いつか空の中へ
いつか空の中へ
「君は本当の空を知らない。それはもちろん、君のせいではないのだけれど。僕はいつか君に本当の空を見せたい」
この手紙は、イギリスのオークションハウスに持ち込まれた革鞄の中から発見された。
その鞄自体、かなりの値打ち物である。だがこの手紙の価値はそれ以上のものだ。というのも鞄の元々の持ち主であり手紙の筆者でもある男は、エルマン・ド・モンフォールだったからである。
エルマンの鞄をオークションハウスに持ち込んだのは彼の遺族であるが、遺族たちはこの手紙の存在を知らなかった。鞄は二重底になっており、相当注意深く調べなければ二重底の存在にすら気づき得なかったからだ。
遺族にさえもこの手紙を隠し抜いたのは羞恥心のゆえか、それとも他の理由か。手紙はそれを語らない。
さて、フランス現代史に詳しければエルマンの名を聞いたことがあるかも知れない。第二次世界大戦の折、シャルル・ド・ゴール将軍と共にフランス奪還の為に戦い、「青の王」の名で畏敬の念を受けていたパイロットだ。
ヨーロッパの大国であるフランスは、しかし、第二次世界大戦の最中ドイツに敗北を喫している。首都パリはあえなく陥落し、多くの領土がドイツの占領下に置かれた。
だがフランスは一八世紀の革命以来、自由を尊ぶ国だ。敗北してもなお、自分たちを隷属させようとする者に敢然と立ち向かった。
後にフランス大統領となるシャルル・ド・ゴール将軍はイギリスに亡命、ロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成し、故国フランスを取り戻さんと当時世界最強国といわれていたドイツに牙を剥く。
開祖は十字軍に参加した騎士という名門に生まれたエルマンはこの「自由フランス」に身を投じた者の一人だ。
一見長閑な風景を描いたように見えるこの手紙も、砲弾が飛び交う戦の空を描いたものである。エルマンがこの手紙を書いていた頃、風や鳥の声が響くだけの空を見ることなどなかったはずなのだから。
それでも彼は、手紙の中であくまでも空の美しさだけを綴った。
「僕は運良く、空の美しさを知っている。
昼の空は天辺から色が降って来るんだ。遙か遠く、宇宙の果てから、黒に近い紺青が降ってくる。その青は天頂から離れるほどに徐々に薄くなっていって、水平線に辿り着く頃には眩しいほどの純白に輝くんだ。それでも海に落ちた青は、水面を淡く染め上げる。すべての色が空から生まれているように見える。これが昼の空なんだ。
夕方になると、空の世界は反転する。海の色が君の髪にも似た、深い黒になるんだ。そこから青が立ち上り、天上に向かうほどに色は力を失う。漆黒の海と、しらじらした空のはざまには夕日の、この世界を惜しむような黄金が煌めくんだ。
僕はいつか君に、こういう空を見せたい。いや、いつか君を本当の空の中へ連れていきたい。神が僕らを祝福しているのだと確信出来る、本当の空の中へ」
先にも述べたように、この手紙が書かれていたのはいつ果てるとも知れない戦争のただ中だ。二度と祖国の地を踏むことがないかも知れない戦という現実から逃げ、空虚な妄想に浸っているようにも読めよう。それほどに、エルマンの綴る空は美しい。
この手紙の宛先は、ジャンヌ・リシャール。
手紙が書かれた頃は、パリのノートルダム寺院の近くにあるカフェーでウエイトレスとして働いていた女性だ。黒髪に黒目のジャンヌはパリジェンヌらしく、百花の香るような女性であったという。頭の回転も良く、ウイットを求めるパリっ子たちには随分贔屓にされていたようだ。
但し、ジャンヌの出生は、エルマンのそれとは対照的に芳しくないものである。父親はどこの誰とも解らず、母親は春を売って糊口をしのいでいた女性だった。ジャンヌ自身もごく少女の頃に娼婦であったという説があるが、この点に関しては否定的な見解も多い。
