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てちがい店長とぼんくらな僕  作者: ウラキタカチホ
てぬるい店長とぼんくらな僕
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てぬるい店長とぼんくらな僕 Viewing:三崎秀③

 いつの間にか雪が降り始めていた。

 3月の初旬も終わろうとする時期の、儚い粉雪。

 けれど、静かに静かに、深々と着実に――降り積もっていく。

 無音がここにはあった。


 いや、本当の意味では無音じゃあ、ない。

 車の通り過ぎる音。ブレーキの音。

 はしゃぐ子供の声。跳ねる水音。

 何かを打ち付ける音。おばさんたちの会話。

 鳥の囀り。僕たちの食事の音。

 時計の動く音。空調の僅かな回転音。


 そうしたそこにあるあらゆる音が、僕の、そしてきっと店長の耳に滑り込んでくる。

 レコードを聴く為の店だからなんだろうか。

 こんなにも世界は騒がしいと、僕はここでそれを知った。


 珈琲を口に含ませながら、僕はつと考える。

 これからどうしたらいいのか。目の前の店長に、何を言えばいいのか。

 暴力を振るったり罵倒したりする一方で、僕を諭したり食事をくれたり。

 何を考えているのかさっぱりわからない。

 一つ言えるのは、僕が看板を壊したからこうなった……ということだ。


 自己嫌悪する。ぐらぐらと頭が揺れて、その事しか考えられない。

 いくら受験に失敗――そう、失敗したんだ――して鬱屈していたからといって、

 社会規範から明らかに外れたことをしでかしてしまった。

 僕の人生に拭えない汚点を、連続で刻んでしまったんだ。


 声を出さないよう気を付けつつも、自嘲する。

 ……はは。まったく、店長の言う通りじゃないか。無様だ。

 親不孝の人でなしだ。落伍者だ。

 僕は屑だ。屑だ。屑だ。屑だ。屑だ。

 そう思っていれば、少しは諦めもつく。


 でも、だけど、だ。

 落伍者の僕だけど、だからこそ贖わなきゃいけない。

 それは最低限の義務だ。

 せめて自分の後始末くらいはしないと、更に家名に泥を塗ってしまう。

 それだけは、駄目だ。


 つまらないプライドなんて捨ててしまおう。

 自分は屑でしかないと受け入れて、エリート気取りなんてすっぱりやめてしまおう。それが僕に相応しい。

 まずは責任を取って、その後は弁償だ。溝浚いでも飯場でも何でもいい。

 とにかくお金を稼いでこの人に償いを。


 その後は、どうしようか。

 ……もう僕は浪人という汚名を一生濯ぐことは出来ないんだ。

 そう思うと、全てへのやる気が失せてくる。

 それ以上に家に負担をかけてこれ以上勉強を続ける訳にもいかない。

 どこかで手に職をつけて、ひっそりと一人で生きていくべきなのかもしれない。


「んで、貴様の畜生行為によって損害を受けたウチの看板の賠償についてですがね」


「……はい」


 絞り出すように、楽になるように。


「やった以上は。……責任は持ちます。マグロ漁船に乗っても、臓器を売り払っても構わない」


 自分を傷つける言葉が止まらない。

 酒なんて一切口にしたことは無いけれど、後から思えば、これはきっと酩酊だった。


「これで警察に突き出されるっていうなら、それならそれでいい。

 覚悟は、できたから。土方でもなんでも、ちゃんと稼いで返します」


 だからその言葉は、ほろ酔いを一気に覚ますバケツの水。


「黙らっしゃい」


「え?」


「ブヒブヒ以外の言葉ァ喚いてんじゃねーですよ、豚ぁぁ」


「な……」


 この人の感情は、よく分からないと思っていた。

 不機嫌そうな半目はいつも怒っているようで、だけど逆に、そこから絶対に揺るがないのだとも。

 ……だけど、今の店長は、目を見開いていた。本気の怒りだった。


「なーに悟ったようなことほざいてんですか。

 そういう自己完結はね、求めちゃあいないんですよ」


 露骨に苛々とした、店長の声。仕草。そして表情。

 息苦しい。

 本気の感情というのがこんなに圧を持つなんて、知らなかった。

 当然だ、僕は、いままでまっとうに友達なんて作ってきてやしない。


「偉そうにまあ……、責任持つ? 当然のことですよ、この腐れ敗北主義者が。

 素直に認めりゃあ許してもらえるとでも思ってやがるんですか?

