閑話 終末
遅くなって申し訳ない。
取りあえずようやく閑話終わりました。
この日をアイザックは忘れられない。
「この手紙をシックに渡してくれないかな。
大切な話があるの」
やつれていたエリンが、生来のタンポポの様な華やかさを取り戻していた。
声には張りがあり、今のこの瞬間が楽しいといった風な感情を誰かにダイレクトに伝えてくる。
『エリンを一人にはできん』 これなら目を離しても大丈夫かとも思うが、精神が不安定なもの特有の感情の浮き沈みの激しさをまじまじと観察してきたアイザックは娘の願いを丁寧に断ることを決めたのだが
「私のことを心配してるのはわかっているわ。
大丈夫。
今日だけは大丈夫。上手くいけばこれからもよ。だから、お願いね」
先回りされて釘を刺された。
目には確かな光が宿っていた。
直観というあやふやに理由であるが、アイザックは大丈夫だと結論を下した。
シックの家にたどり着くと、アイザックは息子のようにかわいがっていた男に丁寧に頭を下げた。
「娘を頼む」
それ以上の言葉はない。
どんなに語ろうとも足りないほどだ。
だが、追い出したという罪悪感がある。
装飾と欺瞞で場を濁すほど、彼は落ちぶれていなかった。
シックが封を開けると会いたいというささやかな願いがあるだけ。
そして、『どうしてここなんだ』 と、会う場所を見て恐怖に震える。
そこはエリンとシアノの――――――二人だけの思い出の場所。
シックにとっては忘れもしない罪の証。
「エリン、君は僕を罰しようとしてるんですね」
時が来た。
逃れることができない審判の時が。
シックは彼の救世主が背負ったものよりも重い十字架を引きずりながら処刑場へと向かう。
かつて、二人が愛を語り合った野原には若葉がこれから伸びるぞという生命力に満ち満ちていたといのに、今では鋭い棘をもった野薔薇に駆逐されていた。
「まったく、どうしてこんな場所で集合しなければならないんだ」
鋭い棘が身を突き刺すのだ。
愚痴の一つ、吐いたとしても罪にはならないだろう。
『エリンも約束の場所に向かうことをあきらめただろう』
何とも自分に都合がいい妄想だが、帰ろうとするたびに手紙の文面を思い出してしまい前に進まざるを得ない。
進めば進むほど薔薇は高く高く伸びていく。
痛む体を引きずりながら前へと進み、ついに――――――見つけた。
周辺に人を立ち入らせまと言わんばかりに薔薇が高く高く伸びているのがウソのように春と秋に真っ盛りを迎える草花が咲き誇っていた。
人を傷つけるようなものはどこにもない。
その中心にエリンは傷一つなく佇んでいた。
もしかすると、薔薇を避けて進めるルートがあったのかもしれない。
『こうしてみると、どんなに頑張って学んだとしても時と場合によっては無意味ですね』
シックはしみじみとそう思う。
彼は賢い。
客観的な事実としてそうだ。
それでも、『僕には人の気持ちがこれぽっちも分かっていなかった』
楽な近道はもちろんのこと、愛している女性が何を考えているのか、そんな当たり前でいて最も重要なことがさっぱりわからないのだから。
「久しぶり、久しぶりねシック。
元気にしてた」
そう口にしたエリンだが、違和感を感じずにはいられない。
ほんの少し前まで顔を合わせない日のほうが少なかったのだから。
『やっぱり不思議だわ』
エリンは時の経過を改めて思い知る。
「だからそう、お久しぶりですねシックさん」
いつも一緒にいて、遊んで、恋をした。
思いは叶わなかったが、思い出として過去のものにするほどに錆びついてはいない。
『だから、これは一つの決別』
もう子供ではないのだ。
だから、尊称をつけた。
その礼儀正しさにシックは面食らう。
彼が知るエリンはこんな少女ではないのだから。
『裏切りと後悔が彼女の精神をここまで衰弱させたのでしょう』
見当はずれも甚だしい同情によってシックの瞳が暗くよどむ。
「久しぶりエリン……さん」
シックは押し付けられた線引きを超えることができなかった。
「それで、今日はいったいどういった用件で僕を呼び出したのかな」
