橋の先
小説を初めて投稿させていただきました。
皆様の暇つぶしにもなれば嬉しい限りです。
これは死んだ祖母の日記の、最後に書かれていたものだ。彼女は享年93歳でこの世を去った。
85を過ぎると本格的にぼけはじめ、家族の勧めから日記をつけるようにしていた。
最初は綺麗な文字で綴られていた日記も、ページをめくるにつれ弱々しく、どこか肩身が狭そうな文字になっていった。
日記の最後に書かれていたこの話は比較的綺麗な文字のため、早い段階で書かれたものと考えられるだろう。その話のタイトルら、こう綴られていた。「橋の先」、と。
目を開けるとそこは真っ暗だった。
目を凝らしても、自分の足元と、前に誰かいるかとぐらいしかわからない。
私はどうやら列に並んでるようだった。
長い、長い、一本の列。
前にいる人に、問うてみた。
「あの、これはいったい、なんですか。」
前の人は言った。
「これはね、列なんでさぁ。」
「ええ、それはわかっていますよ。しかしね、どうして皆さんこんな長い列に並んでいるのでしょう。」
「ああ、橋を渡るためでさぁ。ほら、あすこです。」
その人がすっと指差した先を見ると、そこには大きな一本の橋があった。
全体が黄金に輝き、横幅も広い。
手すりには細やかな彫り細工が施されていて、前にいる人に聞くまで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
私は前にいた人にお礼を言おうと思ったが、いなかった。
いつの間にか私は列の先頭にいた。
あの人はどこのに行ったのかと周りを見渡すと、その人は橋の脇にある洗い場のようなところにいて、何かを洗っていた。
洗い場は20ほどあって、横一列に並んでいる。
偶然私の前にいた人の隣が空いたので、私はそこに行った。ピカピカの真新しい蛇口と、木の桶が台の上に置いてあり、その前には小さな椅子がある。
私は隣にいる、さっきの人に問うてみた。
「あの、これはいったい、なんですか。」
隣の人は言った。
「これはねぇ、洗い場なんでさぁ。」
「ええ、それはわかってますよ。しかしね、どうしてこんなところに洗い場なんてあるのでしょう。」
「決まっているじゃあありませんか。洗うためですよ、足をね。」
「足?なんでまた足なんて洗うのですか?」
「貴女、自分の足をごらんなさいな。」
そう言われてみると、どうやら今まで裸足で歩いていたようで、いつの間にか足は土やらですっかり汚れていた。
「あの橋はね、綺麗な足じゃなきゃ渡れないのですよ。みんなあの橋の向こうに行きたがっている。だからこうして一生懸命に足を綺麗にしているのです。」
あぁ、なるほど。
私もあの橋を渡りたいと思った。
なぜかわからないが、あの先に行ってみたい。
足を、足を洗おう。
早速椅子に腰掛け、ギュッと蛇口を捻った。
しかし、水は出なかった。
何度やっても、駄目だった。
こんなに新しくて綺麗な蛇口なのに。
ふと、隣を見てみた。
さっき私の問いに答えてくれた人は、水が出ていた。私の蛇口より古くて錆びているのに、これでもかというほど水はその人の足にどばどばと落ちていた。
そしてその人はすぐに足を洗い終えると
「お先に失礼します。なに、ゆっくり来なさい。いずれ会えるでしょうから。」
と言って、先の方へと歩いて行った。
結局水は、出なかった。
ここまで読み終わると、私の頰には一筋の涙がつたっていた。
自分でもなぜ泣けるのか、わからなかった。
ただ、祖母はきっと足を綺麗に洗えたのだろう。
念願の、あの橋を渡れたのだろう。
私は、涙を拭った。なんだか、心が晴れたような気分だった。
仕事のこと、家族のこと、そして私の体を蝕んでいる癌のこと。
最近自分が悩んでいたことが、ひとつひとつ、胸からすぅっと消えていった。
もう、怖くない。
だってあの橋の先には、綺麗な足をした祖母が待っているはずだから。