ジャンヌがエルマンと出会ったのは、彼女が勤めていたカフェーであった。ローマン・カトリックの伝統を守り、ラテン語で正餐やミサを行うような旧家育ちのおとこと、泥を啜って生き延びてきたのであろうおんな。全く異なる人生が交錯することこそ、パリのカフェーの醍醐味である。
だが普通ならば、両者の交錯は一瞬のことだ。後々にまで及ぶことはない。混迷の時代だからこそ二人の人生が連動したというのは、何とも皮肉な話であろう。
エルマン・ド・モンフォールが外から祖国フランスを取り戻そうとしていたその時、ジャンヌ・リシャールは国の内側から祖国を奪還しようとしていたのだ。
レジスタンス活動である。
エルマンが故国にいるジャンヌに手紙を書いたように、ジャンヌもまた、エルマンに宛てた手紙を綴っていた。
「親愛なるエリィ、今頃どこの空を飛んでるの? この前聞いた話だとアフリカだったかな。きっと綺麗な空を見てるんでしょうね」
ドイツ軍に占領されていたパリでは人や物の、そして情報の出入りが制限されていた。ドイツに対するフランスの抵抗運動など、なおのことである。
だがジャンヌはエルマンがどこにいるのかを知っていた。ジャンヌや他のレジスタンスたちが国外の情報を手に入れようとどれほど腐心していたのかが解ろうというものだ。
「羨ましいわよ、すっごくね。あんたが何より好きな空を飛んでいる間に、私は今のパリを見なくちゃならないんだから」
エルマンの手紙は堂々たる文字と表現力で綴られていたのに対し、ジャンヌの文字は決して綺麗ではなく、用いている言葉も話し言葉そのままだ。ここではそのまま転載することはしないが、手紙の原本では誤字も多い。エルマンとジャンヌでは、かほどに生まれ育ちに差があるということだ。
そして形式面だけではなく、内容の面でも二人の手紙は対極を歩んでいく。
「この国の誇りが自由、平等、博愛の精神だなんてことは私でも知ってるわ。毎年革命記念日を祝ってきたんだもの。私が革命のために何をした訳じゃないけれど、革命記念日には不思議と誇らしい気持ちになったものよ。あんたもそうだって言ってたわね? 皆もそう言っていたわ。それは嘘じゃないと思ってた。自由か死か。ここはこういう国だって、皆そんなこと知ってるはずだわ。
なのにね、最近のパリではどいつもこいつもドイツ軍に媚びを売って生きているの。そりゃね、ドイツ軍は案外紳士的よ。別に何か脅し取っていく訳じゃないし、目立って反抗しさえしなければ、逮捕されることだってないわ。お客さんにドイツ人が増えただけ。市民たちがそう言うのも解らないじゃない。
理屈では、ええ、そうね。そうだわ。
でもここはパリよ。フランス人がフランス人を選び、統治する国でしょう? レジスタンスに入るなんて馬鹿だとせせら笑って安穏と暮らす奴がいるなんて! いいえ、それどころか仲間を密告して小金を手に入れる奴までいるの。パリがこんなに誇りの無い街だなんて思わなかった!」
行間から炎のような怒りの立ち上るジャンヌの手紙にあるように、実際、ドイツ軍はフランスの人民を無闇に虐げることはなかった。ドイツの統治の邪魔になる相手だけを的確に排除していただけである。
だからこそ、地下に潜んだ抵抗運動はその火を広げかねていたのだ。
自分たちを虐げる暴君に対する怒りは爆発も蔓延もし易い。だが相手が優しいご主人様である場合、自分たちが支配されていることに対する怒りは持続し辛いのだ。反抗すれば激烈な罰が待っていると知っていれば、なおのことである。
身内を売ることには抵抗を覚えても、何もしなければ罪悪感も少ない。下げている自覚もないままに頭を垂れ平穏にその身を任せた者のことを後代から責めるのは、酷な話だ。
