牛としか話せない奇病令嬢は森の奥へ捨てられた 〜だが乳搾りチートで辺境が豊かになり、婚約破棄した公爵家が滅びかけた件について〜
「聖獣の声を聞くだと? ただの奇病だろう。気味が悪い」
公爵令息オズワルドは、まるで道端の汚物でも見るような目で私を見下ろした。
煌びやかな社交界の広間。楽団の演奏がやみ、扇の陰でくすくすと笑う令嬢たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。
「セラフィーナ・エルグレイス。お前との婚約を破棄する」
ああ、やっぱり。
私は内心でため息をついた。喚くつもりも、泣きすがるつもりもない。
(まあ、牛の方が公爵令息よりよっぽど話が通じるし)
「牛とモゴモゴ喋る不気味な娘」
幼い頃からそう嘲笑われてきた。私だけが、この世界でただ一人、家畜の言葉がわかる。前世——日本の酪農家系女子大生だった記憶を持つ私にとって、それはむしろ祝福だったのに。
この世界では『奇病』と呼ばれた。
オズワルドの隣で、栗色の巻き髪を揺らして勝ち誇るのは、義妹ミレーヌ。
「お姉さま、残念でしたわね。でも仕方ありませんの。オズワルド様は、まともな方がお好きなのですもの」
甘い声。潤んだ瞳。この娘が涙一滴でどれだけの大人を操ってきたか、私はよく知っている。
「お父様も同意なさっていますわ。お姉さまの奇病が王家に知られたら、伯爵家が取り潰されてしまいますもの」
ミレーヌはくるりと振り返り、勝利の笑みを浮かべた。
「だから、お姉さまには辺境へ行っていただきます。『死の牧場』へ」
死の牧場。何をやっても家畜が全滅すると噂される、呪われた森の奥。
事実上の追放。いや、緩やかな処刑宣告だった。
私は静かに、深く一礼した。
「かしこまりました。では、失礼いたしますわ」
あっさりと背を向けた私に、ミレーヌの顔が一瞬歪んだのが見えた。もっと泣き崩れて、もっと惨めに縋りついてほしかったのだろう。
残念でした。
私はもう、この家に何の未練もない。
広間の扉を出る間際、ミレーヌの声が背中を追ってきた。
「せいぜい牛と仲良く朽ちていけばいいのよ、お姉さま」
——ええ、そうさせてもらうわ。
牛と一緒なら、きっとあなたたちといるよりずっと幸せだから。
*
馬車に揺られること三日。
御者は森の入り口で「ここから先はご自分で」と言い残し、荷物ごと私を放り出して逃げるように帰っていった。
呪われた森。死の牧場。
目の前に広がるのは、どんよりとした瘴気に沈む荒れ果てた牧場だった。
枯れた牧草。崩れかけた牛舎。空気そのものが淀んで、重い。
(なるほど。これは確かに、普通の家畜なら生きられないわね)
前世で牧場を継ぐつもりだった私には、一目でわかった。この土地は病んでいる。
そのとき——
「ようやく……オレたちの言葉がわかる人間が来た」
しわがれた声が、頭の中に直接響いた。
牛舎の奥。痩せこけた一頭の老いた牡牛が、片角の欠けた頭をゆっくりと持ち上げていた。白斑の毛並みは瘴気にくすみ、それでもその瞳は静かな光を宿している。
「あなた……私の言葉が?」
「おうよ。オレはモー爺。この土地に残った、最後の一頭さ」
私は駆け寄り、桶に汲んでおいた水を差し出した。老牛はゆっくりとそれを飲み、ほうと息を吐く。
「不思議なもんだ。何十年も、誰もオレたちの『助けて』を聞いちゃくれなかった。仲間はみんな瘴気に倒れた。誰も、聞けなかったからな」
胸が詰まった。
そうだ。この牧場で家畜が全滅した本当の理由。それは呪いなんかじゃない。
——誰も、牛の声を聞けなかったこと。
「モー爺。教えて。この土地に何が起きているの?」
「土地に染みついた瘴気だ。昔、人間が聖獣を虐げた罰さ。だが……聖獣と対話できる者がいれば、解ける」
老牛の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
「嬢ちゃん。あんた、聖獣言語のギフト持ちだろう。あんたが来るのを、オレはずっと待っていた」
聖獣言語。奇病と嘲笑われたこの力が。
私は木製の搾乳桶——前世から愛用していたものを再現した、たった一つの宝物を、ぎゅっと握りしめた。
ゆっくりと立ち上がる。淀んだ空を見上げる。
「決めたわ」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「もう我慢しない。私は牛に選ばれた酪農家として、この森で生きる」
