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26.満月色の記憶

 晴臣はるおみはいつもかけていた青眼鏡を取り、金色の目で吉野と千代を見すえた。


「え……?」


「ひっ……!」


 ぽかんとする千代と、おびえた声を上げる吉野。吉野の顔からは、さっきまでの勢いも色気も、きれいに消え去っていた。


「あらいけませんわ! あたしたち、このあと用事があるんでしたの! それでは、ごめんあそばせ!」


 そう言い放つと、二人は大急ぎでこちらに背を向ける。そのまま、待たせていた車に乗り込んでいった。というより、転がり込んだ。


 中々にこっけいな動きではあるけれど、それが晴臣の目におそれをなしてのことだというのが、どうにも腹立たしい。確かに珍しい色ではあるけれど、そのまま逃げていくなんて。


 いらだちながら彼女たちをにらみつけていたら、ふとおかしなものが見えた。


「……ん?」


 あわてふためいているふたりの姿が、一瞬揺らいだのだ。まるで、水面に広がる波紋のような、そんな揺らぎ方だ。なぜか、背筋がすうっと寒くなる。


 走り去ろうとしている車を見ていたら、勝手に手が、指が動いた。どうしてそんなことをしたのかは分からないけれど、その動きを確かに体が覚えていた。


 指先が、ぽっと熱くなった。そこから、小さな光がふわりと飛び立っていく。


「あれ、は……」


 赤い蛍に似たその光は、ふたりが乗った車のあとを追いかけていって、そのまま見えなくなった。突然のことに、呆然と立ち尽くす。


紅子べにこ


 差し伸べたままのわたしの手を、晴臣の大きな手が包み込むのが見えた。いつの間にか彼はわたしのすぐ後ろに立っていて、わたしを守るように、抱きしめるように腕を伸ばしていたのだ。


「こんな通りで、妙な動きをするものではない」


 妙な動き……わたしの、今の手の動きのことだろうか。どちらかというと、今の晴臣のふるまいのほうが、妙な気もするのだけれど……すれ違う人たちが、じろじろとわたしたちを見てくるし。


「は、はい……」


 けれど素直にうなずいて、そっと晴臣のほうに向き直る。彼はまた元のように青眼鏡をかけていて、目元は前髪に半ば隠れていた。


「さあ、帰ろう」


 わたしの手を取ったまま、彼は歩き出した。わたしたちの、橘花たちばなの屋敷に向かって。


 並んで帰路につきながら、先ほどのことを思い出す。


 わたしの手から飛び立っていった赤い蛍は、いったい何だったのだろう。どうやら、他の人には見えていなかったようだし……。


 晴臣には見えていたのか、聞いてみたい。でも和解したとはいえ、わたしたちの間にはまだわずかに溝が残ってしまっている。今うかつに引っかき回して、関係にひびを入れたくない。


 ……晴臣とろくに話さなかったあの数日は、どうにも落ち着かなかった……いや、寂しかったから。


 だから、今は何も話さないでおこう。後日改めて、何かきっかけが得られたときにでも尋ねてみればいい。それにもしかすると、あの赤い蛍自体、わたしの見間違いだったのかもしれないし。


 静かに微笑みながら、ふたり一緒に屋敷へと歩いていった。




「こう……だった?」


 屋敷に戻ってから、わたしは離れでひとり、首をかしげながら手をあれこれと動かしていた。


「違うような……それとも、こう?」


 あの、赤い蛍。いったんは、見間違いだということにして自分を納得させようとした。けれどこうして離れに戻ってきたとたん、別の考えが浮かんできてしまったのだ。


 もしかするとあの赤い蛍は、術によるものかもしれない。前世のわたしはあやかしと戦うため、様々な術を会得していた。今は何ひとつとして覚えていないけれど、無意識に術を使ったのかもしれない。


 もちろん、晴臣に尋ねるのが一番早いとは思う。けれどそうしたら、また彼を問い詰めてしまいそうで怖い。


 だからその前に、赤い蛍について思い出せないか、あるいは赤い蛍を呼び出せないか、自分で努力してみようと思ったのだ。


「むやみに手を動かしても、らちが明かなさそう……」


 ため息をついて、目を閉じる。こうなったらなんでもいい、前世のことを思い出してみよう。


 眉間にしわを寄せながらうんうんうなっていたら、ふと懐かしい声が脳裏に響いた。


陽炎かげろう様。野苺の実が、なっていましたよ』


 その声に続いて、幸せそうに笑う子狐の姿が浮かんでくる。


 山吹やまぶきは、甘いものが好きだった。他の式神たちが食べられる野草やキノコ、それに野ウサギなどを集めてくる間、彼はせっせと甘い実を探していた。たまに、ミツバチの巣をひとかけらくわえて戻ることもあった。