だが安閑を選んだ者と同時代を駈けたジャンヌは、かりそめの安穏を選んだ者を許さなかった。かつてフランスを自由の国へと変えた革命者たちのように。
燃えさかる炎のようだったジャンヌについて、ジャンヌと共に抵抗運動に身を投じ、戦後は政治家になったカトリーヌ・ブーケがこう語っている。
「あの頃の抵抗運動については、『神話』めいた話が幾つも出回っているでしょう? 私は自分が英雄などではなかったことを知っていますけれど、それでも『神話』に乗せられていい気になることがあるんです。けれどその度、私はジャンヌの横顔を思い出して冷や汗を掻くのですよ。
私は確かに、ジャンヌたちと共に抵抗運動に身を投じていました。ノートルダム寺院の近くにあったジャンヌの勤め先の喫茶店で。
私にも仲間にも、正しいことをしているという確信がありました。もちろん、今でもその考えは変わりません。
ですが同時に、私の心の中では悪魔が絶えず囁いていたのです。
『市民は立ち上がらない。私たちは孤独だ。他人の為に自分を犠牲にして戦ったその報償は、その他人によって密告され、この上なく残忍な方法で殺される未来だ。そうなる前に逃げなければ。大丈夫、これは裏切りじゃない。私は皆を密告しないのだから』
私がその囁きに乗らなかったのは、私が高潔であったからではありません。単に、そうするだけの勇気――蛮勇を持っていなかっただけの話です。私だけの話ではありません。仲間たちは皆、多かれ少なかれそんな感情を抱いたことがあったでしょう。勿論、澱のように濁った感情の話を互いにしたことはありません。もし誰か一人でも恐怖を口に出したら最後、全員が全員逃亡してしまう。あの頃、そんな空気がありました。だけれど表情や口調から動揺を完全に消し去れる訳ではないでしょう? 結局、私たちは皆、仲間であると同時に互いで互いを監視していたのです。
それなのに、ジャンヌだけは違いました。彼女だけはいつでも迷い無く抵抗の道を歩んでいたのです。見ているこちらが恐ろしくなるほどの、それは強固な意志でした。
時折空を見上げては微笑む。そのときの横顔以外に、ジャンヌの緩みのようなものを見たことはありません。
『あなたには怖いものがないのね、ジャンヌ』
確か、一九四一年の冬の夜のことです。パリが占領されたのは、この前年の夏。一年半に及ぶ水面下の戦いにも関わらず、私たちはフランスを取り戻す糸口すら手にしてはいませんでした。
自分が迷い、弱っている時ほど、人は迷いを持たない者を妬ましくも恐ろしくも思うことをあなたはご存じかしら?
正直を申しますとね。私は自分に自信がありました。名家と言わずともそれなりに裕福な古い家に生まれ、幼い頃から周囲に利発だと褒められ、実力で名門大学に入ってみせた。政治学を学んで一通りの成績を上げ、議員秘書をしていました。やがては政治家として肩で風切って歩いたことでしょう。戦争がなければ、ええ、自分に疑問を持つことすらなく、自分自身をパリの女王のように思いながら。
そんな私に比べて、ジャンヌは父親も知れない貧しい生まれで、勉学を修めた訳でもありません。職だって学生ですら出来るカフェーのウエイトレスです。彼女はごくありふれた女性にすぎなかった。
だから本来ならば私が彼女の背中を見ることなんてあり得なかったのです。少なくともあの頃の私はそう思っていました。
けれど私は私の意思すら自分で治めることが出来ませんでした。自由を謳いながら隷属という安住に心惹かれ、平等を尊ぶと言いながらジャンヌを見下し、博愛を標榜しながら仲間を見捨てることを考えていたのです。
ジャンヌは自由も平等も博愛もすべて体現し、自分の心に打ち勝つどころか、揺らぐ皆の精神の支柱になりながら、平然としていたというのに!
