てぬるい店長とぼんくらな僕 Viewing:三崎秀④
「で、それはそうとして。
人生相談なんざよりも、こっちのが大事なんですよ。
ウチの看板、どうしてくれやがるんですか」
「……あ」
――すっかり忘れていた。
そうだ、そもそもの問題はそれだった。
珈琲にももう残りは無くて、一息つくことも許されない。
「えっと、……さっきも言った通り、そこはしっかり払います」
「どうやってです?」
「…………」
思いついたことはある。
けれど、どうしてか気恥ずかしくて言い出せない。
店長の言う通り、『気を張り詰めさせてた反動で、だいぶ思考がおかしなことになってる』のかもしれないし。
迂闊にそれを言い出すことは、僕にはまだできなかった。
こんなみっともないままの泣き顔で、言い出したい訳でもなかったんだ。
お互い沈黙が気にならない性質なのか、しばらく店内に静寂が満ちた。
……不意に、店長が呆れたように溜息漏らす。
こちらに視線も向けず、まるで興味がないように虚空を見定めて。
「まあ、さすがにこんな学生からすぐに毟れるとは思ってはいませんがね。
次来た時までに何か考えといてやります」
「す、すみません……」
次、か。
僕はまた、ここに来ていいのだろうか。
いや、来てもいいのだろう。
この店長は、そういう人だ。
「あ、そうだ。泥水と粘土細工の暴利セット、しめて1200円なので」
「…………」
そして、こういう人でもある。
ふ、と、苦笑が漏れる自分に驚くも、なかなかどうして悪くない。
こんなにも穏やかに、誰かの暴言を受け止める事が出来るなんて。
「……あの美味しさなのにそんな表現したら、バチが当たりますよ。
自分で暴利って言っちゃいますか」
「いいんですよ、元々採算考えてねーですし。で、看板はともかくそっちはどーなんですか」
「すみません……」
ほんとうはカッコつけて払いたいところだけど、学生身分には流石にキツい。
……美味いものには裏がある。文字通りの意味で。
「ま、ツケておいてあげるのですよ。どーかご贔屓に」
言って、顎の動きで僕に立ち上がることを促す店長。
……泣き過ぎて体に倦怠感はあるけれど、もうこの肩に重みはない。
二本の足で地面を踏みしめて、一歩。
振り向きざまに、印象深いひとの顔を見る。
だらー、っとテーブルに寝そべっただらしのない姿勢の店長。
見るからにふてぶてしくて、アンニュイで、やる気がない。
……だけど。
この薄暗くて、輝きなんてどこにもない――、
でも、穏やかで時の止まったような空間には、実にしっくりとくる。
一枚の絵画のようだ、と言っては、陳腐だけれども。
「ああ、一応補足しときますとね。先刻までの豚呼ばわりは9割がたあなた宛てじゃあねーのです。
あなたの目の前にいる、実年齢の割に中身は外見相応にクソガキのまんまのアラサー女に向けての言葉なので。
悪しからず」
どことなく自嘲の篭った、それでも落ち着いた微笑みのうつくしさを、僕は絶対に忘れない。
「……それでは、また」
からりらからり、と、ドアベルを鳴らして、僕は曇天の下に出る。
これからどうするかは、何となく決めていた。
……ひとまず、帰ろう。あの町に。
そして、今度こそあの町から逃げるのではなく、この町に来るために旅立とう。
店長は、次来たとき、と言っていたんだから。
弁償するための手段も、実はもう思いついている。
店を少しだけ振り返る。
入り口の壁、蔦に隠れた一角には、日焼けした一枚の紙が確かに張り付けてある。
『――バイト募集中』
うん、と頷き、前を向く。
胸を張って会いに来るために、一つの区切りをつけに行こう。
季節は冬の終わり。
そして、春の始まり。
張り詰めた空気を胸いっぱい吸い込んで、ただ、その冷たい心地よさに浸っていた。