再会の喜びは確かにある。伝えたいこともある、言わなければならないこともあった。
それでも、この会合を一刻でも早く終わらせたい。
「聞いてほしいことがあるの。じつわね私――――――妊娠したの」
投げられた爆弾は予想のはるか上。
「忌々しいことに父親はグレイ。
世間一般では私のような女を中古女っていうのかしら」
エリンはさも愉快そうに笑うが、シックはブラックすぎて笑えない。
「私はあいつのことを愛していたの。
でもね、私は他にも誰かを愛したことがあったの。
一番目はシアノだったかな。
彼は私を置いて遠くに行ってしまったわ。
次に私が恋をしたのはあなただった」
『やめてくれ』 シックは叫びだしたかった。
気が付けばエリンの顔がそれこそ接吻が出来そうなぐらいに迫っていた。
「知っているシック。人の思いっていうのはね季節のように移り変わっていくの。
夏のような情熱も、秋のような穏やかさも、冬のような悲しみも、そして春のような恋心も。
私はシアノを愛していた。これは変えようがない事実」
ここでエリンはいったん言葉を止め首をふるう。
「ううん、本当は違うわね。
私はね、本当はずるい女なの。
本当は知ってたんだ。あなたたち二人がが私を愛していたことを。
だから逃げたの。
私がどちらかを選んだら、私たちの関係が終わってしまうんじゃないかなって思ってね。
だから、先にプロポーズしてきた法と結婚するって決めたの。
我ながら、尻軽女ってののしられてもおかしくないぐらいの主体性のなさよね。
だから、こんなことになったのも自業自得と言えば自業自得だわ」
「やめてくれ! 今され言われたって」
――――――僕がみじめなだけじゃないか。
「だけど、私はあなたを愛していた。これだけは変わることがない事実だわ」
「そうか、ありがとう」
果たしてそれは何に対しての感謝か。
口にした本人さえサッパリ分からない。
「でもね、その恋心も覚めていったわ。あなた私を避けに避けていたんだもの。
そして私は悪い男に引っかかりましたとさ。
そして、人生がお終い。
…………あれ! ここ笑うところよ」
「ごめんエリン。ちょっと笑えないかな」
『この冗談で笑えるやつがいたらそいつは頭がおかしいだろう!』
原因が自分にあるので突っ込みは自重せざるを得ない。
「え! 笑えなかったの」
本気で受けを狙っていたらしい。
笑いが取れなかったことに衝撃を受けていた。
コホン! エリンはわざとらしく咳払いをして、場の空気を一新しようとする。
シックのほうも覚悟をもってここに来たのだ。
こんなだらだらとした会話をしてお開きにというわけにはいかず、佇まいを正す。
「これで私が語りたいことはすべて終えました。
では改めて。
ねぇシック、私に隠していることがあるわよね」
「どうしてか、理由を聞いてもいいですか」
声が震え『なんて自分は卑怯なやつなんだろう』 と自己嫌悪に沈む。
自分よりもつらいはずのエリンが秘密を暴露したというのに、自分は結論を先延ばしにしている。
『本当は真実を知っているんじゃないか』
エリンが自分を苦しめようとしているのだと下劣な想像がすぎる。
『違う、この思いは甘えでしかない』 シックは自分が卑怯者であることを自覚してはいたが、恥知らずではなかった。
だから『どうしてこの場所なんでしょう』 と、エリンに対して逆恨みにも似た感情を覚えてしまう。
ここ以外だったら懺悔できた。
だが、ここでは無理だ。
「別にね、今さら結婚してくれだとか、そういうことを聞きたいわけじゃないの。
結婚したところで、あなたを支えるどころか重みになっちゃうだけだしね。
知っているよね。
私って薬の調剤とか得意なの。だから、一人でも生きていける。
おなかの中にいる子供の父親は流行病で死んだってことにして、私のことを知っている人がいない村で薬師として過ごすの」
つらつらと、これからの人生設計が語られていく。
言った本人事態気が付いていないだろうが、その未来には喜びを分かち合う誰かがいなかった。
彼女のおなかの中には新しい命が宿っているにもかかわらず、一人で生きていくと宣言したのだ。
