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牛としか話せない奇病令嬢は森の奥へ捨てられた 〜だが乳搾りチートで辺境が豊かになり、婚約破棄した公爵家が滅びかけた件について〜

作者: uta
掲載日:2026/08/22

「聖獣の声を聞くだと? ただの奇病だろう。気味が悪い」


公爵令息オズワルドは、まるで道端の汚物でも見るような目で私を見下ろした。


煌びやかな社交界の広間。楽団の演奏がやみ、扇の陰でくすくすと笑う令嬢たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。


「セラフィーナ・エルグレイス。お前との婚約を破棄する」


ああ、やっぱり。


私は内心でため息をついた。喚くつもりも、泣きすがるつもりもない。


(まあ、牛の方が公爵令息よりよっぽど話が通じるし)


「牛とモゴモゴ喋る不気味な娘」


幼い頃からそう嘲笑われてきた。私だけが、この世界でただ一人、家畜の言葉がわかる。前世——日本の酪農家系女子大生だった記憶を持つ私にとって、それはむしろ祝福だったのに。


この世界では『奇病』と呼ばれた。


オズワルドの隣で、栗色の巻き髪を揺らして勝ち誇るのは、義妹ミレーヌ。


「お姉さま、残念でしたわね。でも仕方ありませんの。オズワルド様は、まともな方がお好きなのですもの」


甘い声。潤んだ瞳。この娘が涙一滴でどれだけの大人を操ってきたか、私はよく知っている。


「お父様も同意なさっていますわ。お姉さまの奇病が王家に知られたら、伯爵家が取り潰されてしまいますもの」


ミレーヌはくるりと振り返り、勝利の笑みを浮かべた。


「だから、お姉さまには辺境へ行っていただきます。『死の牧場』へ」


死の牧場。何をやっても家畜が全滅すると噂される、呪われた森の奥。


事実上の追放。いや、緩やかな処刑宣告だった。


私は静かに、深く一礼した。


「かしこまりました。では、失礼いたしますわ」


あっさりと背を向けた私に、ミレーヌの顔が一瞬歪んだのが見えた。もっと泣き崩れて、もっと惨めに縋りついてほしかったのだろう。


残念でした。


私はもう、この家に何の未練もない。


広間の扉を出る間際、ミレーヌの声が背中を追ってきた。


「せいぜい牛と仲良く朽ちていけばいいのよ、お姉さま」


——ええ、そうさせてもらうわ。


牛と一緒なら、きっとあなたたちといるよりずっと幸せだから。



馬車に揺られること三日。


御者は森の入り口で「ここから先はご自分で」と言い残し、荷物ごと私を放り出して逃げるように帰っていった。


呪われた森。死の牧場。


目の前に広がるのは、どんよりとした瘴気に沈む荒れ果てた牧場だった。


枯れた牧草。崩れかけた牛舎。空気そのものが淀んで、重い。


(なるほど。これは確かに、普通の家畜なら生きられないわね)


前世で牧場を継ぐつもりだった私には、一目でわかった。この土地は病んでいる。


そのとき——


「ようやく……オレたちの言葉がわかる人間が来た」


しわがれた声が、頭の中に直接響いた。


牛舎の奥。痩せこけた一頭の老いた牡牛が、片角の欠けた頭をゆっくりと持ち上げていた。白斑の毛並みは瘴気にくすみ、それでもその瞳は静かな光を宿している。


「あなた……私の言葉が?」


「おうよ。オレはモー爺。この土地に残った、最後の一頭さ」


私は駆け寄り、桶に汲んでおいた水を差し出した。老牛はゆっくりとそれを飲み、ほうと息を吐く。


「不思議なもんだ。何十年も、誰もオレたちの『助けて』を聞いちゃくれなかった。仲間はみんな瘴気に倒れた。誰も、聞けなかったからな」


胸が詰まった。


そうだ。この牧場で家畜が全滅した本当の理由。それは呪いなんかじゃない。


——誰も、牛の声を聞けなかったこと。


「モー爺。教えて。この土地に何が起きているの?」


「土地に染みついた瘴気だ。昔、人間が聖獣を虐げた罰さ。だが……聖獣と対話できる者がいれば、解ける」


老牛の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。


「嬢ちゃん。あんた、聖獣言語のギフト持ちだろう。あんたが来るのを、オレはずっと待っていた」


聖獣言語。奇病と嘲笑われたこの力が。


私は木製の搾乳桶——前世から愛用していたものを再現した、たった一つの宝物を、ぎゅっと握りしめた。


ゆっくりと立ち上がる。淀んだ空を見上げる。


「決めたわ」


声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「もう我慢しない。私は牛に選ばれた酪農家として、この森で生きる」