モー爺が、ふっと笑ったような気がした。
「いい目だ。さあ、始めようか。オレたちの、新しい牧場を」
*
半年後。
死の牧場は、見違えるほど生まれ変わっていた。
瘴気は晴れ、青々とした牧草が風に揺れる。牛たちは丸々と太り、艶やかな毛並みを取り戻していた。
私が投入したのは、前世の知識のすべて。衛生管理、牧草のローテーション、正しい搾乳技術。そして——牛たち自身の声を聞くこと。
「今日は左の後ろ脚が張ってる気がするのよね、セラ」
「はいはい、じゃあ今日はゆっくりね」
牛と会話しながらの酪農は、驚くほど効率的だった。体調も、好みも、全部本人(本牛?)が教えてくれるのだから。
そして判明したのだ。この牛たちが、瘴気を浄化する聖獣の末裔だということ。
彼女たちの乳——『聖乳』は、ほのかに光り、飲めば疲れが吹き飛ぶ。バターは芳醇で、チーズは深い旨味を宿す。
そんなある日。
牧場の門に、山のような巨躯の男が立っていた。
身長は190を超え、顔中に古傷。竜の返り血を思わせる深紅の瞳。全身から漂う威圧感に、思わず身構える。
「……お前が、噂の牧場主か」
低い声。それだけで空気が震えるようだった。
「はい。セラフィーナと申します。あの……あなたは?」
「この森を治める辺境伯、レオンハルト・ヴェルデンブルクだ」
元竜殺しの英雄。強面の、近寄りがたい大領主。
(うわ、迫力……でも別に、悪意は感じないわね。むしろ、そわそわしてる?)
牛たちのおかげで、私は相手の気配を読むのが得意になっていた。この人からは、殺気ではなく——むしろ、緊張のようなものを感じる。
「あの、よろしければ。試作品ですが」
私は作ったばかりの聖乳のプリンを差し出した。
レオンハルトは無言でスプーンを取り出し——なぜか懐に自前のスプーンを常備していた——一口、食べた。
次の瞬間。
ぼろっ、と。
強面の英雄の頬を、大粒の涙が伝った。
「え、ええっ!?」
「……うまい」
「あの、レオンハルト様!?」
「うまい……こんなもの、食ったことがない……」
彼は震える声で、真顔のまま、深々と頭を下げた。
「これを……毎日……頼む」
(この人、強面の泣き虫甘党だ……!)
威圧感はどこへやら。プリンひとつで号泣する残念すぎる英雄を前に、私は思わず吹き出しそうになった。
そして彼は、私の力の本質を、誰よりも早く見抜いた。
「お前のこれは、奇病などではない。聖獣に選ばれた、奇跡の力だ」
——この世界で初めて、私の力を『奇跡』と呼んでくれた人だった。
*
同じ頃。
セラフィーナが去った公爵家と伯爵家では、静かに、そして確実に破滅が始まっていた。
「どういうことだ! なぜ牛が次々と倒れる!」
公爵家の家畜が、原因不明で全滅していた。
乳牛が、軍馬が、豚が。獣医が首をひねっても原因はわからない。餌も水も変えていないのに、ただ弱って死んでいく。
オズワルドは苛立ちを隠せなかった。
「くそっ、こんなときに! 領地の税収が家畜頼みだったというのに!」
彼は知らなかった。
——セラフィーナが幼い頃から、無自覚に聖獣言語で家畜の健康を保っていたことを。
彼女がいた領地の家畜は、なぜか病気知らずで、乳の出も良く、子もよく産んだ。それが当たり前だと、誰もが思っていた。
いなくなって初めて、それが『当たり前』ではなかったと、崩壊してから思い知る。
伯爵家も同じだった。
「お父様! どうにかしてくださいまし! このままでは我が家は……!」
ミレーヌが青ざめて父に縋る。だが伯爵にも、なす術はなかった。
家畜の全滅は、領地経済の崩壊を意味した。借金が膨らみ、商人が離れ、使用人が去っていく。
華やかだった社交界の花は、みるみるうちにしおれていった。
そしてオズワルドは、財政破綻した公爵家ごと、坂道を転がり落ちていく。
「なぜだ……なぜこんなことに……」
彼は最後まで気づかなかった。すべての元凶が、自分が「気味が悪い」と切り捨てたあの娘の不在にあることを。
他責の言葉ばかりを繰り返し、失ったものの正体すら、まだ理解していなかった。
——読者だけが、知っている。
この崩壊は、誰の手によるものでもない。
ただ、彼らが自ら手放したものの、あまりの大きさが招いた、自然の理だった。
*
王都の大広間。
王家からの叙勲式が、厳かに執り行われていた。
王家が『聖乳』の出所を調査した結果、辺境の奇跡の牧場主——セラフィーナ・エルグレイスこそが、失われた聖獣ギフトの正統な継承者であると判明したのだ。