解りますか、格下だと思っていた人間にまざまざと敗北を見せられる気持ちが。私は主役で彼女は脇役だと思っていた。でも違うのです。本当のプリマドンナはジャンヌで、私は個性すらない群舞の一人でしかなかった。
私は隠せなかったし、隠そうともしなかったから、ジャンヌは気付いたでしょう。私の言葉が、憎しみから来る揶揄であると。
妬みと憎悪を根底に置いた悪意を向けられたというのに、ジャンヌは笑いました。
『今頃エリィや他の皆がどこかで戦っているのだから、私たちは孤独じゃあないのよ
怖がることなど何もないわ、カトリーヌ』
正論です。ええ、私だって解っていました。自分たちだけがドイツ軍と戦っている訳ではないということくらい。
それでも正論だけを糧に生きていくことが、どれほどの人間に出来るでしょうか。少なくとも、私には出来なかった。
ですがジャンヌは正論だけを掲げたのです。
ジャンヌの背後から淡い月光が射していたことを、良く覚えています。元々ジャンヌは美しい女性ですけれど、真珠のようなまろやかな光を受けた彼女の美しさは、あまりにも人とは隔たっていました。そう、それこそノートルダム――聖母マリアのように。
私は確かに、平気で理念を掲げたジャンヌを尊敬しました。
その一方で、私はより一層、ジャンヌが憎くなりました。
その憎しみが、私に思わせたのです。
ああ、ジャンヌはこの闘争を悦んでいるのだ。この闘争は、エルマンにそう頼まれてしているから惑わずに済むのだ、と。
エルマン・ド・モンフォールも私の友人です。正確には彼と私が大学の同級生で、放課後によく立ち寄ったのがジャンヌのいるカフェー。私たち三人は、こういう間柄でした。ですから私は、あの二人のことをよく知っているのです。
出逢ってすぐの頃から二人の気持ちが互いに向いていたこと。小さな会話――たとえば、滅多に快晴になることのないパリの空のこと、たとえばカフェーで出そうとしている新作メニュー、そんな小さな言葉を交わすことだけで辛うじて繋がっていられた彼らのことを。
ほほ、お若い方には解らないかも知れませんね。ですがこの自由の国フランスにも、個人間には――いえ、個人の関係だからこそ、乗り越え難い階級の差というものが存在するのです。今だってあるでしょう? 有形にせよ、無形にせよ、自分自身のことを自分の意思だけで決められるというものでもないのですから。戦前は、この生まれによって人を隔てる壁が今よりももっと強固だったのです。
エルマンの生まれは、元々爵位を持つ貴族の家系。対してジャンヌは父親さえ誰なのか解らない貧家の出。その二人に幸せな結末など、当たり前の時代にはあるはずがなかった。
だからこそ、ジャンヌとエルマンにはこの抵抗運動が歓喜すべきことなのではないか、と、荒んだ私の心には思えたのです。
ジャンヌはパリの、真白きノートルダム寺院の傍で。エルマンはフランスを離れたどこか遠くの青い空で。二人ともフランスの為に戦っているのです。敵を作ることで、戦うことで、二人はほんの一瞬だけでも共に生きることを許される。そこに歓喜しているのだと。
これは私の勝手な、私自身を守る為の妄想です。こんな風に彼女を貶めなければ、私はそれ以上に抵抗運動を続けられなかった。
でなければ、私はいつか抵抗運動をも憎んだでしょう。可憐な聖女によって与えられた『正しい』闘争の中で虫のように死んでいくかも知れない、決して華々しく人の中心になることはない歴史の端役として」
誤解のなきように書き添えておくが、この証言をしたカトリーヌ・ブーケは決して卑怯な人間ではない。パリが陥落したとき、人口の半分までがパリを脱出して避難する中、名家の令嬢であったにも関わらず敢えてパリに残って戦うことを選んだことだけでも、カトリーヌは賞賛に値するだろう。加えて戦後も彼女は清廉な政治家として民を害するような腐敗した政治家を許さなかった。かつての仲間であろうとも、彼女はいつでも公正であり続けたのである。また、親を亡くして満足に勉強することも出来ない子供たちを支援する公的システム構築については、彼女以上の功労者はいまい。高齢になった今でも依頼があればどんなところへでも薄謝で講演に出掛ける。カトリーヌ・ブーケはそういう女性だ。