モー爺が、ふっと笑ったような気がした。


「いい目だ。さあ、始めようか。オレたちの、新しい牧場を」



半年後。


死の牧場は、見違えるほど生まれ変わっていた。


瘴気は晴れ、青々とした牧草が風に揺れる。牛たちは丸々と太り、艶やかな毛並みを取り戻していた。


私が投入したのは、前世の知識のすべて。衛生管理、牧草のローテーション、正しい搾乳技術。そして——牛たち自身の声を聞くこと。


「今日は左の後ろ脚が張ってる気がするのよね、セラ」

「はいはい、じゃあ今日はゆっくりね」


牛と会話しながらの酪農は、驚くほど効率的だった。体調も、好みも、全部本人(本牛?)が教えてくれるのだから。


そして判明したのだ。この牛たちが、瘴気を浄化する聖獣の末裔だということ。


彼女たちの乳——『聖乳』は、ほのかに光り、飲めば疲れが吹き飛ぶ。バターは芳醇で、チーズは深い旨味を宿す。


そんなある日。


牧場の門に、山のような巨躯の男が立っていた。


身長は190を超え、顔中に古傷。竜の返り血を思わせる深紅の瞳。全身から漂う威圧感に、思わず身構える。


「……お前が、噂の牧場主か」


低い声。それだけで空気が震えるようだった。


「はい。セラフィーナと申します。あの……あなたは?」


「この森を治める辺境伯、レオンハルト・ヴェルデンブルクだ」


元竜殺しの英雄。強面の、近寄りがたい大領主。


(うわ、迫力……でも別に、悪意は感じないわね。むしろ、そわそわしてる?)


牛たちのおかげで、私は相手の気配を読むのが得意になっていた。この人からは、殺気ではなく——むしろ、緊張のようなものを感じる。


「あの、よろしければ。試作品ですが」


私は作ったばかりの聖乳のプリンを差し出した。


レオンハルトは無言でスプーンを取り出し——なぜか懐に自前のスプーンを常備していた——一口、食べた。


次の瞬間。


ぼろっ、と。


強面の英雄の頬を、大粒の涙が伝った。


「え、ええっ!?」


「……うまい」


「あの、レオンハルト様!?」


「うまい……こんなもの、食ったことがない……」


彼は震える声で、真顔のまま、深々と頭を下げた。


「これを……毎日……頼む」


(この人、強面の泣き虫甘党だ……!)