「セラフィーナ・エルグレイス。そなたを、聖獣守護の栄誉ある爵位に叙する」
国王の言葉に、大広間がどよめいた。
かつて「牛とモゴモゴ喋る不気味な娘」と嘲笑われた娘が、今や国家を救う英雄として、最高の栄誉を授けられている。
そして同じ日。
聖獣ギフトの正統な継承者を追放した罪により、エルグレイス伯爵家は爵位を剥奪された。
主犯であるミレーヌは、修道院送り。
「そんな……そんなの嘘よ! お姉さまが、聖獣の……!?」
かつて「王家に知られたら伯爵家が取り潰される」と姉を脅した娘の言葉は、皮肉にも、そっくりそのまま自分たちに跳ね返った。
王家に知られて取り潰されたのは——彼女たち自身だった。
そして、式典の場に、みすぼらしい身なりの男が縋りついてきた。
オズワルド。
没落し、かつての輝きを完全に失った元公爵令息。
「セラフィーナ! 頼む、俺が悪かった! 昔のように、また俺と……!」
泣きながら復縁を懇願する男を、私は静かに見下ろした。
喚かない。怒鳴らない。
ただ、淡々と。
背後には、王都まで付き添ってくれた牛たち——特別に許可を得て連れてきたモー爺と仲間たち——と、居心地悪そうに正装で立つ辺境伯レオンハルトがいる。
私は、ふわりと微笑んだ。
「オズワルド様。ひとつ、お伝えしておきますわ」
「な、なんだ?」
一拍の、沈黙。
「だが、断りますわ」
男の顔が凍りついた。
「私、牛と辺境伯にしか興味がありませんの」
静かな、けれど揺るぎない断罪。
モー爺が、私の隣で「けっ」と鼻を鳴らしたのが、私にだけ聞こえた。
「二度と、私の前に現れないでくださいまし。牛たちが嫌がりますので」
そして私は、もう二度と振り返ることなく、牛たちと愛する人のもとへと歩き出した。
*
叙勲式の帰り道。
牧場に戻った私を待っていたのは、夕焼けに染まる、あの生まれ変わった草原だった。
瘴気の消えた空。丸々と太った牛たち。すべてが、半年前とは別世界だ。
「セラ」
背後から、低い声。
振り向くと、レオンハルトが、なぜか耳まで真っ赤になって立っていた。あれほどの威圧感を放つ英雄が、今は借りてきた猫のように縮こまっている。
「あの……その、だな」
言葉に詰まる。彼が愛情表現が壊滅的に下手なことは、この半年でよく知っていた。プリンや希少な牧草の種を、無言で差し出してくる不器用な人。
(もう、本当に……この人ったら。プロポーズひとつで、こんなに狼狽えて)
そんな彼が、震える手で差し出したのは——
一皿の、聖乳のプリン。
そしてその横に、そっと添えられた、小さな指輪。
「お、俺と……その……」
真っ赤な顔。逸らされる視線。竜を殺した英雄が、プロポーズひとつでこんなに狼狽えている。
胸が、あたたかくなった。
そのとき、牛たちが一斉に鳴いた。頭の中に、賑やかな声が響く。
「アイツにしとけ、嬢ちゃん。悪くない男だ。プリンで泣くくらいには、心が真っ直ぐさ」
モー爺の、飄々とした声。牛たちが、うんうんと頷いている。総意らしい。
私は笑ってしまった。
「ふふ。牛たちも、こう言っていますわ」
「な、なんて……?」
「『アイツにしとけ』って」
レオンハルトの顔が、ぱあっと輝いた。強面が台無しの、子どものような笑顔で。
「はい。喜んで。——ただし」
私は指輪を受け取りながら、悪戯っぽく付け加えた。
「プリンは毎日作りますけれど、泣きすぎは禁止ですわよ」
そのときだった。
「みつけた……」
聞き慣れない、無邪気な声が響いた。
草むらの陰から、ひょっこりと現れたのは——雪のように白く、金色の斑を持つ、小さな仔牛。
「え……あなた、どこから?」
私の聖獣言語に応じて、仔牛はくりくりとした瞳で私を見上げ、少しませた口調で言った。
「ボク、ミルフィ。ずうっと昔、王家に仕えてた聖獣の子孫だよ」
王家の、失われた聖獣。
「お姉さんの声、遠くまで届いてたんだ。だからね——次はキミの番だよ、お姉さん」
ミルフィは、ぴょんと跳ねて、私の足元にすり寄った。
私とレオンハルトは、顔を見合わせた。
一人の令嬢の逆転劇は、どうやらここで終わらないらしい。
聖獣の復権。王家を巻き込む、大きな流れ。
でも、それはまた別のお話。
今はただ、夕焼けの牧場で、プリンと、牛たちと、不器用な英雄と。
私は、静かに微笑んだ。
「ええ。望むところですわ」
——牛と辺境伯にしか興味がない酪農令嬢の物語は、まだ、始まったばかり。




