もう少し真面目で章(スプリング編)9 発狂する心
ガイアスの世界
『剣聖』になって以降のインセント
ヒトクイ統一戦争以降、『剣聖』になったインセントはガイアス各地を巡っていた。それは『剣聖』としての力を高めるという目的がある一方で、強敵を探す旅でもあった。
『剣聖』になってからのインセントには強敵と呼べる存在がいなくなっていた。正確にはインセントと同等、もしくは強い者は存在していたが、様々な事情によってインセントには手の届かない存在となっていた。
その為インセントは自分の強敵となりえる存在を求めガイアス中を旅していた。だがその旅でインセントの強敵となりえる存在を見つけることは叶わなかった。
全てに絶望し何もかも諦め剣すら置いて新たな人生を歩もうと考えた矢先、インセントは古い仲間を尋ねたその場所でスプリングに出会ったのであった。
もう少し真面目で章(スプリング編)9 発狂する心
剣と魔法の力渦巻く世界、ガイアス
「……んッ……」
窓から差し込む朝日の光を瞼に感じ、青年はゆっくりと瞼を開いた。
「……ここは……」
開いた目が最初に映しだした天井にそう呟く青年。寝起き特有の思考の鈍りに一瞬自分が何処にいるのか理解できない青年は天井に向けられていた視線を周囲に向けた。
「……ああ、そうか……」
そう言葉にしまだ起きていない思考を無理矢理起こす青年は、寝ていたベッドから上体を起そうとする。
「ッ……」
だが思うように上体が起きない。体は鉛のように重く怠さも伴っている。
「……しっかり休息が出来なかったってことだな……」
体とは違いしっかりと覚醒を始めた頭で自分の状態を冷静に判断する青年は、低いうめき声と共に鉛のように重い体を無理矢理起こすと深く息を吐いた。
「……きっと夢の所為だな……」
体に蓄積された疲労が思った以上に取れていないその理由を夢の所為にする青年。しかし青年がそう思う程に彼の見ていた夢は肉体的にも精神的にも休まるものでは無い。青年が見ていたのは端的に言えば悪夢。細かく言えばその夢は青年にとっての過去であり心に深く刻まれた傷でもあった。
「……最近はドタバタしていて全く見ないと思ったが……」
だがここ数年、青年はその悪夢を見る頻度が下がっていた。そして特にここ数カ月は一度もその悪夢を見ることは無かった。理由は簡単で青年の環境が大きく変化したからであった。
「……悪夢を見たから疲れがとれないなんて言い訳にならないぞ……」
一向に重さも怠さも抜けない自分の状態に苛立ちを覚える青年。それは彼が就いている職業からすれば失格とも言える状況であった。
日頃、ダンジョン探索や魔物討伐で野宿することが多い冒険者や戦闘職はどんな場所であれすぐに眠れること、そして僅かな睡眠時間であってもしっかりと体力を回復させることが要求される職業である。
一時期は剣を扱う戦闘職の最高峰、『剣聖』に若手で最も近い男と呼ばれていた青年も冒険者や戦闘職に要求される習慣をしっかりと身に着けているはずであった。だが現在、青年は恵まれた環境の中で眠りについたというのに疲労を解消できずにいた。これは青年にとっては由々しき事態といえる状況であった。
「……ポーン俺はどれぐらい眠っていた?」
眠りにつく前に比べれば多少疲労が回復していると言っても正直満足のいく動きが出来ない自分の体の状況に落胆しながら青年は、自分以外誰もいないはずの部屋でポーンという人物に声をかけた。
『……おはよう主殿、約六時間と言った所か……』
しかし青年以外誰もいないはずのその場所で、青年の言葉に答える声がする。
「はぁ……六時間寝てこれか……」
どこからともなく聞こえる声が発した答えに更に落胆する青年は、億劫になりながらその視線をベッドの脇にあるテーブルに向けた。そこには拳士などが愛用する打撃用手甲が二対、置かれていた。一つは初心者が愛用する何処にでもある代物。もう一つは地味ではあるが何処か雰囲気のある打撃用手甲であった。
