てぬるい店長とぼんくらな僕 Viewing:三崎秀①
頭がぐちゃぐちゃで、どうにもならなかった。
地平線に至るまで僕以外には他には何一つない雪原に放り出されたような――、そんな心持ちで。
実際に、確かに雪は積もっているのだけれども、それは純白で凍える寒さの雪原ではなくて、
灰色で融け掛けの見るに堪えない汚い雪道だ。
ぬかるんで、足を動かす度にビチャビチャみっともない音が響いて、ズボンの裾が汚れてしまう。
……倒れ込んでしまえば、もう、惨めとしか言いようがない有様。
だから僕はもう、立っていられる気力もなかったのだ。
右手には握り潰した受験票。
左手には3年間使い古した学生鞄。
どっちも塞がっているから、この手は他に何一つだって掴めやしない。
両の頬がやけに冷える。
……肌を露出したままだとひび割れるかも、と、こんな時も自分を気遣う甘ちゃんさが煩わしい。
顔までぼろぼろになった自分なんて誰にも見られたくない。必死で堪えて、考えないように。
だから、こそこそと、小走りで。
逃げるように――、いや、真実逃げるためだけに。
僕は背を丸めて、負け犬として背を向ける。
人込み掻き分け裏路地抜けて、せめて一歩でも多く、あの校内から遠ざかりたくて。
……独りに、なりたかった。
このコンクリートジャングルでは容易であるはずなんだけれども、それでも。
周りの誰一人だって、こんな負け犬の事なんてこれっぽちも気にしていないはずなのに。
人の視線が、息づかいが、存在そのものが、ただ――怖かった。ひたすらに、存分に。
……窒息しそうなほどに。
目に映る何もかもが僕を嘲笑う。
真剣にそう思った。そうとしか思えなかった。
それが、僕が今まで他の受験生に向けていた眼差しの反動だと気付けるほどには、この時の僕は冷静ではなかったのだと。
……今となっては、やっとそう理解できる。
昔にあっては、いまだそう理解できなくて。
小走りはいつの間にか全力疾走に変わっていて、
何処でもない場所を目指して、理性が打ちひしがれているその合間にどんどんと、本能だけでひた進んでいた。
知り合いなんて誰もいない、故郷から離れた町はある意味救いでありながら、何よりも寂しい。
ナポレオンの行軍は、こんな感じだったんだろうか。
碌に前も見ず、見えたとしてもそれが何かを一切意識することなく、ただ、足を動かし続ける。
延々と。
延々と。
延々と――歩く。
不意にそれが途切れたのは、体に衝撃が走ったからだ。
気づいたころにはもう遅い。
何かに当たったその勢いのままに、もろともに思いっきり倒れ込んだ。
両手は塞がっているから、手をついて支える事なんてできやしない。
鼻から思いっきり、打ち付けた。
「ぶっ――! ……づぁ、畜生ぉ! 厄日だ、厄日……」
積もった雪がクッションになったって、痛いものは痛い。
鼻を打ったとき特有の、頭の先まで痺れるような息苦しさが、只でさえ低下していた思考力を余計に奪う。
なんで僕が、僕だけがこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
……畜生、畜生。惨めだ。
こんな無様で、どうやって帰れるって言うんだよ。
すぐそばに転がっているのは、電飾の付いた立て看板。
……それが僕を転ばせた原因だと思えば、古ぼけてるくせにやけに手入れの行き届いたそれが、自分でも恐ろしくなるほどに癇に障った。
やっぱり、この時点の僕は本当におかしかったんだろう。
普段だったら絶対にそんなことはしないのに、
殴り合いどころか口喧嘩だって、そんな事をする輩を見下してさえいたって言うのに。
自分までもが馬鹿の仲間入りなんて絶対ごめんだと、いつもの僕なら考える。
だというのに、だからこそ、原因は衝動なのだとしか分析できない。
「ふざ……けるなっ! ふざけるな!
くそ、くそぉ……。僕の3年間は何だったんだよ! ずっと、僕の……っ!
う……、ああぁぁあああぁああぁっ!!」
怒り任せの粗暴な叫び。
あたかも見下していた連中にさえ――そして、この看板にさえ嘲笑われているようで。
全身を雪解けの泥水に塗れさせた僕は、顔から汁を垂れ流しながら、その看板を、全身全霊を込めて蹴り飛ばしていた。
いい音がした。爽快、と、こんな有様の心でも思ってしまうくらいには。
……悔しい話だけど。
僕が最も軽蔑していた人種が、バイクを盗んだりやら校舎の窓を割ったりやら、なんて事をする理由が、少しだけ分かってしまった。
けれどそんな感慨も一瞬だ。
物を蹴った経験なんてない僕は、当然、蹴るという行為にも技術が必要だなんて事はその時まで知らなかった訳で。
「……、あ、ぐぅ。……!