そのカトリーヌをしてここまで敬意と嫉妬の籠もった証言をさせるという一点だけでも、ジャンヌ・リシャールの異質さが解るだろう。
ジャンヌが抵抗運動に一切疑問を持たなかったようだという点については、カトリーヌ以外の者の証言も一致している。ノートルダム寺院の近くで抵抗運動に身を投じていた者たちがジャンヌのもと団結を深めていったのは自然の流れだ。
さて、ジャンヌの怒りを手紙でぶつけられたエルマンもまた堅固な抵抗の信念を持っていた。その姿勢と戦績がエルマンを「青の王」とさえ呼ばれる英雄へと押し上げたのだ。
「エルマン・ド・モンフォール少佐――まあ、当時少佐だったので、そう呼ばせていただきますがね。少佐は確かに英雄でしたよ。戦績も抜群ですし、ド・ゴール将軍ばりに意思を曲げない。それにあの、ギリシア彫刻のような精悍な見てくれでしょう? 他の部隊の連中には結構崇拝者がいましたよ。直接の部下である俺は結構妬まれたものでした」
大戦中のエルマンについてこう証言したのは、ルネ・グルイヤール。エルマンの部下であった当時の階級でいえば大尉であり、戦後も除隊することなく冷戦の時代の空軍軍人であり続けた剛毅の男である。
「『青の王』の名を奉った奴は慧眼ですね。空の飛び方一つとっても、ド・モンフォール少佐は天才だった。離陸も着陸も、どんな風のときだってぴたっと決まっていて、揺れることさえなかった。あの人の精神がそうであったように堅牢で、彼が戻って来ないことなど部隊の誰一人にさえ想像もさせなかった。
そういうところが良かったんでしょうね。
イギリスに逃れてフランスの奪還を試みた『自由フランス』の軍人は、最終的に四十万人に達しました。結果だけ見れば、ド・ゴール将軍の指揮のもと、多くは故国の地を踏むことが出来たと言えるでしょう。
ですが損害が――いえ、死傷者がゼロであった訳ではありません。フランスから遠く離れたアフリカの、青い空の中に消えていった奴も幾らもいます。
それを嘆くな、と言った奴もありました。当時アフリカはフランスの植民地だったので、アフリカも大枠では祖国になる。それにフランス本土の空の青はやけに薄くて、一年を通じても雲一つない快晴なんてほとんどないのに比べて、アフリカの空は鮮やかだ。だから却って良い死に場所だろう、とね。
でも、所詮それは欺瞞です。発言した者も、された者も、そんなことはよく解っていた。
どうせ死ぬならばあのくすんだ空の下で、たとえドブネズミに体を喰われるような惨めな最期でも構わないから、と、泣きわめいた大の男を幾人も見ましたよ。
泣くことも、嘆くことも、恥ずかしいことだとは俺には到底思えませんね。誰しも人生の終わり位は自分の幸せの総てがある場所にいたいものですから。
でも恐怖ならまだいい。自分たちが間違ったことをしているのではないか、とまで考え始めたらもう駄目ですね。暫く後方に下げなければならなくなる。怯え、自分を信じられなくなった者ほど脆いものはありませんから。
空では常勝のド・モンフォール少佐が崇敬される理由も解ろうというものでしょう? 自分たちを護ってくれるかも知れない、自分たちが正しいと言ってくれる人間に縋りたいものなんですよ。どんなに自分を鍛えた軍人であってもね。
とはいえ、ド・モンフォール少佐を『英雄』に押し上げたのは、少佐の戦績と精神ばかりではありません。少佐があまり他人との交わりを好いておられなかったこともあります。
