てぬるい店長とぼんくらな僕 Viewing:三崎秀②
とりあえず、顔くらいは洗ってくるんで。
起きたばかりなんで一応花摘みも済ませときます。
顔色一つ変えずそう言った店長が店の奥へと姿を消して、数分。
僕は手持ち無沙汰のまんま、入り口に立ち尽くしていた。
座っていいとも言われなかったし、自分にその資格があるとも思えなかったから、その場から動けない。
何を考えたらいいのか、どうしたらいいのか分からなくて、とりあえず強烈な印象をもったあの人のことを考えて時間を潰す。
……あんな姿なのに、店長嬢には羞恥心ってものがないんだろうか。
どうにも初めて出会うタイプで、どう対応していいものかわからない。
柄が悪いのに妙に丁寧な口調で、そのくせ話の主導権を握られっぱなし。
厄介な人に絡まれたと思う。僕が十全に悪いことは自覚しているけど、数分前の自分の愚行を呪いたくて仕方がない。
今なら間違いなく逃げ出せるだろうし、そうしたいと囁く自分が確かにいたけど、
……負い目のせいだろうか、そうする気は起きなかった。
白く霞む息を吐くと、僕はぐるりと、暗く静謐な店の中を見渡す。
下手をしたら、雪の照り返しの分曇り空の外の方が明るいくらいだ。
まず目に入ったのは、素朴な打ちっ放しコンクリートの天井だった。
小さめの店には不釣り合いな、大きなプロペラのような物体――後日の店長曰く、シーリングファンだとのこと――がやけに印象深い。
木目も美しく磨き上げられたそれは、音も立てずに静かに、静かに回り続けている。
そのすぐ横には、オレンジ色の薄暗い光。
さっき、入り際に店長がヒーターと共に照明のスイッチを入れていた。
だというのに、ほとんどその効果を実感できていない。
まるで地下室だ。
そのまま視線をずらしていくと、煉瓦の壁に突き当たる。
店の内も、外も、びっしりと蔦に覆われたそれは、この喫茶店のどことなく裏寂れた退廃的な雰囲気に、良く似合っている。
まるで、フィルムの擦り切れた映画の中にいるかのようで、現実味がない。
生えていないのは、黒檀張りのカウンター、その周辺くらいだ。
その向こう側には、食器やコーヒーミル、酒瓶や紅茶缶、ボトルシップやブリキの玩具といった、
雑多なものが並べられた硝子棚。
……とてもじゃないけど、あの店長には似合わないなと、そう思う。
そして――最も目立つのは、もちろん。
カウンターのすぐそばに備え付けられた、年代モノの、大きなレコードプレーヤー。
真鍮の鈍い輝きが、いやに僕の心を惹き付ける。
ふらふらと、ふらふらと。
歩み寄りながら、魅入られたかのように手を伸ばし――、
「今度は泥棒行為ですか。このスカタン」
びくりと。
感電でもしたかのように全身が硬直し、弾けた油に怯えるが如く手を引き戻す。
「衝動的、ってーのは感心しませんねぇ。やるんならも少し計画的にやりなさい」
店長は相変わらずの半目の視線を僕に送りながら、呆れたように言葉を吐き出す。
……この人はどういう反応を僕に求めてるんだ。犯罪被害に遭いたいのだろうか?
「冗句ですよ冗句。場を和ませるための。TPOくらい悟れっつーんです」
やれやれ、とつまらなそうに、けれど皮肉気に口元を歪ませて、溜息をつく店長。
……いや、むしろTPOを弁えてるからだと思うんだけど。
ただでさえ今の僕は器物破損のせいでここにいるんだし。
「ま、とりあえずはそこらに座っててください。
……と!」
本当にただ顔を洗ってきただけなんだろう。
店長の服装は相変わらず女性のものとは思えないようなもののままで、
カウンターの中でしゃがんで何やらごそごそやっていた。
……気にはなったけど、あんな無防備な年下っぽい姿をじっと見ているのは何やらマズい気がするので、
適当な席を選んで腰を下ろし、窓の外を向く。
相変わらず雪が降りそうで降らない、気持ち悪い空模様のままだった。
何をやっているんだろう、僕は。
ぼうっと、虚空を眺めながら――今更になってそんなことを考えていた。
田園風景ばかりが広がるあの町にいるのが嫌で嫌でしょうがなくて、
高校の他の連中が青春とやらを謳歌する中、ずっとずっと勉強だけに時間全てを費やして、
友達だったはずの人たちを心のどこかで馬鹿にし続けて、それでも応援してくれた家族の期待を全部裏切って。
辛い。惨め。苦しい。醜悪。情けない。
合格発表までのおよそ10日間、きっと合格したろうと楽観的に観光なんかしていただけに、余計に心が痛かった。
「あれだけ大口叩いて……はは、これから、どうしろって言うんだよ」
これから、あそこへ帰るのか?