 だいたいですね、私が一番気に食わねえのはそのさも反省してます――てな態度なんですよ。

 断言しましょう、その葡萄は酸っぱくなんてねーです。実に美味いと保証します。

 だけど、貴様は届かなかった。届かなかったんです。だから、自分を貶める。

 自分がダメ人間って事にしておけば、だから自分を仕方ないと慰める事が出来ますからね。

 まさしく自慰行為ってな訳ですよ。

 プライドを捨てたふりして、その実何よりも後生大事に抱え込んでるのくらい見通せないとでも?

 自分に浸ってんじゃねえよ気持ち悪い、恰好なんてつけさせねえ。

 もっと無様なとこを見せてもらわなきゃあ溜飲が下がらねえってもんです」


 なんだ。

 なんなんだよこれ。

 この人は一体何を言っているんだ。

 脳が理解を拒絶する。


「……なんだよ、流石に理不尽だろ!

 本当に僕は悪いと思ってるのに。本当に僕は、落ち込んでいるのに」


 そう言いたかったけど、できなかった。

 珈琲とアップルパイが逆流する。

 必死になって、口元を抑えた。その手さえ、カタカタと震えている。

 それを言ってしまえば、たぶん、僕は今度こそ自分を許せなくなる。

 ただ、店長をじっと見つめる事しかできなかった。

 ……人の瞳が綺麗なものだと、はじめて知った。


「豚呼ばわりが気に食わねえんですか?

 は! 私が人間と認めるのは使う頭のある連中だけですよ。

 まっとうに生きてりゃ誰だってやる通過儀礼さえこなせない奴なんてーのは豚です、豚。

 人権なんてもったいねー、パン尻に挟んで右手の指鼻に突っ込みつつ左手でボクシングしながら『いのちをだいじに』と叫んでるも同然です」


 ……時折、意味の分からない単語や文章が出てくるのは、僕に人生経験が足りないって事なんだろうか。

 打ちのめされるままの僕だけど、そんなことを考える安心がどこかにあった。

 誰のおかげかは、考えるまでもない。


「まさかこのネタがわっかんねえってんじゃねーでしょうね。

 これだから最近のガキは……。あー、またじぇねれーしょんぎゃっぷです。

 グルグル読みなさいグルグル、人生のバイブルです。ついでに言えばあの頃のガンガン作品は全部目を通しなさい。

 そしてスフォルツェンド攻防戦やアリアハン決戦に燃えるのです。

 ガンガンっ子こそ選ばれし民なのです、ざまあボンボン派ざまあ」


 よく分からないところで、店長がキレた。

 まくしたてて言い疲れたのか、店長は珈琲を含む。

 こくり、とちっちゃな喉が動いて、嚥下した。

 そうして今度は――数秒前のハイテンションとは打って変わって、淡々と、感情を落っことしたように語り始めた。


「よーく、分かりましたか?

 貴様はこんな場末の喫茶店の胡散臭え女店主ごときに罵倒される程度の人間です。

 高潔でも優秀でもなんでもない、どこにでもいるクソガキです。

 頭の悪い人間がやるような器物破損行為を堂々と仕出かす、最低野郎にも劣る戦場の蛭です。

 いいかげんその蛆の沸いた脳髄でも理解できましたよね」


「…………」


 ああ、また、視界がぼやける。

 僕はこんなに、感情を表に出す性質だったろうか。

 悔しい。

 ……本気で悔しいと、そう思った。


「それでいいんですよ。

 言ったでしょう? あなたは腐れ敗北主義者です。

 本懐も果たせず受験から逃げて、今度は安易に自分を貶める道を選ぶ。

 夢を諦める、その為の理由が欲しいだけだってのにね。

 まったく、欺瞞ですね。……どっかの誰かじゃねーんですから」


 限界だった。


「いいだろ、もう! 放っておいてくれよ……っ!