もろ、に、爪先が……っ!」
妙な、具合に。
足先を抑えて、うずくまる。
は、はは。これは涙なんかじゃないさ。ただの汗さ、うん。
汗をかくだなんてスマートじゃないね、僕。
いや、痛いけどね。本当に痛いけどね。
声……、鶏をシメる時みたいな声を漏らすくらいなら自分を許せるだろ、僕。
うん、許容範囲だ。
僕はクールでデキる男だ。
醜く顔面を歪ませてるはずなんてない。
「くぉら、そこなクソガキャぁぁ! 誰に断わってウチん看板蹴り飛ばしてくれやがってんですかッ!」
不意に、声が聞こえた。
膝をついたまま、顔だけを上げる。
「うっわあ、涙と鼻水で顔面きったねぇぇ……関わりたくないですねぇ」
視線と視線を合わせた瞬間、いきなり真っ向から内心を否定された。
間違いなく今まで聴いた事のないハスキーボイス。知らない誰かの声。
……自分が最低な言葉をこれからぶつけると、自覚できる。
たぶん、何でもよかったんだ。
このやりどころのない、憤怒も絶望も悲嘆も諦念も激情も後悔も、沢山がぐちゃぐちゃに混ざり合った感情を、ぶつけられるのなら。
「……何だよ。だったら別にいいじゃないか。
君みたいな子供が何様のつもりだよ」
――そう、子供だった。
僕には、いや、僕でなくたって10人中8人くらいは子供だって躊躇いなく言うだろう。
身長は140㎝行っているか行っていないか――多分、行っていない。
顔立ちなんかは無愛想そのものなのに可愛らしさがまったくそこなわれていない辺り、下手したら小学生同然だ。
相手は、社会的には守られるべき存在。自分とは違ってだ。
それを意識しただけで、脳味噌が沸騰しそうなくらいに熱を持って――、爆発しそうな寸前でかろうじて目を背ける。
それだけは、しちゃいけない。
器物はともかく、子供への暴力だけは。
けれど、それでもなお零れ落ちた部分が、口から絶え間なく漏れ出てくる。
「同情は気持ちいいかい? 自分が優しいとでも勘違いしてないかい?
自分が世界の中心だとでも思ってるんだろ?
そういう偽善がどんなに人を苛立たせるか分かる?
……どんなに小さくたって容赦な、」
そこまで言って、ようやく場の雰囲気を理解する。
あ、何か致命的に間違えた。
プチリと。
血管が切れる音というのを、生まれてはじめて聞く。
僕の、じゃあない。
目の前の、この少女だ。
「うるせえタコ助、黙れ」
言葉と同時に顔面に踵が叩き込まれた。
問答無用の実力行使。
サンダルを突っかけただけの裸の足が、さっき打った鼻を見事に捉えてくる。
勢いのままに背中から倒れ込んだ。
激痛が脳に走る。素人の僕じゃダメージを地面に逃がせない。
背中の痛みなんて、比較するだけでもおこがましい。
「ぐ……、あ……っ!」
「……何勘違いしてるか知りませんがね。
この看板、いくらするか分かってんですか? あ?
8万円。耳ィ揃えて払ってもらいましょーか」
首根っこを掴まれたと思うと、一気に地面に叩きつけられた。
倒れたままに、ちら、と、鼻を抑えながら横目でそっちに視線を向ける。
……鼻血は、出ていない。
安心しながら確認すると、確かに看板は壊れて、中の電球がむき出しになっていた。
破片があちこち散らばってる様は、まるで僕自身の姿のようで。
……罪悪感と惨めさが、ようやくジワリと浸みだしてくる。
苦しい。手の先が、カタカタと震えだす。
これでも、優等生でいるためにずっと頑張っていたんだ。
こんな『わるいこと』なんてしたことなかったんだ。
『わるいことをした』、という事への小学生じみた恐怖感が、今更僕を脅かす。
一線を越える、というと、大げさかもしれないけれど。
でも――こんなにも気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。とにかく、ここにいたくない。
だから、虚勢を張った。
上半身を跳ね上げる。誰が聴いても苦し紛れでしかないけれど。
目の前の気に入らない女の子を、どうしても言い負かしてやりたかった。
この女の子さえいなくなれば、座りの悪さもぐちゃぐちゃの感情も全部放り投げる事が出来るような、そんな気がした。
「な……んだよ、君みたいな子供が一存で決める事じゃないだろ!」
「子供! はッ! “そういうの”はいい加減こっちゃ飽きてんですよ。
偶にゃあもっとエスプリの利いた事くらいそのゲロ穴から垂れ流してみたらどうですか、ボンクラぁぁ」
ボキボキと女の子は指を鳴らす。
カチンときた。ふざけるな、ふざけるな。
こんな子供に舐められっぱなしでいられるか。
だから僕は、自ら地雷に突っ込んでしまったんだ。
「ぼん、くら……? ボンクラだって? この僕が!
