自動処刑
「お前は卒業したら三年以内に自殺するだろうな」
それは内心で見下していた教師からの宣告で、だからこそ当時の自分はずいぶん悩まされていたものだった。
他人の言葉に本来、大した力はない。しかし内にある堆積は、そのほんの少しの力ですら容易に燃え上がってしまう。スイッチを入れられればあとは連鎖的に崩れていくのみだ。いつだって、自分自身の自動的な仕掛けによって自己は破壊される。
この狭量な世界で、俺に使い道なんてない。
言い消せる材料は、その当時にならまだあったのかもしれない。勉強と部活の日々を生きていた時期には考えている暇さえなかった未来。こうして時間があればあるほど言い訳もできなくなり追いつめられてしまう。
きっと皆そんなだから痛みに鈍くなっていくのだろう。どうしてそれを成長だなんて呼べようか。世の中には繊細さを未成熟と言い換える輩さえいる。成熟の先には何がある?
死だ。
人間は歴然とそこへ向かっていく。
ずっと遠くに見えていたはずの、命の終わりという点。あるとき突然それが身近なものとして認識されるようになった。受験に失敗した同級生が自殺したり良くしてもらっていた親戚が癌で死んだり、俺自身もまあ健康とは言えないデブなのである意味でそのへんの人間より死に近い。
それに……こんな場所での仕事だ。
「やめ」
独り言が自動的に発され、思考を打ち切った。
単純作業は誰にでもこなせるが、それでも向き不向きというものがある。
没頭する才能が必要なのだ。すぐバランスを崩して脳みそのぬかるみに足を取られているようでは負荷がかかる。実際そのようにして俺の心は悲鳴を上げ続けている。
いくら状況が冗談めいているとはいえ、やがて慣れは生じてしまう。
宇宙に放り出されたような闇の中で、一人ひたすらドーナツを揚げる作業。客観視するといくらか笑える。
この屋台の周りだけが提灯の明かりに照らされ、その鮮やかな明暗の境目は、越えて一歩踏み出せば二度とは戻って来れぬような不安感を見る物に抱かせる。そこに存在しているのは、絶対的な虚無だ。
俺はその闇の向こうに何があるのか知らない。勤務時間中はここを離れるなと強く言われている。そして首をもたげるわずかな好奇心さえたやすく恐怖に打ち消されるほど、この場所は絶望的に現実から乖離している。空間と空間の狭間、その空白に滑り落ちたようでもあった。
なので大人しく、ボウルの中で卵と牛乳をかき混ぜるのみなのである。
ここは屋台でありドーナツは売り物、そして俺は時給で雇われるアルバイトの学生。もう三ヶ月ほどになる。だが客はただの一人も訪れない。ただのバイトなのに他の人員もいない。この空間に人間の気配さえ感じたことがない。
闇の向こうから現れるであろう誰かを待つことにも飽きて、ただ惰性で売る相手のいないドーナツを揚げている。
ろくに時間を潰す道具さえなく退屈だが、それでコンビニのレジ打ちより少し高い給料が毎月きっちり振り込まれているのだからまあ、疑問さえ数あれど文句を唱えるべくもない。
それなので何も、変化を望んでなどいなかったのだが。
「……人?」
そう短く呟いた少女は、この闇に浮かび上がる大きな目を見はらせて――あっけにとられたように、そこへ立ち尽くしていた。
長らく育ててきた想像を裏切り、初めての来客はどうやら自分の二つ三つ下と見える少女で、学校帰りかと言いたくなるほどの気軽さで現れた。
ジャンパースカートの制服とはあまりに凡庸である。
これだけの準備期間があったのにも関わらず、いざお客を前にしてどう声を掛けたものか分からなくなり、そうだ注文を取らなくてはと思い至るまでにしばらくの間を要した。
「どれにする」
基本ゼロ円なはずのスマイルさえろくに作れない自分。感情を隠すためあえて砕ける。また嫌な考えが頭をよぎりそうになるが、今は目の前にいる人間のおかげで辛うじてそれを回避することができた。
「うーん。ドーナツとかそういう、甘いもの苦手なんだよねえ」
