24.甘いひととき
晴臣のしなやかな指が、メニューの一点を指している。そこに目をやって、小首をかしげた。
「アップルサンデー……やはりどんなものなのか分かりませんが、あなたが勧めてくださったのですし、それにします」
アップルとは西洋の言葉で林檎のことだ。つまりそれは、林檎を使った料理なのだろう。彼はわたしが林檎を好きなことをきちんと覚えていて、これを選んでくれたのだと思う。
「ああ。楽しみにしていてくれ」
わたしの返事を聞いて、晴臣が給仕を呼んだ。晴臣は自分もサンデーとやらを頼んでいたけれど、わたしのものとは種類が違うようだった。まあいい、実物を見ればどんなものかはっきりするだろう。
給仕が注文を取り終えて立ち去るのを見届け、ふうと息を吐く。いつの間にか、すっかり緊張してしまっていた。
「ここ、しゃれたお店ですね? それに、他人の視線を気にせずにくつろげそうです」
そう言いながら、そっと左目を隠す前髪に触れる。
橘花の屋敷のみんなはわたしの目のことを全く気にしていない。それに、サチさんと話したことで、この目を見られたくないという思いも薄れていた。
そんなこともあって、普段は左目を隠さずに過ごすことも多くなっていた。でもさすがに、外出のときはきちんと隠す。目元を隠した髪を、そのまま耳の上に持ってきて、母の形見のかんざしで留めるのが、最近の装いになっていた。
「他人の視線が、気になるか?」
「そうですね。この目を見て驚く人も、外にはそれなりにいますから」
「だが、君はもう、気にしていないのだろう?」
「ええ」
「ならばいっそ、隠さないままでもいいかもしれないな。それだけ美しい目なのだから」
やけに上機嫌に、晴臣が笑う。こうしてまたふたりで和やかに話していられるのが、嬉しいのだろう。もっとも、それはわたしも同じだ。
「それを言うなら、晴臣様の目も綺麗ですよ? 満月のようですから」
すると彼は、きゅっと切なげに目を細めた。こちらに身を乗り出して、かすかな声でつぶやく。
「……満月色……懐かしいですね」
前世のわたしは、子狐だった彼の頭をなでては、よく「満月色の目ね」と言っていたのだ。彼は、そのことを思い出しているらしい。
「前のように、また頭をなでてあげましょうか?」
にやりと笑って小声で返したら、彼は純粋そのものの笑顔を向けてきた。
「ええ、今夜にでもお願いします」
予想外の返しに、ぽかんとしてしまう。ちょうどそのとき、盆を手にした給仕がやってきた。わたしと晴臣の前に大きくて平らなグラスを置いて、またすぐに去っていく。ごゆっくり、という言葉を残して。
お喋りはいったん中断して、やってきた料理をじっくりと観察することにした。
「これが、アップルサンデー……」
グラスの中には、白くて丸いものが入っていた。その横に添えてあるのは、リンゴを煮たものだろうか。上から、ソースがかけられている。ソースはとろりとした褐色で、甘い匂いがする。
「紅子、溶ける前に食べたほうがいい」
「……これ、溶けるのですか? ということは、氷菓子……」
「ああ。その白いものは、アイスクリームだ。乳と卵、砂糖などで作る」
アイスクリーム。話には聞いていたけれど、食べるのは初めてだ。急いでスプーンを手にし、ひとさじすくって口に運ぶ。
白い塊がするりと溶けて、ひやりとした感触と、甘い乳の香りが口いっぱいに広がっていく。そこに、リンゴの優しい香りが加わって……なるほど、確かにこれはおいしい。
さらにもうひと口、今度は煮たリンゴを食べて、またアイスクリームを……。
「はは、かなり気に入ったみたいだな。珍しい表情が見られた」
晴臣の笑い声に、はっと我に返る。しまった、アップルサンデーがおいしくて、つい無防備な姿を見せてしまったかもしれない。