そう、彼女はまだ求めていたのだ。
自分と共に過ごしてくれる誰かの存在を。
「君は僕と共に過ごそうとは言わないんですね」
それはうたかたの夢。
二人の胸の中に宿るほのかな願望だ。
「いくらなんでもそれは不公平だわ」
――――――、一緒にいたい。
胸の内にある気持ちを素直にさらけ出せば二人の道が交差する未来もあったかもしれない。
でも、『きっとこの人は未来に羽ばたいていくわ』
エリンはエリンだけは全く違う未来を夢見ていた。
今はまだシックはしがない研究者。
だが、彼女の父親が認めた栄光の花道を歩む研究者である。
『きっと多くの栄光をつかむわ。それをけがれた女が重荷になんて慣れないの』
愛した男性が幸せを手に入れる未来を夢見ていた。
その重荷を下ろす方法はある。
おなかの中に宿った命を下ろせばいい。
グレイとエリンの関係は知れ渡っているが、エリンはただの被害者。
秘密を知るものすべてが秘密を抱え込めば人生をやり直せる。
頼めば皆が喜んでその重荷を背負うだろう。
しかし、エリンには母として生きることを決めた。
その姿はシックが一度として見たことがないエリンの側面だった。
例えどれほど穢れようともきらめく金剛石のような輝きにシックは目を細めるだけで手を伸ばすことなんてとてもではないができない。
「…………」
沈黙。
結局シックは何も言えなかった。
「あ~あ、またこれなのね」
恋をして無為に終わる、そんなことを三度繰り返した。
最後の最後、今度こそはと期待してみたものの、結果がこれだ。
彼女はただ――――――自分自身が恋をしたことを、誰かを愛したことだけを否定したくなかった。
それだけだったのに。
「バカ」
失望をあらわに、エリンは行く手を阻む薔薇を器用に避けながら駆け出した。
すぐさまシックは後を追うが長く伸びた蔦に行く手を阻まれる。
シックは罪を清算しなければならない。エリンと本気でぶつからなければならず、そのためには思いを届かせる必要があった。
『だが、どうやって』
行く手を阻む薔薇の棘は鋭い。
このままでは追い付けない。
立ち止まって思考を回すとすぐに答えは出た。
ただ叫べばいい。そうすれば離れていたとしても思いは届く。
さあ、真実を語るぞと、シックは大きく息を吸い込むが、お腹にどれだけ力を入れようとも声が出ない。嫉妬という大罪が罪を清めんとする祈りを押しとどめているのだ。
『僕はくだらないことを延々と悩んでいるというのにどうして彼女は苦難の中でもなお美しいんだ』
身勝手で、自分勝手でどうしようもない。この期に及んでシックの思いは多くの不純物を含み純化されていなかった。
ならば、声を止めたのは良心なのだろう。
エリンは自をさらけ出した。というのに、シックだけが隠し通すというのは道理に合わない。
「大切なことは直接目を見て伝えるべきですね」
心の葛藤によって生じた体の不調をシックは自分に都合がいい風に解釈してしまった。。
いつの間にか薔薇の牢獄から抜け出せていた。
もう、後を追おうという気持ちはなくなっていたのだが。
『また逃げたのね』 失望の声が風に乗って聞こえてきたような気がした。
「家に帰って止血をしよう」
このままでは落ち着いて話ができそうにない。
腰を据えた話になるだろうから集中力の維持のためにも体調の管理は重要だ。
追跡のために薔薇をかき分けていた手を下ろすと淀んだ水の底にたまった汚泥のような不快な感触が。
『一体なんでしょう』
指先にあったのは赤いバラだった。
『このバラは白バラのはず』
洗って落ちない汚れのような不快感がこびりついて離れない。
しかし、今はやるべきことがある。
不協和音のごとく人を苛立たせる予感を振り切り、愛した女性に一刻も早く会うために”自宅”へと足を運ぶ。
シックは気が付かなかった。
神が与えた最後のチャンスを。
薔薇は人の生き血によって赤く染まっていたのだ。
傷口に最低限度の治療を施し、食事をとって英気を養い、精神的な覚悟を固めシックは歩みだす。
すべての決着をつけるために。
しかし、その時にはもうすべてが遅かった。