「おい」
短い黒髪をかき上げ、少女は事もなげに言う。
三か月も焦らせておいて、まさかの冷やかしだった。こんな場所にまでそんなものがいるとは驚きだ。
「でもま、せっかく来たのも何かの縁だし。どうせだから苦手だけど仕方なく我慢して何かしら一つくらい食べてこうかな」
そのわざと字数を多くしているかのような少女の喋り方、この場所に不釣り合いなほど朗らかな笑顔は妙に印象に残る。
なんだか眩しくて直視できず露骨に視線を逸らしそうになるが、そうするまでもなく彼女はカウンター上のメニュー表へ目を落とした。
「って。そういえば、お金とか持ってない」
気付いて、まあダメならそれでもという感じの平坦な台詞。だがここではお代は貰わないことになっている。その旨を伝えた。ちなみに賃金はどこから支払われているのか、なんて考えるのが無意味なこともなんとなく理解してきている俺だった。
ならとりあえずとホットコーヒーを注文されたので準備に取り掛かる。当然それも本格的なものではない。猿でもできるペーパードリップだ。大して手間もかけないが、一応は器具を温めるところから始める。
「おすすめとかある?」
「全部それなりだからなあ」
「お兄さんが作るの?」
「ああ。もともと趣味でやっててな」
ある意味、唯一の取り柄だ。昔好きだった女の子が甘い物好きで、気を惹こうと必死だった時期に色々身につけた。ただ思った以上に楽しくなり目的を忘れどんどんはまり込んでしまい、みるみる太っていき、太りすぎたがために振られた。あまりにも笑える初恋だった。
結局セレクトはこちらに任せるとのことだったので、甘さの控えめなやつを適当に作ってやることにした。
暇つぶしの作りかけが入ったボウルを手に取る。
そうしてキッチンで作業し始めると、少女に背を向ける形となる。
「…………」
その背中に強い視線を感じた。他にその置き場がないのだから当然といえばそうかもしれないが、それどころではなく何か観察するような、這いまわるような気配を感じるのは気のせいか? 非常にやりにくい。会話で間を持たせるのは俺の役目だろうか。何を話せばいいのだろう。何も分からない。それは単なる女性への苦手意識だけが原因ではない。
背中を見せつつ、常に注意を払っている。少女がここへ現れたときから、できるだけ平静を装って他愛ない言葉を交わしつつも、俺は彼女に対する警戒を決して解くことがなかった。
この少女は、人殺しだ。
思い出させられた。ここは地獄なのだ。比喩でも何でもなく、死後に罪人が行く場所。この俺はまだ生きており、生者の世界から派遣される形で働いている。どんな冗談だろう。あまりにも突飛だが少なくとも全てが嘘ではないと信じさせるだけの説得力はあった。
さらに、ここは生前『いたずらに他の命を奪った』とされる人間がいる地獄だと説明を受けていた。そして目の前の少女は、確実に自分と同じような立場の生きた人間などではない。見た目こそ普通の少女だが、明らかに気配が不自然なのだ。ふざけた言葉遊びをすれば、こちらと同じ位相に魂が存在していないとでも言うか、そんな空気をまとっている。
そして死者であるとすれば彼女は、この地獄が掲げたとおりの業を背負っているのだ。そもそも見た目は少女だが、実際ずっと年上だという事もありうる。そこの世界観については詳しく教わらなかったが、常識の線引きは実に難しくなっている。享年を容姿に反映させれば死後の世界は老人だらけになってしまうし、そこに意図的なズレがあってもおかしくないのではないか。そう考えると一気に目の前のこの女の正体不明さが増し、全身に怖気が走る。
仕事中、死者から危害を加えられることは基本的になくまあ安全だと言われてはいた。基本的に、だ。ここはずっと引っかかっていた。この楽な仕事と不釣り合いな賃金は、最悪の万が一があることを考慮に入れてのものなのではないか? 第一これは何をもってして安全なのか?
殺される?
地獄で死んだら、どこへ行くんだろう?