『主殿、悪いことは言わない、今日は安静にしていた方がいい』
青年の問に答えるその声はテーブルに置かれた二対の内の一対、雰囲気のある方の打撃用手甲から聞こえてくる。青年の身を案じてかその声は心配そうに今休養することを勧めてきた。
そう、青年の環境を大きく変化させた一番の要因と言ってもいいのが、この喋る打撃用手甲の存在である。幸か不幸か、この打撃用手甲の存在に色々と振り回されたことによって青年は悪夢を見る回数が激減していたのだ。
青年が見ていた悪夢を激減させた打撃用手甲の正体とは、旧時代の鍛冶師達が作りだした伝説の武具の原形となったとされる代物、ガイアス史の中で謎とされている時代に作られたとされる最も古い伝説の武具の一つであった。
最も古いとされる伝説の武具がなぜ自我を持ち喋るのか、その理由は製作者にしか分からない。だがポーンと呼ばれる無機物な存在は確かに自我を持ち他に自我を持つ生物と意思疎通を交すことが可能なのである。
そんなガイアス史を揺るがしかねないそんな代物を所有している青年、自我を持つ伝説の武器であるポーンに選ばれ意思疎通を交している青年こそが、どう見ても疲労困憊にも関わらずベッドから無理矢理腰を上げたスプリング=イライヤであった。
「……寝ていたいのは、やまやまだが……」
ベッドから立ち上がり内心を吐露しながらもテーブルに置かれたポーンと何の変哲も無い打撃用手甲に手を伸ばそうとするスプリング。だが次の瞬間、足に力が入らないのかスプリングはふらつき倒れそうになった。
「ダメだ主殿……やはり安静にするんだ」
テーブルに手を突き、転倒は免れたスプリングに対し心配そうに声をかけるポーン。
「大丈夫……ただの立ちくらみだ……」
『主殿……』
ただの立ちくらみななどでは無いと言いたい気持ちを堪えるようにポーンは自分の所有者であるスプリングの姿を見つめる。まともに立つことが出来ない下半身、立ち上がっただけで荒くなる息、立っているだけで辛そうな表情、確実にスプリングの身に異変が起きているのは明白であった。
「ポーン……悪いな、お前の意見を尊重することができそうにない……」
テーブルを支えにして立つスプリングは、テーブルに置かれたもう一つの打撃用手甲に再び手を伸ばした。
『……主殿、それは、今の状態で奴の……ビショップとの取引を飲むということか?』
部屋から出て行く支度を始めるスプリングに対してそう尋ねるポーン。
遡ること数時間前、スプリングは滞在しているユモ村の村長の屋敷にいた。そこには眠り続けている少年と一冊の本がいた。本に対して、いた、という表現は本来正しくないが、スプリングが見たその本に限っては、あった、では無く、いた、という表現が正しい。なぜならその本も、ポーンと同じく自我を持っていたからだ。
「……ああ? ……う、うん、俺は奴の取引を受けようと思う……」
一瞬何を聞かれているのか分からない表情が強張ったスプリングは何故か動揺したようにポーンの問に短く頷いた。
「……お前には悪いが、俺は自分の気持ちには逆らえない……例え奴がお前の仇であっても俺は両親を殺した奴が一体何者なのか知りたい……だから奴との取引に応じようと思う」
自分の本心を口にするスプリングの顔は何処か怯えているように見える。
『……分かった……納得した訳では無いが、主殿の意思は尊重しよう』
今にも倒れそうな程に辛くそして怯えた表情を浮かべるスプリングに対し重たく頷くように答えるポーン。
『だが主殿……一つ言わせてくれ』
「な、なんだよ?」
重々しい空気を発するポーンに何を言われるのかと息を呑むスプリング。
『頼むから……そんな体で……いや、そんな精神状態で奴と取引に向かわないでくれ』
「ポーン?」
ポーンが何を言っているのか分からないというように一瞬スプリングの時が止まる。
『……本当はこんな事を主殿には言いたくは無かったが………主殿は今奴に恐怖を抱いていないか?』