休養も軍人の大切な仕事です。皆それぞれに自分の身体や心を休めていました。酒や悪所、戦場にはそういう昏い気晴らしがつきものです。ですが少佐は空き時間になると、食事か睡眠か、フランス本土の方の空を見るかのどれかでしたね。故郷を懐かしんで空を見る奴は大勢いましたが、それとは少し違う。そうですね、俺の勝手な思い込みで良いのならば、それはまるで憧れを見ているような視線だったと思います。そういう孤高が、彼の『英雄』という『神話』を高めたのでしょう。
俺は任務以外で少佐にはあまり話しかけないようにしていたのですが、一度だけ好奇心に駆られて話し掛けたことがあります。
『少佐は本当に空がお好きですね』
アフリカの灼熱に晒されたざらざらした岩にもたれ掛かって空を見ていらした少佐は、間髪入れずに応えて下さいましたよ。
『ああ、好きだとも』
フランス人としてはいっそ不道徳な態度ですね。冗談の一つも交えずに真摯な答えを返すなど。
二の句が継げなかった俺の顔が余程面白かったのか、少佐は珍しく低い声で笑い声を立てていらっしゃいましたよ。
『早くフランス本土の空を飛びたいものだな。そうは思わないか、グルイヤール』
『本国に戻れると確信していらっしゃるのですね、少佐は』
言ってしまってから、すぐに少佐に一喝される覚悟を決めました。先にも言ったように、自分の正義を信じていなければ戦争など遂行出来るものではありません。俺が弱音めいたことを言ったことで、それを聞いた誰かが自分の大義を見失うこともあり得る。叱られても当然ということですよ。
『本国にも、中から本国を取り戻そうと考えている者がいる。我らが自分たちを信じることは、彼女たちを信じることに通じる。信じないはずがないだろう』
確かにあのとき、少佐は『彼女』と仰有いました。『青の王』にも思い浮かべる相手がいるのだということに、俺は幾分安堵したものです」
他者による推測はどうあれ、少なくともエルマンもジャンヌと同じようにフランスを取り戻すことに微塵も疑念を持たず――少なくとも疑念を持ったと思われるような姿を晒すことなく、戦い続けたということだ。
一方で二人はどちらも手紙を書き続けたのである。
「ドイツ軍に頭を下げる連中にも腹が立つけれど、同じレジスタンスの中にも頭に来る連中がいるの。私のことをジャンヌ・ダルクと引っかけて『パリの戦乙女』だなんていうのはまだ良い方。『ノートルダムの女王』なんて傑作でしょう?
ばかばかしい、何の為に戦っているのよ。私たちは私たちを誰にも支配されない為に戦っているのに、よりによって『女王』! こんなことばかりよ。嫌になるわ」
「やっと本国が見えてきたよ、ジャンヌ。ノルマンディーだ。パリまではまだ距離があるけれど、空の色はアフリカに比べて随分淡くなった。快晴を見ることも少ない。だけれど遙かな懐かしい、故国の色だ。
淡いと言っても地上から見た話だよ。飛べば、矢張りそこは本当の空だ。風防を開け、顔に触れる空気は氷のように冷たい。きんと冷えた青が、僕の思考をクリアにする。君もきっとそうなるのだろう。
君といつかこの空の中へこそ飛んで行きたいよ」
ジャンヌは怒りを。エルマンは空の美しさを描く。そして二人は、期せずして書いた。
「誰の許可も得ずに人を好きだと言える故国を取り戻したい。これは詰まらない感傷だろう。高潔さなどどこにもない。それでも自分が自分にそう命じる。それだけで十分だ」
それぞれの言葉で、それぞれの為に。
戦争は続き、一九四一年八月一九日。鮮やかな夏の盛りを迎えたパリは、ついにフランス自身の手に戻った。
まだドイツ軍の残党による銃弾が飛び交う中、シャンゼリゼ大通りをシャルル・ド・ゴール将軍以下「自由フランス」の軍人たちは平然として凱旋パレードを行った。
さなか、飛び出した一人のおんながいる。パレードから飛び出したおとこもあった。
パリ市民たちの歓呼の声が一際高くなる。
暴力によってこの世界のあちこちに引き裂かれた人々の悲劇の終焉を象徴するように抱き合った男女への、それは祝福の声だった。