「ねえ」
「――っ!」
突然声をかけられ、心臓が跳ね上がる。手の動作との兼ね合いが悪く、持っていたボウルを床へひっくり返してしまった。
「ご、ごめん。そんなびっくりされるとは」
「いや考え事してた僕が悪いです。すぐ作り直します」
許してくれと思っていたら自然と下手に出てしまった。
「作り直しはいいや。そこに出来合いのがあるじゃん。それ頂戴よ」
「えっ、でもこれかなり甘い奴だけど」
それでいいよと彼女は言う。シュー生地を揚げてホイップクリーム挟んでチョコレートをかけたもの二つ。
「だから、それとコーヒー、お兄さんのぶんも持ってさ。そこから出て……こっち側、来てよ」
死なすから。
と幻聴して、悲鳴が漏れそうになった。
そして今。
断ることもできずに俺は、彼女の隣に座っている。
先ほどまで熱く回転していた脳みそが、鎮まって今度は一気に氷点下まで冷え切り、いよいよもって生きた心地がしなくなってくる。心臓は激しく脈打っていた。
微かな少女の体臭が香る。この危機的状況下でさえそれに反応する自分が少し情けない。屋台はその防御壁として機能していたのかもしれない。たとえ物理現象のように存在の形を持たなくとも、実体だけは確かにあるのだ。
しばらくの沈黙を経て、少女がコーヒーを一口啜る。それで少し顔をしかめた後、とうとうその口が開いた。
「なんかすごい苦いねこれ? このドーナツ何からどうやって作ってるの? ここ店員さん一人なの? お客さんどのくらい来るの? てか享年いくつ? 生前の職業なに? 高校生? 大学生? 無職? 会社員って感じじゃないよねあとその仕事暇じゃないかなというかなんで太ってるの死ぬ前から太ってるのどうしてそのこれはあの」
「質問攻めかよ」
思わず遮ってしまう。すると少女は口をつぐみ、ばつが悪そうに顔を伏せる。
「……あたし、話すの上手くなくて。ずっと人に会ってなくて、余計にそうなっちゃったのかな」
「うん、ごめん。好奇心というか。こんなところで働いてる人がいるなんて、気になることいっぱいあるから。お兄さんのこと知りたいなって思ったら」
しょぼんと丸まった背中。
……なんだか体の力が抜けた。
こんな子が人を殺すなんてこと、あるのだろうか?
いたずらに命を奪った罪人――雰囲気の異様さに飲まれサイコな想像ばかり膨らんでいたが、実際の姿はこの通りだ。もしかしたら幼少期にアリの四肢もいだとか、その程度のことなんじゃないだろうか。
これだけ訊いていいかな、と前置いて、俯き加減だが真剣そのものの顔で少女は問いかけてくる。
「お兄さん、さ。生きてた頃――」
こちらにも少し、思うところがあった。
「まだ生きてる」
えっ? と顔を上げる。
「アルバイト的な契約で、決められた時間にここに転送されてこの仕事してる」
だから地獄の住人なわけじゃないと告げると、生きた人間のいることが彼女にとって衝撃的だったらしくしばらく固まっていた。それを見てふと思う。俺は誰かと話がしたかった。それも単なる世間話だ。そしてここ最近の自分にはそれをする相手というものが足りていなかったのだと。
高校を卒業してからずっとぶらぶらしていたら街角で勧誘された、という冗談みたいな経緯を話す。初めての客だということも説明すると彼女は、実はあたしもここに放り出されてから人間に会うの初めて、と言う。
それは、そうなんだろうな。なんとなく見当はついていたが、そんな孤独もまた地獄で課された罰なのだろうか。丸く切り取られた闇の外側に、砂漠のように果てしない地形が想像された。
「そんなで人来ないし、暇かっつえばめちゃくちゃ暇だった。暇つぶすにも携帯とか持ちこめない決まりだし」
地上の電波も入らないだろうし。
「携帯の暇つぶしって、ゲーム? 今はどんなのが」
「ああ。簡単に言うと、女の子を戦わせる、直す、また壊す、バラバラにする、結婚する。みたいな」
つつがない会話をまた数秒、途切れさせることになった。
「え、何それ? 楽しいの? というか、人気なの? 流行ってるの? それが」
「流行ってるどころじゃない。社会現象とか言われてる。ニュースにも取り上げられた」
少女の表情があからさまにこわばる。地獄の罪人もドン引きだった。
「病みすぎでしょ? あたしのいない間に日本、終わってたの?」
「返す言葉もない」
で、説明して伝えるという作業は苦手だ。情報の選別も難しく、自分が進めなければ場の時間が止まる。それでいて、会話は圧力。だから仕方ない。誠実であることを放棄するしかない。
しかし彼女はそのゲームについてに興味津々で、その後いろいろ突っ込んで聞いてきたので結局細かいディテールまでほとんど喋らされることになった。それでも大筋の感想は「病んでる」のままだったが。