言いにくそうに、だがはっきりとポーンは今のスプリングの状態を告げる。無機物であるはずのポーンに声帯は無い。未だ何処から声を発しているのかもスプリングは知らない。だが無機物であり声帯が無いはずのポーンのその声は震えていようにスプリングには聞こえた。
「……いやいや……何冗談言っているんだ、俺があんな本を怖がる訳……」
自分はビショップを怖がっていない、そう言い切ろうとした矢先、その言葉が引き金になったようにスプリングの足元がふらつく。体重を支える事を放棄したように突然足の力が抜けスプリングはベッドに尻もちをついた。
「へ?」
突然の事に唖然とした表情を浮かべるスプリング。
『……自分で思っている以上に今の主殿の状態は酷い……』
「い、いや……そんなまさか」
自分がビショップを怖がっているなんて冗談だろとスプリングは顔を引きつらせながらポーンに視線を向ける。
『事実だ……その影響が今主殿の体を蝕んでいる……今の状態ではもうまともに動くことは出来ない』
突きつけられる事実。自分でも理解していなかった自分の内心をポーンによって暴かれたスプリングは顔を引きつらせ、苦笑いを浮かべることしか出来ない。
認めたくない。ビショップを怖がっているなんて認めたくないと必至に心が否定する。しかしそれに反するように体はいうことを利かない。スプリングの肉体と心は完全に乖離している状態にあった。
『……今主殿に起っている状態は奴の能力の一つ、人心掌握だ。恐怖であったり、優しさであったり状況に応じて様々な感情によって相手の心を掌握していく。狙われれば耐性の無い者はすぐに感情を操作され奴の駒に成り果てる』
スプリングの身に起った体調不良の正体がビショップの持つ能力、人心掌握であると告げるポーン。
『だが主殿は過酷な戦いを乗り越えたことで鍛えられた精神があった……奴の能力に対して耐性があったのだ……だから今私と会話することが出来る……もし耐性を持っていなければ今頃主殿は、この村の者達と同じように奴に心を掌握され手駒になっていただろう……』
過酷な戦いに身を置いてきた日々を送ってきたスプリングには、強靭な精神があった。それが耐性となったお蔭でスプリングはビショップに心を支配されずに済んでいると説明するポーン。
『……今の状態で再び奴に会いに行けば次は無い……だからお願いだ、今はここでしっかりと奴の人心掌握に耐えてくれ』
まるで願うようにポーンはスプリングにそう告げた。
「……う、うぅぅぅぅうぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ビショップに植え付けられた恐怖がここに来て限界を迎えたのか、スプリングは突然発狂した。両親が殺された時、インセントやガイルズと旅をしていた時、ガウルドの旧戦死者墓地で夜歩者に殺されかけた時、スプリングは今までに幾度も恐怖を感じてきた。だがビショップによって植え付けられた恐怖は、自分が恐怖していることを自覚すればするほどに、まるで底なしの沼に嵌るように恐怖が自分の体を暗闇へと引きずりこもうとしてくる。僅かに残るスプリングの理性を恐怖が蝕んでいく。
『大丈夫だ、自覚し自分の感情に向き合えば次第に奴の人心掌握の効果は薄れていく……今は我慢の時だ主殿、奴の人心掌握に耐えて耐性を強くするしか奴の前に再び立つ術は無い』
発狂し暴れるスプリングを押えることも出来ない、落ち着かせる為に背中を摩ることも出来ない。今自分が出来ることは発狂するスプリングに残った僅かな理性に語り掛けることぐらいしか出来ないのだと、ポーンは自分が無機物な存在であることを恨み己の無力さを痛感するしかなかった。
ガイアスの世界
人心掌握
自我を持つ伝説の本ビショップが持つ能力の一つ
心に入りこみ、相手が一番強く反応する感情に触れることで相手の心を掌握して意のままに操るという能力である。
人の心や意思を操る禁術魔法の原形ともされる能力であるが、その効果は禁術とされている魔法とは比べものにならない程に強力である。