それだけは、嫌だった。
……どんな視線が僕に向けられるのかが、今からでも克明に想像できてしまう。
同情も憐みも優しさも軽蔑も、理解や慈愛でさえも、その全てが僕を苛むに違いない。
たとえ来年またチャンスがあるんだとしても、それまでの間にきっと心が折れるのは想像に難くなかった。
受験に落ちたというその事実よりも、周りからの扱いの方が僕を抉って刻むのだ。
「死ねばいいんじゃねえですか?」
不意に差し込まれたその言葉は、だからある意味救いにさえ思えてしまった。
「あ……」
そうか、と、こくりと頷こうとしたその瞬間、初めて店長が目を見開いて、表情を崩した様に見えた。
慌てていると、本当に一瞬だけそう見えたんだ。
けれど一呼吸の後には、軽蔑と嘲笑に満ちた半目のままに、
「……ふん。自分の意志がないんですか、あなたには。
こんなクソガキ同然の見た目のアラサー女の妄言に唯々諾々と従って? ブフゥッ……!
ぶーざーまーぶーざーまー、ろーうにんってぶーざーまっ、と。
ああ、ああ……、なんと美味なるかな。他人の不幸で飯がウマい!
至高にして究極! 荒岩さんちのお父さんもびっくりです。
親といえば、まったくこんな奴隷根性の子供を育て上げるなんて、大したものですねえあなたのご両親は!」
対面に座ってサーディンサンドの端を齧りながら、、楽しそうに、楽しそうに、歪んだ笑みを張り付ける店長がいた。
だから、今のは気のせいだとすぐに切り捨てる。アラサーという気になる言葉も意識しない。
本気で苛立った。
あからさま過ぎる挑発だ、さっきと同じ手だ。
外にいた時よりは少しは頭を整理できてる、こんな嫌がらせをいきなりされる不自然さにも気づいてる。
でも、分かっていても、言葉の選び方が一々僕をささくれ立たせてくれる。
僕の家族を侮辱する事だけは、許さない。
それが彼女の意図を見通すことを、妨げてるんだとしても。
「……あんたの言うとおりに死んでなんてやるものか。
僕の両親の何をあんたが知ってるって言うんだよ」
静かな、自分でも信じられないほど低い声が出た。
僕が看板を壊したのは事実だし、だからこそどんな罰だって受けるつもりだ。
でも、家族は関係ないだろ。
これ以上何か言ったなら、と、今にも掴み掛りそうな衝動を必死に堪える。
「だったら、生きればいい。別に難しくもない話です」
狂笑から一転、まるで何事もなかったかのように淡々と。
直前の表情が嘘であるかのように店長は、真摯な表情でこちらを向いた。
「謝罪します、確かに私はあなたの両親のことは何一つ知りません。
御免なさい。
……ったく、自分の意志、持ってるじゃないですか」
ふてぶてしさ溢るるはずのこの人の真面目な反応は酷く不気味にさえ感じられて、僕の行動をまたしても止める。
やりづらい。目を閉じ、ぎゅっと手を握り締める。
そんな態度されたら、何にもできないじゃないか。
この人のことが、分からない。
不気味で癇に障るはずなのに、どうしてか――少しだけ安心しているのも、不思議だった。
どんな酷いことを言ったって、この人ならと。
浮かせかけた腰を落ち着ける。深呼吸して、思考をリセット。
手玉に取られてばかりの自分が、無性に悔しい。
ただ、考える程にドツボに嵌りそうな『これから』への恐怖が薄らいで、
目の前のこの人に対する鬱憤に似た何かだけが蓄積していった。
そんな中、僕の内心なんて知るはずもなく、またしても例の半目を店長は浮かべて言う。
「とりあえず、こいつでも食っときなさい。
昨日の余りモノ処理ですがね」
いつの間にかこの席に置かれていた、店長自身のサーディンサンド。
そのすぐ隣にはコーヒーの入ったポットとカップ、それにアップルパイが準備されていた。