息をついて、世間話の続き。今度は俺の番。
「その、地獄はどうなんだ」
しかし会話慣れしていないのはこちらも一緒だった。
とっかかりがないのでふわふわした質問になってしまう。ふわふわしたこと訊くねと笑われる。いつも何をしてるんだとか、学校に通ってるのかとかが訊きたかったのだ。一呼吸おいてから再度そう尋ね直す。
制服を着ているのだからそうだろう、と思っていた。だが少女は首を横に振る。
「おばけには学校も試験も何にもないよ。あるのは『しけい』だけ」
「歯茎……」
いきなり物騒な単語が聞こえたため脳の自己防衛機能がオートで作動した。俺のような小動物(並みのメンタルを持った人間)にはそういったものが備わっている。心臓がびっくりしちゃうから。
『学校も試験もないが歯ぐきはある』と呟くユーモラスなおばけになった。
だが間髪入れずに「死刑ったって実際もう死んでるんだけどね」と次なるユーモアをぶち込んでくる。このタイミングで自虐方向からの一撃は重い。
「ここで毎日あたし八つ裂きにされてるんだよ」
「歯ぐきを?」
「は?」
は? という意見はごもっともであった。
脳内での一人遊びも板についている。
とにかくそんなしょうもない現実逃避をしてしまうくらい、その内容をへらへらと語る彼女の姿も含めて俺は相当なショックを受けていた。
語るところによれば、基本的には地獄をあてもなく歩き回り、一日一回どこかへ呼び出されて体を八つ裂きにされ、生きているあいだは想像もしなかったような苦痛を味わい、その後フワッと風が吹くと元通りになり、次の一日が始まる。その繰り返し。そういう生活を送っているらしい。壊されて直されて壊されて、「つい最近どこかで聞いたような話だねえ」と笑い、今度は俺が顔をこわばらせる番だった。
「そんなことを、これからもずっと?」
「どのくらいかは分かんない。時間の感覚ないんだよね。罪を償い終えるまでは本当にそれの繰り返しなんだってさ。たまんないよね」
「償い終えるって、その罰を何回受ければ……」
「事前講習で聞いたのでは、十万九千五百回だったかなあ」
じゅーまんきゅーせんごひゃっかい。
つまり十万九千五百日。ちょうど三百年間ってことになる。
衝撃で二の句の継げない俺を置いて、講習のときさあ、と少女は喋り続ける。
「資料配られたんだけど頭悪いから次どこ行ったらいいかとか分かんなくて。勘でてきとうに行動してたらいろいろ間違えちゃって『分からないならどうして訊こうとしないんだ』ってすっごく怒られたの。訊けるわけないじゃん? 職員、半裸で頭部が牛やら馬かと思えば斧まで持ってるんだよ? あんなのに気軽に質問できる女学生なんていますかって。で死ぬ前もよく同じような責められ方してたなあとか思ったら笑っちゃって、そしたらまた結構怒られて……」
微笑しながら皿のドーナツを手に取る彼女を見て、どうしてそんなに楽しそうにしていられるんだと、そう訊きたくなる。
わずかな沈黙がおとずれる。少女は持ったドーナツを口へ運ぶわけでもなく少しのあいだ見つめていた。ドーナツ自体を観察しているのか、穴を通して向こう側を見ているのかは分からない。
と思っていると、傍らのフォークを手に取ってそれをずたずたにし、その断面を見つめはじめた。観察していたらしい。どうしてそんなことをするのかは謎だが、とりあえずお行儀はよくない。
そんなわけでこちらから言いたいことはたくさんあって、ありすぎてまとまらない。言葉が出口で大渋滞を起こしていた。少女は観察し終えたのか手に持ったそれを口へ運んでもぐもぐしながらこちらを向いて、俺がじっと見ていることに気づいたのか少しきまりが悪そうにし、飲み込んでからごまかすように口を開いた。
「お兄さん、生きてて楽しい? ちゃんと生きれてる?」
インターネットにいるネガティブな人みたいな質問をしてくる。初対面の人にふるような話題じゃないだろとも思うが、ふざけているようで先ほどとは打って変わっての真剣な表情に面食らう。彼女はやはりどこか異質だ。情緒がスイッチのオンオフで制御されているような印象を受けた。
しかしここまでの流れでそんな軽蔑されるような部分があっただろうかと若干ダメージを受けつつ、フリーターだからなあ、とややわざとらしい表情を作って言いながら一人で合点を行かせていると、ううんもっとミクロな話だよ、と言う。
「ミクロってのはどういう意味だ」
「ミクロでありマクロでもあるしホロンとしての人間の一側面にスポットライトを当てての極めて理知的な質問だと言えば聞こえはいいかな」