 ふと、昼間のことを思い出す。わたしのアップルサンデーを口にして、幸せそうに目を細めていた彼の笑顔には、見覚えがあった。


「……子狐と、人間、姿は変わっても、表情は変わっていないのね」


 そうつぶやいた拍子に、また別の風景がよみがえる。


 とても簡素な、ありあわせのものをただ煮て塩を振り入れただけの鍋を、山吹は顔を輝かせて食べていた。おいしいですね、陽炎様。口癖のように、そう言いながら。


「あのころのわたしは、きっと幸せだったのね……戦いのことしか考えていなくて、自覚できていなかったけれど……」


 おぼろにかすんだ風景に、自然と大きな笑みが浮かんでいた。


「……赤い蛍のことは、いったん忘れましょう」


 そのうち明らかになるかもしれないし、ならないかもしれない。けれど、焦ったところで事態がよくなるわけでもない。


 だったら今は、どっしりと構えていよう。ひとつ、大切な記憶を取り戻せたことを喜ぼう。


 そっと胸を押さえて、愛らしい子狐の姿を思い浮かべた。




 その日の夜、いつものようにふたり並んで、庭を見ながらゆったりと話す。戻ってきた日常に、ほっとしていたのもつかの間、もやもやするものがこみ上げてくるのを感じた。


「……晴臣、顔を見せて」


 晴臣に向き直ると、彼の頬に手をかけてこちらを向かせた。わたしのそんな行動が不思議だったのか、彼はきょとんとした顔で見つめてくる。


「紅子様?」


「こんなに、きれいな目なのに」


 空に輝く満月に負けないくらいに美しくきらめく金色の目を、真正面からのぞき込む。


「……わたしの目をどうこう言われるのは、慣れていたの。吉野の言葉は、うっとうしい藪蚊の羽音のようなものとしか思えなかったし、心動かされることもなかった」


 話しているうちに、昼間のことがどんどん思い出されてくる。


「けれど、あのふたりは……あなたの金色の目を見ておびえていた。普通の人間であればありえない色合いだけれど、こんなにもよく似合っていて、美しいのに」


 わたしの赤い目を見慣れているくせに、金の目におびえるなんて、あのいくじなしたち。


「そのことが、悔しくて」


 口をとがらせていたら、晴臣がわたしの手に自分の手を重ねて、とろけるような笑みを浮かべた。


「貴女が褒めてくださるだけで、僕は十分すぎるほどに幸せですよ、紅子様」


 幸せ。その言葉と彼の表情に、告げておきたいことがあったのを思い出した。


「……晴臣。前世の記憶、少しだけ戻ったの」


 そうつぶやくと、彼の表情がわずかにこわばる。なだめるように微笑み、言葉を続けた。


「……森の中であなたと食べた質素な鍋、おいしかった。前世の自分が、何を考えて生きていたのか、きちんとは思い出せないけれど……あのときは、幸せだった。それは、間違いないわ」


 それを聞いた晴臣の顔が、泣きそうにゆがむ。


「紅子様……僕は、貴女の力になれていましたか?」


「もちろんよ。前世も、そして今も、あなたが一番頼りだし、その……」


 すっと、そんな言葉が出てきた。けれどこれだけでは足りないと、そうも思えた。


「一番、大切よ……誰よりも、何よりも」


「ええ、僕もですよ」


 そのままわたしたちは、微笑みながら見つめ合っていた。




 次の朝、とても温かな気持ちで目を覚ます。朝食をとってから一度離れに戻り、今日はどうしようかと考える。いつもどおりの、のどかな一日になるはずだった。


「……あら?」


 ふと、誰かに呼ばれたような気がした。それも、庭のほうから。何気なく縁側に出て、驚きに立ち尽くす。


 赤い蛍が、庭の奥に浮かんでいた。わたしに向かって、まっすぐに飛んでくる。


 考えるより先に、手を差し伸べていた。蛍がわたしの指に止まった瞬間、信じられない光景が頭の中に広がる。

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