こうして、まるで美しい夢物語のような再会を果たしたエルマンとジャンヌは、戦後、ひっそりと全ての公職から身を引いた。そしてパリを引き払い、再三の復職要請も断って生涯を農夫とその妻として過ごすことになる。パリを出たのはジャンヌの勲功にも関わらず、二人の関係を認めなかったエルマンの実家との縁を絶つ為であったと言われている。
さて――。
筆者には、敢えてここまで書かずにいた事実が二つある。
第一に、主にジャンヌとエルマンの後代からの信奉者たちによって、この手紙の公開が非難されていたことだ。
ご存じだろうか。「ノートルダムの女王」「パリの戦乙女」ジャンヌ・リシャールの最も名高いあだ名が「ノートルダムの聖女」であったことを。
ジャンヌは生前、誰かを口に出して非難することは決してなかったという。抵抗運動のさなか仲間に裏切られても寂しげに微笑むだけで、ただ凛として仲間を信じ、指導し、誰かを叱咤することすらなかったそうだ。
「ジャンヌはヒロインでした。とびきりのね。人を憎むことも、恨むことも知らない物語のお姫様のような、私たちとは違う人間でした」と、カトリーヌ・ブーケは証言している。
また、「青の王」ことエルマン・ド・モンフォールは、戦闘において味方の肝さえ冷やすほど、敵軍に対し冷徹な男であったという。空戦において彼は部下たちと三機一組で一機を撃つという中世的な騎士道精神とは真逆の方法を得意とし、次々に敵を空の藻くずとしたのである。ゆえに直属の部下からは血に飢えた殺人者だと敬して遠ざけられ、彼を崇拝する者は別部隊の者ばかりであったという。
「空がお好きですね、というのは、半ば皮肉で聞いたのですよ。そんなにも敵をもっともっと殺し尽くしたいのかという真意を込めてね」と、先に証言したルネ・グルイヤールなどは語っている。
野辺咲く菫のように微笑み、他者の心を踏みつることなど一度もなかったという「神話」を持つジャンヌが自身を焦がす怒りを吐き出していたことも、峻厳な軍人であるエルマンが空の美しさだけを綴っていたことも、これまで誰にも知られていなかったことだ。
なるほど、聖女の導く抵抗運動や、冷厳な英雄の戦う空戦の空という今までの「神話」を信じていたい者たちは彼らのそんな側面を見たくなかったに違いない。
だが同時代を生きた者たちは、こう言った。
「そう、ジャンヌは私たちや市民たちに腹を立てていたのですか。安心しました。これで私は、あの抵抗運動が人によって始められ、人の手によってなされたものだと胸を張り、そしてあの子を心ゆくまで憎むことが出来ますもの」
「そりゃ、少佐の中にだって綺麗なものはあるでしょうよ。敵を殺すだけの機械のような人だったら、俺たちはついていかなかったでしょうしね。直感的にそれを知っていた感じです。ああ、でも安心しましたよ。それは」
どちらも満面の笑みで、そう言っていた。
もう一つ、筆者には意図して書かなかったことがある。
エルマンとジャンヌの手紙は、どちらも封筒に入れる際に三つ折りにした線以外には汚れもしわもほとんどなかったことだ。
人や物の出入り、ことに情報の出入りが規制されていたあの時代のパリで、抵抗運動に身を投じていた女と、空軍パイロットの男がのんきに文通など出来るはずもない。
二人はこの手紙を、自分の心の中にいる相手に向けて書いただけだったのだ。パリの奪還に至るまでその手紙は封筒の中に仕舞われ、誰の目にも触れることはなかったのだろう。
ただ、鞄の中から発見されたとき、これらの手紙には開封された跡があった。二人の心は、想う相手のもとへと確かに届いていたのだろう。
二人のなきがらは今、パリを見下ろすモンマルトルの丘の上に埋葬されている。
だが私は、炎の花のようなおんなと清涼な風のようなおとこが、パリの淡い空の彼方――本当の空の中にいるのだと信じて已まない。