「意味がありそうでないことを言うなよ」
「ここまで全部そんな感じでしょ?」
雑談ってそんなもんでいいんじゃないの? と笑いつつ「あー、友達いる?」と付け加えてきた。
「いない。昔いた。今いない」
「じゃああたしとおんなじだね。昔いて、今いない。ってここ人間自体いないやないかい! みたいな。これインフェルノジョークね」
そんな単語は聞いたことがない。
「本当に昔はいたの? クラスに溶け込めてたの? そんなデブなのに」
「うるさい、デブが嫌われるのは夏だけだ」
「ああでもあたし小学校の頃は友達いなかったな。うさぎを友達にカウントしていいならいたけど」
「…………」
おどけて言う内容がさっきから一つも洒落になっていない。
なんとなく意外だった。狭い適当な付き合いだけで生きてきた自分とは明らかに違うタイプの、学校でいえば教室の真ん中にいるような女の子に見えていたから。
「飼育係だったからね。知ってる? うさぎすっごいかわいいんだよ。暇なときはいつも小屋に行って話しかけてたなあ。何言っても表情が変わらないのがまたかわいくてさ。しかも自分のウンチ食べるんだよ。そんな人いる?」
「いねえよ」
それより最初の質問の意図はなんなんだ、というような困惑が表情に出てしまっていたのか、「あのね」と少女は語り出した。
「お兄さん、生きにくそうだなと思ったから」
そんな言葉を聞いて、いやお前が言うなよと喉まで出かかる。理由を尋ねれば「あたしを警戒しないから」とのことだった。全くふざけている。
「ここ等活地獄っていうんだよ。体を破壊されたあと風が吹いて『等しく活きかえる』って意味らしいけど。どういう人の集まる場所かも分かってるよね。『生前、生き物の命をいたずらに断ってきた罪人』だよ。あたしも例外じゃないし」
ねえ、怖くないの? と彼女は言う。
恐怖を完全に忘れていたわけではない。また少し体に緊張が走る。この少女は何かの間違いでここにいるのだと、心で自分に言い聞かせていたことがはっきりと否定されてしまった。
じゃあなぜ普通に会話に付き合っていたのか? それを訊かれれば、まあ理由は一つしかない。
実際に話してみた感じで、そんなに悪い子だとは思えなかったから――そう口にした。妙に恥ずかしくて、先細りの小声になってしまった。
言動の雰囲気に微妙な『何か違う』を感じていたのも事実だけれど、それでも話を遮られてしゅんとしていたり初対面の俺に対して色々なことを子供みたいに喋りかけてくる様子を見ていたら、この子が積極的にこちらへ危害を加えてくるような極悪人だなんて思いたくなかった。
気づけば少女はこちらを見ていた。しばし呆気にとられたようになっていたかと思うと、突然その顔にくしゃっと感情が表れる。笑い出したのだ。
「お人良しすぎだって。本当それじゃこの先苦労すると思うよ。あたしと違って先があるんだから、あはは! これもインジョね」
「ババアみてえなセンスだなおい」
それは今日ここで彼女が見せた中で一番の笑顔だったが、純粋な笑みではなく、どこかに矯正しえないほど大きな歪みを湛えているように思えた。その複雑な色を見て初めて俺は、彼女の生の部分に少しだけ触れられたような感覚を覚える。
でも安心して、あたしは人殺したことなんてないから……と少女は言う。
じゃあなんで、とほとんど反射的に聞き返してしまう。すると少女は、訊きたい? と、ものすごく話したげに尋ねてくる。
ここに来てから初めて人間に会った、という言葉を思い出す。こちらが黙って頷くと、少女は冷めたコーヒーを飲み干し、息をつく。興奮した声色を整えているかのような沈黙の後、ゆっくりと話し始めた。
――小学生の頃、友達いなかったって言ったじゃん。周りになじめなかったんだよ。まあ孤立した直接の理由は些細なことばっかりで、甘いものが苦手ってだけで人間じゃないみたいに扱われたこともあったなあ。笑っちゃうよね。
あと話すのも下手だったし。話したいこといっぱいあって一方的に喋っちゃうからからキャッチボールができなくて。実は今これでもまだ上手くなった方なんだよ。自分で言うのもなんだけど中学のときはもっと酷かった。喋ってないときは代わりに頭が動いちゃうのもしんどい。色んなこと考えちゃうし友達と別れて一人の帰り道ではいつも消えたくてしょうがなかったよ。
そんでね、あたし昔から何にでもすごい興味持っちゃう性格で、何かが気になりだすと止まんないんだよね。だから会話の中で相手との距離も考えずに踏み込んだ質問しちゃって引かれたり。お兄さんはあたしにいろいろ訊かれて嫌じゃなかった? ごめんね。あと並んで歩きながら話してる途中に周りそっちのけで道に生えてる花観察しちゃったり、そりゃ嫌われるよねって感じで……。