威圧感はどこへやら。プリンひとつで号泣する残念すぎる英雄を前に、私は思わず吹き出しそうになった。


そして彼は、私の力の本質を、誰よりも早く見抜いた。


「お前のこれは、奇病などではない。聖獣に選ばれた、奇跡の力だ」


——この世界で初めて、私の力を『奇跡』と呼んでくれた人だった。



同じ頃。


セラフィーナが去った公爵家と伯爵家では、静かに、そして確実に破滅が始まっていた。


「どういうことだ! なぜ牛が次々と倒れる!」


公爵家の家畜が、原因不明で全滅していた。


乳牛が、軍馬が、豚が。獣医が首をひねっても原因はわからない。餌も水も変えていないのに、ただ弱って死んでいく。


オズワルドは苛立ちを隠せなかった。


「くそっ、こんなときに! 領地の税収が家畜頼みだったというのに!」


彼は知らなかった。


——セラフィーナが幼い頃から、無自覚に聖獣言語で家畜の健康を保っていたことを。


彼女がいた領地の家畜は、なぜか病気知らずで、乳の出も良く、子もよく産んだ。それが当たり前だと、誰もが思っていた。


いなくなって初めて、それが『当たり前』ではなかったと、崩壊してから思い知る。


伯爵家も同じだった。


「お父様! どうにかしてくださいまし! このままでは我が家は……!」


ミレーヌが青ざめて父に縋る。だが伯爵にも、なす術はなかった。


家畜の全滅は、領地経済の崩壊を意味した。借金が膨らみ、商人が離れ、使用人が去っていく。


華やかだった社交界の花は、みるみるうちにしおれていった。


そしてオズワルドは、財政破綻した公爵家ごと、坂道を転がり落ちていく。


「なぜだ……なぜこんなことに……」


彼は最後まで気づかなかった。すべての元凶が、自分が「気味が悪い」と切り捨てたあの娘の不在にあることを。


他責の言葉ばかりを繰り返し、失ったものの正体すら、まだ理解していなかった。


——読者だけが、知っている。


この崩壊は、誰の手によるものでもない。


ただ、彼らが自ら手放したものの、あまりの大きさが招いた、自然の理だった。



王都の大広間。


王家からの叙勲式が、厳かに執り行われていた。


王家が『聖乳』の出所を調査した結果、辺境の奇跡の牧場主——セラフィーナ・エルグレイスこそが、失われた聖獣ギフトの正統な継承者であると判明したのだ。


「セラフィーナ・エルグレイス。そなたを、聖獣守護の栄誉ある爵位に叙する」


国王の言葉に、大広間がどよめいた。


かつて「牛とモゴモゴ喋る不気味な娘」と嘲笑われた娘が、今や国家を救う英雄として、最高の栄誉を授けられている。


そして同じ日。


聖獣ギフトの正統な継承者を追放した罪により、エルグレイス伯爵家は爵位を剥奪された。


主犯であるミレーヌは、修道院送り。


「そんな……そんなの嘘よ! お姉さまが、聖獣の……!?」


かつて「王家に知られたら伯爵家が取り潰される」と姉を脅した娘の言葉は、皮肉にも、そっくりそのまま自分たちに跳ね返った。


王家に知られて取り潰されたのは——彼女たち自身だった。


そして、式典の場に、みすぼらしい身なりの男が縋りついてきた。


オズワルド。


没落し、かつての輝きを完全に失った元公爵令息。


「セラフィーナ! 頼む、俺が悪かった! 昔のように、また俺と……!」


泣きながら復縁を懇願する男を、私は静かに見下ろした。


喚かない。怒鳴らない。


ただ、淡々と。


背後には、王都まで付き添ってくれた牛たち——特別に許可を得て連れてきたモー爺と仲間たち——と、居心地悪そうに正装で立つ辺境伯レオンハルトがいる。


私は、ふわりと微笑んだ。


「オズワルド様。ひとつ、お伝えしておきますわ」


「な、なんだ?」


一拍の、沈黙。


「だが、断りますわ」


男の顔が凍りついた。


「私、牛と辺境伯にしか興味がありませんの」


静かな、けれど揺るぎない断罪。


モー爺が、私の隣で「けっ」と鼻を鳴らしたのが、私にだけ聞こえた。


「二度と、私の前に現れないでくださいまし。牛たちが嫌がりますので」


そして私は、もう二度と振り返ることなく、牛たちと愛する人のもとへと歩き出した。



叙勲式の帰り道。


牧場に戻った私を待っていたのは、夕焼けに染まる、あの生まれ変わった草原だった。


瘴気の消えた空。丸々と太った牛たち。すべてが、半年前とは別世界だ。


「セラ」


背後から、低い声。


振り向くと、レオンハルトが、なぜか耳まで真っ赤になって立っていた。あれほどの威圧感を放つ英雄が、今は借りてきた猫のように縮こまっている。


「あの……その、だな」


言葉に詰まる。彼が愛情表現が壊滅的に下手なことは、この半年でよく知っていた。プリンや希少な牧草の種を、無言で差し出してくる不器用な人。


(もう、本当に……この人ったら。プロポーズひとつで、こんなに狼狽えて)


そんな彼が、震える手で差し出したのは——


一皿の、聖乳のプリン。


そしてその横に、そっと添えられた、小さな指輪。


「お、俺と……その……」


真っ赤な顔。逸らされる視線。竜を殺した英雄が、プロポーズひとつでこんなに狼狽えている。


胸が、あたたかくなった。


そのとき、牛たちが一斉に鳴いた。頭の中に、賑やかな声が響く。


「アイツにしとけ、嬢ちゃん。悪くない男だ。プリンで泣くくらいには、心が真っ直ぐさ」


モー爺の、飄々とした声。牛たちが、うんうんと頷いている。総意らしい。


私は笑ってしまった。


「ふふ。牛たちも、こう言っていますわ」


「な、なんて……?」


「『アイツにしとけ』って」


レオンハルトの顔が、ぱあっと輝いた。強面が台無しの、子どものような笑顔で。


「はい。喜んで。——ただし」


私は指輪を受け取りながら、悪戯っぽく付け加えた。


「プリンは毎日作りますけれど、泣きすぎは禁止ですわよ」


そのときだった。


「みつけた……」


聞き慣れない、無邪気な声が響いた。


草むらの陰から、ひょっこりと現れたのは——雪のように白く、金色の斑を持つ、小さな仔牛。


「え……あなた、どこから?」


私の聖獣言語に応じて、仔牛はくりくりとした瞳で私を見上げ、少しませた口調で言った。


「ボク、ミルフィ。ずうっと昔、王家に仕えてた聖獣の子孫だよ」


王家の、失われた聖獣。


「お姉さんの声、遠くまで届いてたんだ。だからね——次はキミの番だよ、お姉さん」


ミルフィは、ぴょんと跳ねて、私の足元にすり寄った。


私とレオンハルトは、顔を見合わせた。


一人の令嬢の逆転劇は、どうやらここで終わらないらしい。


聖獣の復権。王家を巻き込む、大きな流れ。


でも、それはまた別のお話。


今はただ、夕焼けの牧場で、プリンと、牛たちと、不器用な英雄と。


私は、静かに微笑んだ。


「ええ。望むところですわ」


——牛と辺境伯にしか興味がない酪農令嬢の物語は、まだ、始まったばかり。

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