労働という名の逃避
あの諍いが起きてから、ギクシャクした空気が続いていた。
皆がニコリともせず、淡々と道を歩く。
洞窟から町へは、徒歩で三日程の距離だ。
物資運搬用の馬車を使えば速くて今日中、遅くても翌日の早朝には着くだろう。
よって、重傷者は医学知識が深いシックと数人のアシスタント共に街へと向かわせた。
ついでに、街にたどり着いたら救援を要請する役割も追っている。
そして、待ちに待った迎えが来たのは翌日の昼ごろだった。
馬車の車輪が街の門を超えたとき、歴戦の騎士たちは安堵し、その場にへたり込んだ。
無地に帰れた。
その事実に歓喜する。
皆が抱擁し合う。
先ほど争っていたことをみじんも感じさせずに。
そこにあるのは、形容し難い恐怖から逃げ遂せたという、達成感のみである。
『これは言い出し辛いな』
むろん、先のばしても何にもならないのでいうのだが。
シアノには騎士団ね決して言えない秘密があった。それは、彼らの任務はまだ終わっていないということだ。
彼らの目的は三つ。
狂気の魔術師アイザックの殺害または拘束。
大罪のグリモワールの回収。
そして、悪魔の殲滅。
このうち果たせたのはアイザックの殺害だけだが、それも彼らの奮闘によるものではなく自然死という神の手によってである。
残る二つの目的は未だ継続中。
確実に失敗したという結論が得られていないのだ。
『正直、全員を連れてきたかったな』
故に、もし悪魔が洞窟から脱出した場合に備えて数人の部下を置いてきた。
胸に刺さる後悔を見て見ぬふりして。
『引き延ばしても何にもならないしな』
よって、シアノは意を決して口を開いた。
その時の表情は、彼らの名誉のために控えさせてもらう。
なお、これは完全に余談であるが、リアルでムンクの叫びを見たと証言する奇特な人物が、その街で何人も見られたとだけ言っておこう。
人間がそんな奇妙奇天烈な表情をするとはいったい何があったのだろうか。
よほどショックなことがあったに違いないが、その過程に関しては未だに謎に包まれている。
☆
シュンシュンとお湯を沸かす音だけが響く。
沸かしたお湯で糸を消毒。
その糸を用いて傷口を縫い合わせていく。
応急処置しかできなかった洞窟の前とは違う。
とはいっても、これだけの大人数を収容できる診療所なんてなかったので、教会の部屋を借りているだけなのだが。
それでも、設備面は充実している。
その部屋からは人を助けんと奮闘する者たちと、命を救ってくれとすがる呻きしか聞こえない。
そんな中、また命の灯し日が消えた。
『どんなに頑張っても、人は死ぬときは死ぬんですね』
それは、どこまでも残酷な真理。
頑張って、頑張って、頑張っても命は脆く儚く、取りこぼしが出てしまう。
死んだのは、アイン率いる騎士団の一人だ。
彼の部隊が、最前列で戦いを繰り返していたのだから、犠牲が多いのは仕方がない。
『それでも悲しいですね』
けれど、今は悲しむ時間すらない。
次の患者が助けを求めているのだから。
故に彼は大急ぎで水が入った桶を運んでいたのだが……。
そこで、奇妙なものを見た。
水面に映った自分の顔。
目にはくっきりとした隈が浮かび、唇は青白く、肌は土気色。
死人のようなそれが赤く染まった。
シックは背筋が凍るような恐怖を感じた。
「ウワッ‼」
『これは僕が死ぬという予言だ』
そう思ったものだから、驚きのあまり悲鳴を上げ桶を天井へと放り投げた。
加えて、大きくのけぞり、床に尻を強く打ちつけてしまった。
何事かと周囲の人がシックの周りに集まってきた。
「大丈夫です、問題ありません。ただ疲れていたのかめまいがしただけです」
「シック先生、あなたが何を見たのかよかったらあててあげるわ」
駆け寄ってきた、村娘がシックにあきれていた。
きっと、これだけ疲れているのだからさっさと休めと言いたいのだろう。
「なんですか、そのクイズは」
「そうね。
クイズというのなら、賭け事の要素も加えるわ。
もし私の答えが正解ならシック先生、私の言うことを一つ聞いてもらうわよ。代わりにはずれていたら私がお願を聞いてあげるわ」
「まぁ、ままいません」
『どうせ当たるわけがないですしね』