たははと笑う。とてもまとまっているとは言えない長い自虐を、それでも必死に要素を拾って追いかけた。
高校を卒業してから俺が過ごしてきた時間を顧みれば、反省と贖罪だけを積み重ねて孤独に日々を食っていくことの辛さが少しくらいは分かるつもりだ。
拷問のような毎日を、彼女は幼い頃から自分に強いてきたのだと思う。無論それを望んではいないだろう。自動的にそう動いてしまう頭の飼い慣らしかたを、長く生きた人々なら知っているのだろうか? 少女が誰かに向かって喋り続けるのも俺が売る相手のいないドーナツを揚げ続けるのも、全くもって一時的な麻酔でしかない。
「ある日、小屋のうさぎがみんな引き裂かれて死んでるのが発見されてたんだけど」
なぜかよりによってこのタイミングで少女は皿の上の欠片を口へ運ぶ。
「そのときも周りから当然のようにあたしが犯人にされたんだ。普段から出入りしてるのはあいつだけだから怪しいって」
本当に、クリームの甘い匂いに乗せて語られるような話ではないだろうと思う。
聞くかぎりうさぎはこの子にとって唯一の友達だったのだ。疎外してそのような孤独に追い込んだのは自分たちなのに、あろうことかその友達を殺した疑いをかけるなんて。集団の悪意にかかればそんな不条理をも突き通されてしまうのか。
「おかしいよね?」
「おかしい」
「まあ殺したのあたしなんだけど」
「なんでやねん」
なんだその不謹慎なボケは、といった言葉を「なん」までで呑み込む。
この話の主題がなんだったかを思い出せば、彼女の告白は完全にそのつじつまが合ってしまっているわけなのだった。
続く言葉により、その犯行の動機および経緯については
(1)昼に図鑑で内臓を見た
(2)放課後いつものように飼育小屋へ行った
(3)気になった
(4)実行
(5)3~4繰り返し
(6)後悔等
と非常に明快な形で説明がなされた。
一般に行動原理のシンプルさと狂気の度合いは比例すると考えていい。詰まるところ急に殺したくなったから殺しましたと言っているわけで、誰にでも理解できるぶん誰一人理解できないだろう。
「引いたでしょ?」
「引いた」
先ほどまで罪人という札だけぶら下げた少女の隠し持ったアンノウンな刃物に怯えていたわけだが、ここまではっきりとお狂いになられた部分を突きつけられると逆に冷静になり、乾いた笑いすらこみ上げてきてしまう。
好奇心は猫をもと言うがうさぎを殺してしまったわけである。吐き出すような、懺悔するような声色。何より彼女が惨殺したうさぎは彼女が唯一心を許せる存在だったというではないか。
――信じてもらえないかもしれないけど、普通の人に当然ついてるブレーキみたいなものが、生まれつきあたしにはなかった。というより、あたしの体なのにアクセルを踏む人間があたし以外にもう一人いるみたいな……。
少女はそうも語った。頭が痒くなると反射的に掻いちゃうようなもんだろう、と冗談で言うと「近いかも」と笑っていた。「それの我慢できないくらいのやつ」とのことだ。
ついでに言えば彼女は自殺したらしい。ここまでの話で薄々感づいてはいたのでそれほどの驚きはなかった。もはやこの場所も彼女の存在も死の匂いが強すぎて麻痺してきている。
「命を粗末にした罪を裁かれる地獄だから、うさぎの件より自分で自分の命を絶ったことが大きかったりするのかもね。牛頭も馬頭も教えてくれなかったけど」
「それより、中学では友達がいたって話じゃなかったか?」
「いいとこ突いてくるね」
そう言って少女は謎の横文字を発声した。一瞬全く意味が分からなかったが、どうやら古いテレビゲームの名前らしい。知ってる? と尋ねてくる。知らないと答える。
「いわゆるアクションアドベンチャーなんだけどね。中盤であるアイテムを入手し忘れると、しばらく進んだところで詰むの。引き返せないから強制ゲームオーバーになる」
どこへ向かってこの話をしているのかいまいち先が見えなかったが、ひとまず黙って聞いていた。
「賢者を名乗る人がいきなり出てきて『お前は冒険を続けるために必要なものを手に入れ損ねた。残念だがこれ以上先に進むことはできない』って言われて、画面にでっかくGAME OVERって出て終わり。怖いでしょ?」
「確かにちょっと不気味というか、びっくりするかもしれないな」
「でもね、本当に怖いのはその後」
にやりとわざとらしく笑う。
「この場合は主人公が死んだわけじゃないから、GAME OVERが表示された状態でも操作できるの。悲壮感たっぷりの音楽をバックにね。方向キーを入れると歩くしジャンプもする」
