ある商人の物語
「おい、誰かこの売上税の計算をしてくれないか」
上役の苛立った声が響く。
「あれ、数字が合わなくて面倒なんだよな。お前やれよ」
大理石の柱の陰から、文官たちの小声の押し付け合いが聞こえてくる。
私は羽ペンをインク壺に浸し、静かに立ち上がった。
「私でよろしければ、承ります」
声のした方へ歩み寄ると、分厚い書類の束を持った上役が目を丸くした。
「……新入りの、ムーダンだったな。この量が一人で大丈夫か?」
「問題ありません」
うず高く積まれた羊皮紙を受け取り、自席に戻る。
王宮の末端とはいえ、数字は嘘をつかない。
商人の三男として生まれ、家業を継ぐ道を絶たれた私が、身を立てるために幼い頃から死に物狂いで磨き上げた愚直な計算能力。
私にとって、この程度の計算は呼吸をするのと同じことだった。
羽ペンが、小気味よい音を立てて羊皮紙の上を滑っていく。
ふと、インクの匂いが、あの日の埃っぽい路地の記憶を呼び覚ました。
「いつもなら昼頃に届くのに、この前は夕方だったじゃないか。少し安くしろ」
商業都市レーマネ。薄暗い店舗へ集金に来ていた。
太った店主が、黄色い歯を見せてねっとりと笑っていた。
私は、貼り付けたような商人の笑みを崩さなかった。
「前にもご説明いたしましたが、その日のうちなら良いということになっております。それに伴う割引価格の契約です」
「ふん、融通のきかないことだな。取引をやめてもいいんだぞ」
理不尽な言い分に怒りがこみ上げるが、感情的になっても一銭の得にもならない。
「当主である兄に伝えておきましょう。ですが、三男の私に値引きの権限はございません」
「そういえば、昨日の品には傷がついていたな。その分は引いてもらうぞ」
「引き渡しの際、ご自身で確認してサインをされたはずですが」
「あの時は暗くて気が付かなかったんだ!」
話にならない。
大した利益も出ないくせに、難癖をつけて小銭を浮かそうとする浅ましい姿。
商会を継ぐこともできず、兄の下働きとしてこんな底辺の諍いに頭を下げる日々。
私の人生は、このままレーマネの泥の中で腐っていくのか。
腹の底で煮えくり返る怒りを飲み込み、延々と続く無意味な問答の末に、なんとか規定の代金を受け取った。
店を出ると、すでに日は高くなっていた。
無駄にした時間を取り戻したくて、普段なら絶対に避けるスラムの路地に足を踏み入れた。
腐った果実と、汚水の混じった強烈な悪臭が鼻を突く。
道の端には、生きているのか死んでいるのかわからない人影がうずくまっていた。
革靴の音だけが、やけに大きく響く。
早く抜け出さなければ。
「うるせえよ、バカが。……行くぞ」
通り過ぎた木戸が開き、低い声が漏れた。
反射的に振り返る。
血走った目をした三人組の男が、こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。
「おい、そこのお前。ちょっと止まれや」
脳が危険を告げる前に、私の足は駆け出していた。
「待て! 待てって言ってんだろうが!」
怒声と、乱暴な足音が後ろから迫ってくる。
捕まれば、ただでは済まない。
金を取られるか、最悪、命もない。
心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、喉の奥から血の味がした。
右へ、左へ。
無我夢中で迷路のような路地を駆け抜け、視界が急に開けた。
大通りだ。
喧騒が一気に私を包み込んだ。
膝に手をつき、肺がちぎれるほどに息を吸い込む。
背後に追っ手の気配はない。
なんとか振り切ったらしい。
荒い呼吸を整えながら顔を上げると、目の前の食料品店の軒先に、一人の女性が立っていた。
簡易的な革の胸当てに、腰には使い込まれた長剣。
そして何より、凛々しい顔立ちが美しかった。
彼女は、店先に並んだ保存食を手に、空っぽの財布を振って眉をひそめている。
「……何か、お困りかな」
まだ息は上がっていたが、私は無意識に声をかけていた。
「ん? ああ、金が足りなくてね」
「そうですか。多少でしたら、私がお出ししてもいいですよ」
女性は怪訝そうな目で私を見た。
「あんたに、なんの得があるんだ?」
「その代わり……食事に付き合ってもらえませんか?」
「食事? ますます意味がわからんが」
「あなたの、美しさに……」
気障なセリフを口にしようとした瞬間、背後から首根っこを力強く掴まれた。
「やっと追いついたぜ」
路地裏の三人組だった。
息を切らし、顔を真っ赤にして私を睨みつけている。
血の気が引いた。
しかし、私が恐怖に身をすくめるより早く、目の前の景色がブレた。
鈍い破裂音。
私を掴んでいた男が、白目を剥いて石畳に転がっていた。
女性が、拳を振り抜いた姿勢のまま立っている。
「あ、コイツら知り合いか?」
「い、いえ、違います」
「じゃあ、いいか」
彼女が踏み込むと、風が鳴った。
残りの二人も、悲鳴を上げる間もなく宙を舞い、あっという間にゴミのように重なって気絶した。
女性は手の甲を軽く払い、私に向かってニカッと笑った。
「よし。助けたお礼に飯、ってことでいいな?」
