ずかしそうに俯く。
経験上、このような時は恥ずかしそうにすれば良いということを知っていた。
今までの客は大半が男性だった。社交辞令なのか性的嫌がらせなのかは判然としないが、同様の言葉を口にする客は過去に何人もいた。そんな時、素直に認めれば角が立つし、頑なに否定をすれば食い下がられる。恥ずかしそうに肯定、それが最適解だ。加えて、少しく首を傾げ、改めて微笑む。これで話題は契約のことになるだろう。
ところが、彼は意外な言葉を口にした。
「本当に、素敵な表情ですね。まるで絵画のような、薄い皮が張り付いているかのような完璧な笑顔です……」
嫌味なのか称賛なのか、その言葉の真意を測りかねる。
「僕も、業界こそ異なりますが、長年現場で営業をしていたのですよ。だから分かるのです。あなたの笑顔は上質なスキルです。うちの新人にも見習って貰いたいですよ」
淳一は睦子のことをじっと見つめた。彼の目は、睦子の顔の微細な震えや緊張、その筋肉、その組成に至るまで探るかのようだった。
「いえ、そんな」
睦子は顔を背けた。
「僕の言うこと、信じられませんか?」
信じられる訳がない。睦子は最初から疑っていた。
なぜこの男は、チャイムの音に気が付かなかったことに気が付いたのだ?
車に戻ると、沢村がタオルを顔に乗せ、仰向けで眠っていた。冷房を使用しているらしく、エンジンは掛かったままだ。
窓を叩くと、彼は慌ててロックを外した。
「バッテリーが痛むよ」
助手席に身を沈め、愚痴を零す。
「こんなに暑いのに冷房を使わなかったら溶けちゃいますよ」
沢村は寝惚けた顔で軽口を叩いた。
「だから先に帰りなよって言ったのに」
「待ってたんですから、お礼くらい言ってください」
そう言ってから彼は車を発進させ、更に言葉を続けた。
「で、仕事はどうでした?」
「あの人は、平気で嘘をつく人だね……」
淳一との一連のやり取りを思い出しながら話し始める。彼が定時まで扉を開けなかったこと、お世辞を並べ立てたこと、終始、笑顔だったこと。
沢村は一々大袈裟に頷き、そして話を聞き終えると、声をあげて笑い出した。
「流石は睦子さんですね。お客さんに口説かれるなんて」
「ねえ、人の話を聞いてた?」
目を細めて睨み付けると、彼はただ首を傾げた。
睦子はその表情を見て反論をする気が失せ、「まあ、いいや」と、溜め息交じりに零した。
「しかし面倒だなあ。この手のお客さんは厄介なんだよね」
その呟きに対し、すぐさま沢村が尋ねてくる。
「なんでですか?」
睦子は諭すように応じた。
「同種の仕事をしている、もしくは、していたことをアピールする人って、何でも知っている素振りをしたり、共感を求めてきたりするでしょ。僕にはあなたの考えが分かる。だから、あなたも僕の言いたいことが分かりますよね?って」
「つまり、どういうことですか?」
「つまり、今回の依頼主は無理難題を押し付けてくる」
「言い切りますか」
「言い切るね。あの人は、そういう人だよ」
あの人、の顔を思い返す。すると沢村が再び笑い出した。
「睦子さんがそう言うなら、そうなんでしょうね。それにしても珍しいですね。現場から戻ってきて、物件よりも先にお客さんについて語るなんて」
思いもしなかったことを言われ、睦子は沢村のことをじっと見つめた。
「そう?」
「いつも睦子さんは、まず物件の話をします。と言うより、物件の話しかしません」
「わたしって、そうなんだ」
背もたれに大きく寄り掛かり、自身の過去の行動を振り返ってみる。
「そうですって」
彼は得意げに言い放った。
「沢村って、意外と人のことを見ているんだね」
「当たり前ですよ。僕は睦子さんと違って物件よりも人が好きですから」
それではまるで、自分は、人に興味のない、人の心のない存在みたいではないか。
睦子は、心の内で独りごちた。