少女は指二本を机の上に歩かせ、軽くジェスチャーを入れながら話している。
「その状態でちょっと歩くと、湖に落ちるんだけど。普通は溺れて暴れる主人公のアクションが入るのに、すでにゲームオーバーになってるからかな、そのときは水に沈んで画面から消えてそのままなの。それが子供のころすっごく怖かった」
「暴れないのがか?」
「そう。自殺したように見えたんだよね」
「…………」
「手足を動かすことはできるのに、もう先に進めないって宣告されて、どうしようもなくなって」
その言葉は少女の存在そのものと同質な死の気配をまとっていた。いわばゾンビのように彼女が動く死体とも言うべき存在であることを認識させられる。彼女が何を言わんとしているのか理解できたような気がした。
「あたしも中学に上がって、友達ができて。特別親しいわけではなかったけど、輪の中で普通にやれてたと思う。でも――」
うさぎを殺してしまったことに加え、小学校時代に一身に浴びた痛烈な敵意の記憶が、少女を湖へと引きずり込んだ。直接の原因はなんだったんだろう、誰かに追いつめられたわけでもない、それなりに楽しくやれていたはずだ、だが何かが引っかかったままだった、あるとき見えない壁にぶつかって、もう先に進めないと悟った、あとはもう自動操縦だった、自分の中にある何らかの仕掛けが自分を死へと突き動かした――。
そんなようなことを、彼女は語った。
「ありがと、こんな暗い話に付き合ってくれて。ほらあたし時間だけはたくさんあるでしょ。このゲームの話、ずーーっと歩きながらずーーーっと考えてて、もう誰かに発表したくてしょうがなかったんだよね。あぁすっきりした」
大きく伸び。気づけばドーナツはなくなり、コーヒーのカップも空になっている。
「結局これ全体何が言いたかったかっていうとさ、ほら、もう生前のことぜんぶ笑い話なんだよ。ここでは傷つけたり傷つけられたりする心配もほぼないし、あたしなんかこの好奇心があるから暗闇の中をどこまでも歩いていくだけの毎日だって退屈しない、まあ一回転んじゃったけど案外なんとかなっていけるんだなって思ったよ、お兄さんなんかまだ命あるんだし、どんな辛いことあっても八つ裂きよりマシだろうし気楽に生きちゃったらいいんじゃないかな。あっ今けっこう流暢に喋れたなあ」
そして見せる笑顔がまた、直視できないほどに眩しかった。
俺は本当に死人のような佇まいをしていたのだろう。それで、こんな小さな少女に慰められていたのだと思うとかなり情けなくなってくる。
少女は席を立つ。そろそろ例の一日一回の死刑の時間なので、行かなくてはならないらしい。俺もそれを見送るために立ち上がった。
「お兄さん、握手して」
「……いいけど、何で」
「多分もう会えないから」
「えっ?」
全く予想外の言葉にしばし固まる。
少女によると、この空間は場所場所の繋がりが物理法則を無視してねじれにねじれている上、全体がこのような暗闇に包まれすぐ目の前に何があるかすらまともに視認できない状態のため、ある一点を目指して進んでいくということが実質不可能であるという。
要するに歩いていくごと違う場所に行きつくわけで、彼女がこの屋台の明かりの下へ出てきたのもたまたまであるらしい。それが本当なら今まで誰もここを訪れなかったのにも合点が行く。そして一度ここを離れたらもう同じ方向に同じ距離を引き返しても別の場所なわけだ。おまけに地獄は砂漠どころか宇宙のように果てしないとか。確かにランダム移動で宇宙の一点に再び到達できる確率は文字通りの天文学的な数値だろう。なお死刑の時間になるとどこにいようが闇のすぐ向こうがそれ用の場所に繋がり、そこへ向かって歩いていくことになっているらしい。
デブな上に緊張しっぱなしだった俺の手は拭いても少し湿っており、少女の手を握ると若干嫌な顔をされる。そっちから求めてきたくせにひどい話だ。
「今すぐ痩せてよ」
「無茶言うな」
「じゃあ次会う時までに痩せといて」
「会えないんじゃなかったのか?」
「ま、確率は限りなく低いけどゼロじゃないからね。こっちあと数百年はこの生活なわけだし?」
「そうか。数百年ありゃ痩せるのなんか余裕だな」
「うっわダメだこの人……死ぬまでデブのままだよ……」
やがて、握った手も離れた。
地獄の時計に急かされるようにして、その口が名残惜しげに食事のお礼と別れの挨拶を告げる。偶然に運ばれてきた短い時間が終わろうとしている。明日からはまたお互い一人きりの生活に戻るのだ。
こちらに向けられた背中を見て、突然俺は焦燥に駆られる。
――本当にこのまま別れてしまっていいのか?