 そっとしてくれよぉ……」


 ……叫んだのは、何年振りだろう。

 いや、叫んだだけなら、数十分ぶりだ。

 数年ぶりなのは、それじゃない。

 看板を蹴った時みたいに、痛みのあまりにそうなることは確かにあった。

 けれど、それはただの生理反応。

 決して僕の心とは関係ない。


「……大丈夫です、大丈夫。

 幸いなことにここにいるのは人の心の分からないどーしようもねー畜生女だけです。

 思う存分吐き出したって、何も思わないし誰かに伝えるよーな事もしません。

 それでも、ロバの耳の穴よりはマシでしょうよ」


 不覚だ。

 自分の意志で、ぼろぼろ涙を零すこと。

 本気で、みっともなく泣き喚くこと。

 赤の他人の前で、僕は自分からそれを選んでしまっていた。


 泣きじゃくりながら、顔中を体液に塗れさせてくしゃくしゃにしながら。

 ありとあらゆる罵詈雑言と共に、心の澱を吐き出していく。

 自分の底にあったこれまでの不満やこれからの不安、

 弱いところ、脆いところ、自慢なところ、自虐したところ、

 後悔、未練、意地、恐怖、理想、現実、

 それら全部がごちゃごちゃになって、どの言葉が何を指しているのか自分ですら分からなかった。


 ……人前では優等生を気取りながら、ずっと内心誰かを見下していた。

 そうでもしなきゃ、耐えられなかった。

 苛められていて、自分には価値がないと思い込みそうで、勉強しか取り柄がなくて。

 だからそれに縋ることで、他の価値観を全部否定する事で、自分は優れた人間なんだという自尊心が僕を支えていた。

 結局はそれは自己嫌悪にしか、繋がらなかったけど。

 分かっていたんだ、そういう価値観は最低だって。

 誰かを蔑む事でしか安心できない自分こそが、僕をより苛立たせていたんだ。

 苛立ちは募り、それは余計に不安を煽って、だからこそ一瞬の安心のためにまた誰かを嘲笑って。

 いつの間にかこんなにも、歪んでしまっていた。


 そういう事、これまでの経験、全部、全部。

 この――初対面の、大人の女性に、ぶち撒け続けた。


 必死ですがって、その太腿に目頭を押し付けて、細っこい背中を掻き抱いて。

 僕は多分、この時、この人の姿を、顔を、こころの奥底に刻んだのだ。


 誰かに甘えたという事実は……これまでの僕の行動理念を、全部否定した。

 ぼきりと。

 さっき曲がって歪んだこれまでの僕の支え、“何か”が、今度こそ完全に折れて砕けた。


 だから後に残るのは、空っぽのこころ。

 そこに、ひとりの大人のひとが、するりと入り込んでいた。


「さて、ちゃーんと心は折れましたか?」


 言いながら、僕の背中を店長はぽんぽんと叩く。

 子供扱いされてるのがどうしてかとても嫌だったけど、やめて欲しくない、とも思う。

 身じろぎして頷くも、それを見ているのかどうなのか。

 まるで独り言であるかのように、店長は淡々と続けていく。


「今すぐ今後を決めろたー言いやしません。

 今のあなたはたぶん気を張り詰めさせてた反動で、だいぶ思考がおかしなことになってるでしょうしね。

 これからを考えるなら、も少し落ち着いたらにすべきです」


 だから、落ち着いたと思ったなら、と一拍置いて。


「一浪人生からやり直すか、オレンジ畑を耕すか。好きな方を選ぶと良いです」


 言い回しの意味はよく分からなかったけど――、ああ、そうなのかと、すんなりとそれを受け止められたと思う。


「未練残したままなあなあにしてちゃ、どっかの元高学歴ワーキングプアみたいになっちまうのですよ」


 その言葉は、誰に向けた言葉だったのか。

 一切の感情のない最後の台詞だけが、僕の鼓膜にこびりついて離れなかった。

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