それらをぞんざいにこちらに押しやりながら、店長はちまちまと小さい口でサンドイッチを頬張っていく。
外見相応な上品かつ控えめな食べ方で、そこには横柄な口調を思わせる要素は何一つない。
言動と態度だけが、投げやりだった。
「毒なんて入ってませんよ。
ま、作って一日経ってるもんですから当たる可能性は否定しませんがね」
いぶかしげに、そして胡散臭げに皿の上の物体を眺める。
言っちゃあ悪いけど――、出会ってまだ三十分も立っていないけど、この人が料理なんてできるようには思えないのだけれど。
特に、菓子作りなんて全くイメージにそぐわない。
「次にお前は店長がこれを? と言う」
「店長がこれ……、え」
はっとして対面の店長を見ると、飽きとも疲れとも取れる表情で次のサンドを齧り取っていた。
こちらの返答を待っている様子もない。
視線を皿の上に固定して、淡々と口を動かしている。
……どうしろと。台詞に困る。
何か反応しなくちゃいけない気がしてしょうがないが、
心を見透かされているようで何を言っても意味がない気もする。
ただでさえ今の状況に困惑しているっていうのに、本当何なんだろうこの人。
そのままでいるのも居心地が悪くて、とりあえずはアップルパイに手を伸ばす。
濃い蜂蜜色に染まったリンゴと、綺麗な焼き目の付いたパイ生地を切り分けた。
一日経っているらしいのに、ナイフを入れた感触はサクサクのままで少し驚く。
トロ、と、煮汁が零れだして、芳醇な匂いが僕の鼻まで届いた。
目の前まで持ってきても、たしかに、只のアップルパイに見える。毒とかは入っていないだろう。
ちらりと一瞬だけ店長の方を向くと、さっと目を逸らすのが見て取れた……ような気がした。
こちらを見ていたのは気のせい、だろうか?
そこまで殊勝な人にはやっぱり見えないし、気にしていても仕方なくはあるけれど。
そのまま、ままよとばかりに口に放り込んだ。
「……え、あれ」
しばし固まる。
視線を感じたけれど、気にしない。
目を閉じて口の中に在るものをゆっくりゆっくり、咀嚼――吟味する。
くどさと物足りなさの境界を見極めなければ出せない、嫌みのない甘さ。
コンビニ菓子にあるような香料臭さなんて一切ない自然で爽やかな芳香。
そしてこの珈琲を、一口。
これは数時間、下手すれば一晩以上の時間をかけて一滴一滴集められた、水出し珈琲だ。
ペーパードリップで楽しむような珈琲の個性を楽しむためのものではなく、
雑味がなくまろやかなのに薫り高い、調和という言葉を体現したかのような味わい。
「…………、美味しい」
そう、美味しい。
……本当に、美味しかった。
しばし陶然とする。
そういえば、朝から全然食事をとっていなかった。
一刻も早く発表の場に行くことだけを考えて、そんな暇なんてなかったから。
そしてその後は言うまでもない。
「そですか」
店長がぼそりと呟くのが聞こえた。
けれどそれ以上何をしようとする様子もない。
さっきと何も変わらず喫茶店の中は薄暗くて、静かに天井のファンが回っていた。
それが、ありがたかった。
現実味のなかったはずの光景なのに、確かに僕がここにいると実感する。
陳腐な言い方をすれば、生きていることを思い出した。
一口一口をかみしめては、ほんの少しだけ珈琲を口に入れる。
今この時だけは、くろぐろとしたあらゆるものを意識する事はなかった。
だから、僕たちは黙々と目の前に在るものを口の中に押し込み続ける。
言葉もなく、単調に――だけど、機械には不可能な息づかいと共に。
どうしてか視界が滲んでくるのを、必死に堪えた。
弱みだけは、見せたくなかったから。