大した交流をしたわけではなかった。ただ単に店の売り物を提供して、愚痴に少し付き合っただけだ。だが少女の笑顔に少し元気づけられたことを思い出す。
それなのに俺は何も返せていない。去っていくその手に微量な汗を擦り付けただけで、何ひとつ握らせることができていないじゃないか。
俺はこの子が長い旅の末に初めて出会った生きた人間なんだ。孤独と苦痛の無間に苛まれつつ歩き続けてやっと見えた光、それは無口なコミュ障野郎がバイトしてる屋台の提灯でした、なんてことにしてしまっていいのか。
ここで気の利いた言葉をかけてやれなくて、俺はなんのためにのうのうと生きてるんだ。
考える。
言うべき言葉が出てこない。悔しかった。語る言葉を持たないならば、いっそ抱きしめてしまおうか。しかし俺のようなデブに抱かれて嬉しいものか。地獄まで来て新たなトラウマを残すような結果になったらどうする?
最悪だった。今までずっと俺はそんなふうに何もかも自分でブレーキをかける生き方をしてきた。まさに自動だ。どうして自分自身の制止さえ振り切ることができない? 一歩を踏み込まなければならないのに!
思わずその去っていく後ろ姿に向けて叫んでいた。
何の準備もない。ただ「おい!」と一言だけ。呼びかけようにも名前すら訊いていなかったのに気づく。
そして、少女が振り返った。
俺は言葉を失う。
その顔が――涙でグシャグシャだったからだ。
「ごめんね」
しゃくり上げつつ、なぜか謝る。
いたたまれなくなって歩み寄る。震えていた。その肩をそっと、抱きしめてやる……ことはできず、右手をこちらの両手で包み込むように握りしめてやる、くらいが精一杯だった。それでも今までの自分ではとても考えられない行動だ。
少女は左手で涙を拭いながら言葉を続ける。
「いてくれて、ありがとう」
だんだんその姿がぼやけていく。体の触れている部分から確かに体温は伝わるのに、存在だけが遠のいていくような不思議な感覚。時間が押しているせいで強制転移でも始まったのだろうか。地獄、思ったより狭量な場所だ。
そして、なんとか最後の一言を搾り出す。
「あのさ」
永遠の別れの儀式をしめくくるにしては、およそ最低な内容。
「……『等活』と『ドーナツ』って、ちょっと似てないか」
彼女の泣き腫らした目が一瞬きょとんと丸くなり、次に失笑したかと思えば、そのまま深い闇に溶かされるようにして――消えた。
あの地獄へ足を運ぶこともなくなったここ最近、その記憶の中の光景からは現実感も薄れつつある。
しかし紛れもなくそれは実際にあったことだ。握った手の体温や少女の声を嘘にすることなどできるはずがない。なおその後バイトをやめるまで、彼女はもちろん他の客が訪れることもとうとう一度もなかった。
「…………」
さて俺は今、とある場所に電話をかけている。
言うべき言葉がある。今日言わなければ意味がないのだ。本当は直接出向いて正面切って浴びせかけてやりたかったが思い止まる。モラルとの折り合いを付けての常識的な判断だ。とかなんとか実際のところ日和ったんだろう、と言われれば、そうだ。
呼び出しに応じる形で目的の相手が電話口にやってきて、久しく聞いていなかった名前を名乗る。
さて、なぜ今日なのか。今日という日が何なのか。
言うまでもない。
春の風吹く三月一日。
高校を卒業してから、ちょうど三年が経つのだ。
『自殺するだろうな』
「おいテメエ、俺はまだ全っ然生きてるぞ。ざまみろだ」
一方的にまくしたてて、そのままレスポンスを待つことなく通話を切った。ま、向こうはおそらくこちらの死を予言したことなど覚えていないだろう。その当時の奴が言い放った言葉に対して今、返事をしてやったのだ。時空電話である。イタ電とも言う。
ため息をついてベッドに身を投げると、だが実際生きているのか死んでいるのか、とまた自傷行為でしかないような思惟に没入していく。これは俺がそういう風に作られているので、なんとか付き合って生きていくしかない。
そして今もまだ、息をしているだけだ。
闇の中へと歩いていく少女の後ろ姿を幻視した。多分そんなに強い子ではない。それでも必死に永遠のような孤独の中で歩き続けていたのに、俺という人間が現れてしまったことが、ただそこにいるだけで中途半端に話なんか聞いてやってしまったことが、逆にその後の彼女を苦しめたのではないかと悩むこともあった。なぜあんな場所に屋台があって、その上わざわざ生きた人間を配置しているのか、今なら分かる気がする。
少女の最後の言葉を、俺は忘れる事が出来ない。
あの日、何かもっと他にしてやれることがあったのではないかと、幾度となく後悔の底に沈んでいる。
「さあ筋トレだ」
自動発声思考打ち切り機能が作動した。
ちなみに全然、痩せていない。