「あの、わたし、そんなにおかしな顔をしていましたか?」
「いいや、幸せそうな顔をしていた」
そういう彼こそ、すっかり笑み崩れてしまっている。人のことは言えないと思うのだけれど。
「ところで晴臣様、そちらの料理はどのようなものですか?」
話を変えようと、彼の手元に視線を移す。わたしのものと同じ器に、アイスクリームが盛られている。しかしそこにかけられたソースは、黒に近い深い茶色だ。
「チョコレートサンデーだが。かかっているのはチョコレートソースだな」
「ああ、それがチョコレートでしたか。聞いたことはありますが、どんな味なのか見当もつきません」
なんの気なしにそう言ったら、晴臣がふっと真顔になった。
「……紅子。スプーンを置け」
どうしたのかと思いつつ、ひとまず指示に従ってみる。すると彼も、自分のスプーンを置いてしまった。
すると彼は無言で二つのグラスに手をかけ、わたしと彼のグラスをさっと入れかえてしまった。
「……あの、晴臣様?」
「見ていても味は分からないだろう。食べてみろ」
味は気になる。でもこのチョコレートサンデーに添えられているのは、晴臣が使ったスプーンだ。
わたしがさっきまで使っていたスプーンで味見してもいいのだけれど、あっちには林檎のソースがついているから、味が混ざってしまいかねない。
しかしだからといって、晴臣が使ったスプーンをそのまま使うというのも……。
ためらっていたら、彼はまた妙な行動に出た。わたしの前の皿に添えられたスプーンを手にすると、チョコレートサンデーをひとさじすくって、わたしのほうに突き出してきたのだ。
「ほら、食べろ」
「……あの、これではまるで、餌をもらうひな鳥では……」
「僕もそう思う。だが最近の帝都では、こっそりとこういったことをするのが流行っているらしいんだ。その、特に親しい関係にある、男女の間で」
特に親しい関係。彼はその言葉を、やけに強調して発音していた。仕方ない、こうなったら腹をくくって食べるしかないか。迷っていたら、アイスクリームが溶けてしまうし。
口を開けて、晴臣が差し出したスプーンにぱくりと食いつく。さっきと同じアイスクリームのまろやかな甘さに、ほろ苦く香り高いソース……なるほど、これがチョコレートか。味も香りもなじみのないものだけれど、面白い。
「ふふ、おいしいですね。晴臣様にも、食べさせてあげましょうか?」
笑顔でそう提案したら、晴臣がばっと赤くなった。色の白い肌に、血の色がよく映えている。
「い、いや、僕はいい。自分で食べるから。……煮たリンゴも、悪くはないな」
一生懸命平静を保ちながら、晴臣がわたしのアップルサンデーを食べている。しかし動揺を隠せていないのが、なんだかかわいらしい。
それにしても、ここは確かに素敵な休憩所だ。また来たいな。
満面に笑みを浮かべてそんなことを考えていたら、ふとあることに気がついた。
「……晴臣。もしかして、わたしに美味なものを食べさせれば仲直りできるかもって、そう思ったの?」
思いっきり声をひそめてささやきかけると、彼は青眼鏡越しにいたずらっぽい笑みを返してきた。
「……半分、正解です」
「半分?」
「……僕が、貴女とここに来たかったんです。僕の秘密の場所で、貴女と一緒においしいものを食べて、笑い合いたかった」
彼はそっと手を伸ばして、わたしの手を握ってきた。いつも温かいその手は、冷えて汗ばんでいた。
「貴女が近くにいるのに、話すことも、触れることもできない。そんな日々が、辛すぎて」
「……わたしもよ」
どう言葉を返せばいいのか、分からない。けれどこれだけは、確かだった。ああ、駄目だ。これではあまりにも、言葉足らずだ。もっときちんと、伝えないと。
「その言葉を聞けただけで、僕は満足ですよ」
けれどわたしの返答を聞いた晴臣は、また幸せそうに笑っていた。