「あなたは水に映った血まみれの自分を見た、違う?」
シックは思わず、ドキリとしてしまう。
正解だったからだ。
「どうしてそれを」
「髪」
「髪?」
「シック先生、あなたやっぱり疲れてるのね。
髪に血が付いているわ。
大方治療中についたんでしょうけど、それと桶を持った時の驚いた顔を見ればそのくらい想像がつくわ」
シックは慌てて髪を確認した。
すると、確かに血で汚れていた。
赤く染まった自分の顔を予知だと思ったのは疲れからくる幻想だったのだ。
シックは自分自身がどうしようもなく疲れていることを自覚した。
「さてと、約束通りにあなたへの要求を言いわね。
と、その前に。
私聴いたわよ。ずっと働き通しで一切休んでないそうね。
そんなんだから、何もない所で転ぶのよ。
だから、休みなさい。
今すぐ自分の部屋に帰って寝てきなさい。
言っておくけどこれはお願いでもなんでもなく、命令だからね。
拒否権はないわ」
『命令と聞いたときは何事かと思いましたが……』
街娘のほほえましい献身に、答えてやりたいという思いが確かにあった。
だが……。
「まだ大丈夫、大丈夫なはずです。
それにこんなに多くの人が苦しんでいます。
僕だけが休むわけには……」
このまま働き続けて精根尽き果て死ぬことよりも、今はゆっくりと体を休め過去を振り返ることが恐ろしかった。
「いいから休めよ」
どすの聞いた声に反射的に頷いてしまった。
「良かった。シック先生ようやく休んでくれるのね。
途中で逃げ出すかもしれないからあなたたちシック先生を部屋まで送り届けてね」
『知っていますか。笑顔っていうのはもともと威嚇だったていう話を』
あまりのアップダウンの速さにシックは女の怖さを思い知らされた。
☆
同じころ、シアノも一心不乱に働いていた。
現在は報告書を作成中だ。
一心不乱にカリカリとペン先を動かす姿は、人がペンを動かしているというより、ペンが人を動かしているように感じられる。
それほどまでに、鬼気迫るものがあった。
はたして何が彼をここまで駆り立てるのだろうか。
その答えは今も彼と同様に馬車馬のごとく働き続けているシックしか理解できないだろう。
シアノはシックと会って話をしたかったが、それ以上に話したくないという思いが強かった。
「分かっている、これは単なる逃避だ。
何時までも逃げられるという分けではないだろう。だが……」
―――いや、今は言うまい。
明確な逃避であるが、今彼が行っているのも戦いだった。
剣をふるうことを生業とした騎士という職業について分かったのだが、剣を用いなくても戦いはできるのだ。
たとえば兵糧の計算。たとえば装備の購入。たとえば作戦立案。
数え上げればきりがない。
もし、それら一つでも欠ければ騎士団は機能しないだろう。
もっと言えば、人間社会のありとあらゆる活動が戦いといえる。
ありとあらゆる行動が巡り巡って人を助けているのだから。
だから、戦い続ける。
報告書は早ければ早いほうがいい。
それが彼の理屈だった。
しかし、書いている量が異常なまでに多い。
要約することを忘れてしまったかのように、起こったことを書き連ねていく。
「仕事の出来としては最悪だな」
確認のためにシアノは読み返したが、読みずらいことこの上ない。
今しがた自分で書いた文章だというのに、理解できないところがあったほどだ。
それが区切りがいいところまで終わると、今度は遺族に対する書状だ。
その分量がまた尋常ではない。
それが終われば今度はと、新たな書面に手を伸ばそうとして、その腕が止まった。
紙を使い果たしたのだ。
部下に、追加の紙を持って来いと命じた者の、もう使い切ったという報告が返ってきた。
街に帰ってから働きづめ。
あたりは暗くなっている。
これでは働こうにも仕事がない。
「仕方ないな。少し休もうかな」
無論、彼がベットに入ることはなかった。
自分の愛刀を手に庭へと向かう。
その時、括り付けられたままの火打石が目に付いた。
「そう言えば、これの返却を忘れてたな」
今は亡き同僚アインの形見である。
彼の家族化部下に返却するのがものの通りであるがさて……。
そう思い悩んでいると、ノックの音が聞こえてきた。