調子に乗るのもいい加減に、」
「お受験さえ満足にこなせねえクソガキが、どの口で『この僕が』なんてほざきやがるんですか』
冷たい半目が、僕の手からこぼれていた受験票を射抜いていた。
嫌な形に少女の口元が歪む。嘲笑だ。
ぐにゃり。
その言葉を聞いたとき、何か、僕の中で大切なものが曲がった音がした。
冷たい言葉と憐みの視線は、僕の最後のつっかい棒を歪ませるのに十分だった。
何か言葉を返そうとしても、何も出てこない。
急速に、これまで僕を急かしていた何かが、僕から抜け落ちていくのを実感する。
前屈直前のような姿勢で固まったまま、僕たちの間に沈黙が落ちた。
……寒い。そうか、今日は寒いんだ。
異常なほどに体が冷えているのが分かる。
数秒か、数十秒か、数分か。
少女が僕の方に視線さえ向けずに、呟くのが耳に届いた。
ぼそりと、やけに小さいのに、どうしてか。
「……馬鹿じゃねー、ですか?」
僕に向けて……言ったんだろうか。
そうなんだろう。少なくとも、この時の僕はそう思った。
あらためて少女を見やれば、本当に可愛い子だった。
だがそんなのが気にならなくなるほどに、ふてぶてしい。第一印象として思い浮かぶのはその形容詞だけだ。
こちらに向ける鋭い視線の源は、あらゆる物事に対して半目のままの大きな瞳。
不機嫌さと無愛想さを形にしたかのような、小さなピンク色の口元。
多少寝癖のついている長い栗毛は、リボン付のカチューシャでも付ければきっと似合うだろう。
……構成する全てのパーツにマイナスの形容が出来るのに、だからこそなのか、生来の素質が際立っていた。
どてらを羽織ったジャージにサンダルという、色気のかけらもない服装も、そのギャップが印象強い。
視線に気づいたんだろう。
少女が、鼻を鳴らしてこちらをねめつける。
何か言わなきゃいけない気がして、口を開いた。
「あの……」
「このボロ屋の店長ですよ、店長。名前はAAA。
趣味は連コと初心者狩りで舐めプすること。特技は台パンと捨てゲーです。
以後よしなに」
とたん、吐き捨てるようにまったくやる気のない声色が返ってきた。
……何を言っているのか、正直分からない。
れんこ? だいぱん? 単語からして異国語を聞いてるみたいだ。
「……ツッコミの一つくらいどーにかならんのですか。独り相撲はキツいですよ。
それくらいは紳士の務めでしょうに」
「いや……、すみません。言葉の意味も知りません」
どうしてか謝ってしまう。相変わらず半目のままの少女の視線がやたらに痛々しく感じられたからだろうか。
「成程。これが、じぇねれーしょんぎゃっぷ。
今のコはゲーセン行く方がマイナーなんですねぇ……」
はあ、と“店長”は大きく大きく溜息をついた。
……店長だなんて柄には、やっぱり全く見えない。
がりがりと、乱暴なまでに強く頭を掻くと、店長はくるりと背を向けた。
「ったく、やれやれです」
そう言いながら、一歩進んで手をかけた、その場所は。
「とりあえずン中に来てもらいましょうか、
んなクソ寒い中お外でお遊戯してても私にゃ嬉しくもなんともねーですし」
――“レコヲド茶房 Retro Future”。
僕が看板を壊した、僕とこの人が出会った、僕にとって一生忘れる事の出来ない名前の空間が、そこにはあった。
「ま、安心しなさい。
豚箱かお勤めか、好きな方を選ばせてやりますよ」
もっとも。
この時の僕には、空虚感と苛立ちしかなくて――。
感慨らしい感慨なんて全くなかったのだけれど。