第二部(4)
その日の夕方も、睦子は淳一の帰りを待ちながら、一人、片付けをしていた。
クローゼット中の物を引っ張り出す。そこには幾本もの使われなくなった蛍光灯があった。今の照明は寿命の長いLEDライトなので滅多に交換をする必要はないが、蛍光灯だった頃は頻繁に取り換えていたのだろう。ストック数から察するに、神経質なほど。
光への執着。淳一は望む光を手に入れられたのだろうか。
そんなことを思った時、据え置きの電話が鳴った。睦子の知る限り、その電話が鳴ったのは初めてだ。一瞬どうしようかと迷ったが、これから籍を入れようという間柄で遠慮をするのも不自然と考え、睦子は受話器を上げた。
「はい、川谷です」
少しく間があってから老齢の女性の声が聞こえてくる。
「淳一の母です……」
瞬間、睦子の頭の中に、灰色の街並みが浮かんだ。
「あ、あの、淳一さんは留守にしています」
緊張しながら伝えると、「そうですか」と、落胆した様子の声が返ってきた。
次の言葉を急いで口にする。
「帰ってきたら折り返し電話させましょうか?」
すると、優しい声色で返答があった。
「いいのよ、そんな気を遣わないで。またこっちから電話しますから」
「でも……」
「ところで、失礼ですが、あなたは?」
そこで我に返る。睦子は名乗らなかった無礼を詫び、併せて簡単に自己紹介をした。ただし、淳一の家に居候している身分という内容でだ。
淳一の母は朗らかな人で、「あら」やら「まあ」やらと相槌を打ち、加えて、「あの子は気難しいでしょ。叱って良いですからね」などと、睦子を気遣う言葉を口にした。
意外だった。灰色のイメージが瓦解するには十分だった。
淳一にとって故郷は嫌悪の対象で、それこそ両親は陰鬱とした雰囲気を背負っているものと思い込んでいた。けれど実際には母親は明るく、少なくとも気安く連絡をしてくる程度には交流もあったのだ。
「彼に叱るところなんてないです。むしろ、いつも助けて貰っています」
偏見を抱いていたことを自省して心からそう言うと、淳一の母は、「あの子がねえ」と感慨深げに呟き、嬉しそうに話し始めた。
「あの泣き虫だった淳一も、大人になったのね」
「泣き虫、だったんですか?」
「そうなのよ。あの子は友達を作るのが苦手だった所為か、いつも、寂しい、と言っては泣いてばかりいたの」
何歳の頃の話かは分からないが、今の彼からは考えられないことだ。
「それでね、その度に手を繋いで一緒に土手を登って、夕焼けを見に行ったのよ。あの子は夕焼けが好きでね。特に、今頃の春の夕焼けが」
夕焼けと言えば夏から秋という印象しかなく、春の日暮れを思い浮かべることが出来なかった。
かつて淳一が見た景色はどのようなものだったのだろう。気になって窓に視線を向けるが、真白なカーテンが邪魔をして外は望めない。ただ、時間的には日の沈む頃合いだ。
睦子はひとつ頷き、受話器を耳に当てたまま手を伸ばした。
カーテンを捲ると、それは見えた。
立ち並ぶビルの向こう、西の空が仄かに明るく、沈みかけの夕陽がオレンジの色を辺りに滲ませている。降りてくる薄闇との境界に出来たグラデーションは、とても淡く、暖かく、幻想的だ。
見惚れていると、なぜかは分からないが、片方の瞳から涙が溢れ、頬に一筋の軌跡を描いた。
「睦子さん、どうかしたの?」
声を掛けられ、睦子は呼吸を整えて指先で涙を拭った。
「いえ、何でもないです。貴重なお話をありがとうございました。淳一さんには、必ず折り返し電話をさせます」
電話を切ってからしばらくすると、淳一が帰ってきた。定時上がりとまではいかないものの、ここ最近の帰宅時間に比べれば大分早い。睦子は都合が良いと考え、早速当たり前のように、「お母さんから電話があったよ」と告げた。
彼は、微かに面倒臭そうな顔をした。
一抹の不安を抱きながらも約束を果たさなければならないと思い、話を続ける。
「だから、折り返し、電話をして」
淳一は何も言わず、鼻から息を吐いて受話器を手に取った。
そして、会話の内容は分からないが、数回言葉を交わし、最後に、「じゃあ、また振り込んでおくよ」と言って、通話を終えた。
「何だったの?」
何の気なしに尋ねる。
「君には関係ないだろ」
そう言う淳一の表情は、酷く冷たいものだった。
銀色のナイフが目の前を横切った気がした。途端に胸が苦しくなる。手足が震え、全身から汗が噴き出す。睦子は呼吸を乱しながらも必死に言葉を振り絞った。
「あ、ごめんなさい」
その様子を察したのか、淳一はすぐさま弁解した。
「すまない。大した話じゃないんだ。父が胃腸炎で入院しただけだよ」
彼の表情は、綺麗な、笑顔だった。
睦子は吐き気をもよおした。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?」
「ごめんなさい」
「ほら、落ち着きなよ」
淳一は微笑み続けている。
その顔は優しい。
「突然実家から電話が掛かってきて驚いたんだね」
その声も優しい。
「婚約しているってことは伝えたかい?」
その唇も、その息遣いも、その手付きも、全て優しい。
「伝えていないなら良い機会だし電話を掛け直して二人で報告をしようか」
この優しい男は、誰だ?
淳一が再び受話器を手に取った。睦子は掠れた声で言った。
「お願い、やめて……」
声が届かなかったのか、彼は受話器を置こうとしない。
「お願いだから、やめて!」
悲鳴をあげるようにそう言い、睦子は淳一の腕にしがみ付いた。
瞬間、睦子は意識を失った。