服の汚れを気にする様子もない彼女を、私はそれなりに値の張る料理屋へ案内した。
彼女はメイガンと名乗り、出された肉を信じられない速度で平らげていく。
「これ、うまいな!」
今更ながら、随分と男勝りで豪快な女性だ。
「そ、それは、良かった」
「あんた、商人か。あの程度のごろつきくらい、なんとかできるくらい鍛えたほうがいいぞ」
悪気のない言葉が、鬱屈した私の自尊心をちくちくと刺激した。
「……私は、野蛮な暴力は使いません。先日亡くなった父の遺言で知ったのですが、私はケサーンキ男爵家の流れを継ぐ者ですから」
「ケサーンキ? 聞いたことないな」
メイガンは、骨についた肉をしゃぶりながら首を傾げた。
「なんで男爵の血筋が、商人をやっているんだ?」
胸の奥を、冷たい風が吹き抜けた。
サマラ王国に多大な貢献をしたケサーンキの名を知らないとは。
「父は実家を飛び出して絶縁されたそうです。私自身、祖父の顔すら見たことがありません」
「ふーん。まあ、商人の方が気楽で楽しいんじゃないか?」
「私は商会の三男です。家を継ぐこともできず、兄の使い走りで一生を終えるつもりはない……私には、もっと大きな仕事が!」
自分で自分の声が大きくなったことに驚き、慌てて口をつぐんだ。
初めて会った傭兵に、何をムキになっているんだ。
「いいと思うぞ。目標はあったほうがいい」
メイガンは酒を飲み干し、テーブルにジョッキを置いた。
「どんな仕事をしたいんだ?」
「……王宮の、内政官に」
遺言で知った、男爵という血筋。
いつかあの場所で、国を動かす歯車になりたいという新たな夢。
「それはでかそうな目標だな。努力してなれるもんなのか?」
「いや、難しいだろう」
爵位を持つ者や、その縁故者が席を独占する世界だ。
サマラの人間ですらない私には、夢のまた夢。
自嘲気味に笑う私を見て、彼女はからからと笑った。
「まあ、無理なこともあるだろ。でも、がんばってりゃ良いことあるさ」
簡単に無理だと言われて、少し反発心が芽生えた。
「……今の陛下も、アケニース伯爵家の三男から王になられたのだ。三男の私だって」
「アケニースの三男? ……アルヴィンか?」
空気が凍った。
「おい、何を言っている! 陛下を呼び捨てにするなど、不敬だぞ!」
辺りを見回すが、個室で良かったと胸をなで下ろす。
「ところで、陛下を知っているのか?」
「知ってるというか、昔、護衛してやったことがあるだけだ」
彼女はつまみを口に放り込みながら、あっけらかんと言った。
「あいつ、結構いいやつだからな。頼めば雇ってくれると思うぞ」
「は?」
「俺の名前を出してもらっていいぞ。じゃ、美味かった。元気でな」
ぽかんとしている私を置いて、メイガンは颯爽と店を出て行った。
それから数日、帳簿を開いていても数字はまったく頭に入ってこなかった。
あんな風来坊の戯言だ。
まともに取り合う方がどうかしている。
なのに、ジョッキを傾けて笑う彼女の「がんばってりゃ良いことあるさ」という声が、ずっと耳の奥で鳴り響いていた。
気づけば、私は荷物をまとめていた。
鼻で笑う兄の制止を振り切り、商人の上着を脱ぎ捨てて、サマラへと向かった。
たどり着いた王宮の正門は、想像していたよりもずっと小さく、質素だった。
門番の冷ややかな視線に射られながら、私は父の遺言状を握りしめ、震える声で名乗った。
「レーマネの商人、ムーダン……。亡き父は、ケサーンキ男爵の息子にあたります」
絶縁された一族の名。
だが、その名は重い扉をあっさりとこじ開けた。
政変の傷跡が癒えぬ王宮は、人が足りていなかった。
だが、王宮に入ってから、私は一つの事実を知ることになる。
先の戦争で、陛下の父君も、兄君も、そしてケサーンキ本家の人間も、皆死に絶えていた。
今の陛下にとって、亡き私の父はたった一人の叔父であり、私は唯一残された従兄弟だったのだ。
孤独な王座。
絶縁された分家の、それも商人の三男に過ぎない私を拾い上げたのは、その僅かな血の繋がりを、陛下が大切に思ってくれたのかもしれない。
しかし、なぜ調べもせずに、見ただけで信じてくれたのだろうか。
それはきっと、そうであってほしいという、陛下の切実な願いだったのかもしれない。
与えられたのは末席ではあったが、私には十分である。
必ず、仕事でお返ししよう。
残された一族の生き残りとして、この身を粉にして国を支える。
メイガンの名前は出さなかった。
いつか、赤い絨毯の敷かれた広間で、立派な内政官として彼女と再会する。
その時、こう言ってやるのだ。
『君の名前など使わなくても、大丈夫だったよ』
そう笑いかけて、また彼女を食事に誘うのだ。
「ムーダン、これも頼めるか」
声にはっと顔を上げると、別の文官が申し訳なさそうに新たな羊皮紙の山を抱えて立っていた。
窓の外では、サマラの空が赤く染まり始めている。
机に積み上がった書類は、私にとって苦痛ではなく、夢へと続く階段だった。
私はインクに濡れた羽ペンを優雅に回し、商人の、いや、未来の内政官としての笑みを浮かべた。
「もちろん、お任せください」




